トライ☆アングルとは
1993年より丹誠塾(1977年~2013年までの旧丹誠塾)に併設された「不登校の子どものための居場所」の名前です。
1980年代の校内暴力の吹き荒れる学校の後にやってきたのが、「登校拒否」。当時はそう呼ばれていました。1990年代に入って、学校に行かない、行けない子どもがクラスに一人はいるような状況が出てきました。「登校を拒否しているのではなく、学校に登校しない」状態から、「不登校」という呼び名が表れたころでした。
そんな1993年の春から、山下が代表となって、朝10時から塾を開けて、不登校の子どもたちを待っていました。お昼をみんなで食べて、午後の1:00~3:00は塾の講師(西尾、福島、山下ら)による教科の授業をして、夕方5:00までは自由に文庫(みんなが自由に遊ぶ部屋)に居てよいという決まりでした。
午前中は山下が一人なので、地元の広報誌にボランティアを募り、曜日ごとにボランティアスタッフがやってきてくれましたので、一人は塾内に留まり、一人は公園にいくことができました。
子どもたちには一学期ごとに登録して通ってもらいました。10:00~夕方まで(何時に来ても帰っても自由)、月から金まで7年間を通して、6名~10名の不登校の小中高生が登録していました。
ほとんどの子どもが区切りの時期に学校復帰し、数名はその後、スタッフとなって、トライ☆アングルを手伝ってくれました。大人になって、今も付き合いが続いている人もいます。
丹誠塾と遊学会の変遷
1977年2月~ 3人で丹誠塾を始める
1986年3月 田無駅前に塾移転
1993年4月 トライ☆アングル始める(ヤマシタ産休より復帰)
1993年7月 苗場に山荘完成 任意団体遊学会設立
2000年3月 トライ☆アングル登録制廃止
2001年1月 3人で経営する有)丹誠社解散・NPO法人遊学会設立
2013年3月 丹誠塾(福島)閉じる・新しい丹誠塾(のりとくんの)スタート
2018年2月 NPO法人遊学会解散清算結了
一番最初にトライ☆アングルを開講したときから、閉じるまでの7年間の記録を掲載します。
目次
★トライ☆アングルを開くにあたって(1993年2月)
①学校という場所
②ちょっと休みたくなったら
③人が慣れるということ
④朝から塾を開けています
⑤場所は塾ですがなかみは何でしょう?
⑥私の好きなことをお話しします
⑦塾まで出かけるきっかけがないときは私が家まで伺いましょうか?
★一年を振り返って相談から学んだこと(1994年2月)
①家庭の中の学校
②母親として反省をこめて
③こどもが決めるということ
④トラブルから学ぶ関係に
⑤人と居たい、だけど繋がれない
★トライ☆アングルは4年目にはいりました(1996年5月)
①しばらくトライ☆アングルについての文章が書けませんでした
②思いがけない娘の不登校
③隣の母がパニックに
④すんなり許された同伴登校
⑤給食もいただきながら
⑥子どもたちの心はいつも
⑦勝ち気な校長先生で
⑧精も根も尽き果てて
⑨今も綱渡りですが娘は元気になりました
⑩同伴登校について
⑪最後に、トライ☆アングルの子どもたちに救われたこと
★世紀末の改訂版 (1999年6月)
①放浪というクセ
②出席扱いする学校が増えて
③小学校低学年を受け入れて
④親の替わりを期待されて~食べることは生きること~
⑤ではトライ☆アングルは何なのか?
⑥人の中で生きること
★まずは新世紀の教育論から(2000年3月)最後の案内書です
①昔、田無「ひとの会」で勉強したこと
②我が子はみんないい子・・・
③いい子だけが我が子・・・
④なぜ「食」にこだわり、「ごめんを言うこと」にこだわったのか?
⑤トライ☆アングルの舵取り
⑥不登校の子だけを囲いたくない
⑦ひとの中で疲れ、傷づいた者は最後には人の中で元気になるしかない
⑧トライ☆アングル登録制の見直しの後
⑨今、不登校の子も通う場として丹誠塾は存在します
⑩トライ☆アングルは相談窓口・・授業はたくさんのスタッフとたくさんの同世代の友人と
⑪今の課題・・・家にいるときから外へ出るときのきっかけづくりが難しい
トライ☆アングルを開くにあたって 1993年2月
①学校という場所
一人の母親として学校のあり様を思うとき、ため息のでることがよくあります。毎日の子供の時間を安全にかつ有効に分刻みに決めて大人は安心しています。『管理』という言葉で表されるのがこの状況です。商品管理・品質管理など、物相手の場合必要なこともあるでしょうが、こと教育現場では『よけいなおせっかい』ということが多いです。生きているものを相手に管理しようとなると、必ず、そこのバラツキが気になります。個体差があるのが当然なのですが、そのバラツキを能力という言葉にして、効率よく教え込むために分けて教育しようとします。まず、就学前に障害児を分けて別の所で教育します。次は受験という一見公平な基準のように見えて『物事の要領の良さ・記憶力の良さ』という基準で優劣をつけて分けます。試験での得点力はその子の能力のすべてと思われてしまいます。
効率化は均質化にずいぶん助けられるようです。
こどもはよくにたこどもたちの集団の中で同じ様に振る舞うことを、そしてひたすら頑張
ることを教えられます。日本の社会が求めている事を、敏感に反映しているのが学校です。みんなと同じ様に振る舞うこと、ひたすら頑張ることは今の日本社会の必須条件のようです。
多くのこどもたちはその条件を知らず知らず受け入れていきます。しかし、頑張ることが果たしてそんなにいい事なのでしょうか?「頑張り通す」ことで自分をうんと痛めているこどももいるのではないでしょうか。身体にあわない服を身体が合わせて着ているという状況は生まれていないのでしょうか。
まあ、こどもは考えている以上にパワフルで、したたかで、上手に立ち回ることとは思い
ます。母親としてただ我が子の生命力を信じ、『しないがまし』のという事を親として慎むしか手はなさそうです。
②ちょっと休みたくなったら
ひたすら頑張ることを求められ続けると、へとへとになることもあるでしょう。そんな時
はちょっと休んで自分をいたわってあげることもいいと思います。私は学校に行かない状態(不登校といいましょうか)のことを、治療を必要とする病気のようには考えていません。
一番困っているのは本人でしょうし、一番行けたらいいなと思っているのも本人でしょう。
行きたくてもパワーが出ないとき無理だと思います。学校や親が求めているものに応じきれなくて、『ちょっと、一息入れよう』と自分のどこかがささやいているのなら、「今はこういう時」と考えてゆっくり自分を感じる時にしたらどうでしょう。
③人が慣れるということ
私は気功法という中国の健康法をやっています。その割にはちっとも痩せないネ・・・と、
これから気功法を始めようとしている人をがっかりさせています。 それはさておき、先日の練習の時、一つの動作を6分間ずーとやることがありました。最初はきちんとしようと緊張して動きます。そのうち3~4分経つと、疲れて止めたくなります。それをちょっと我慢して5分経過するとフワッと楽になることがありました。原因はその動作に体が慣れて『力を入れずに続けることを覚えた』ためのようです。なんでも最初は上手くやろうと力を入れ、少々疲れた頃を経過すると、『力をぬく』ことを覚えていくようです。
慣れるというのはこの『力をぬく』ことを身体や心が無理なく受け入れた状態をいうので
しょう。
ただ、今の学校はなかなか慣れさせてくれません。『力をぬいて』いては通用しないよう
な場面が多いようです。どこまでも「頑張れ、頑張れ、」と力を入れることばかりを求めます。また、少々疲れたままの状態で続けていて、何の変化もなくつらい状態が重なっていくと疲れてきます。
そういう時は一息入れて、全身の力を抜くことが肝心だと思います。『不登校』という状態はこの心底疲れた結果ではないでしょうか。
④朝から塾を開けています
私の仕事は塾で考えることでした。学校を終えて夕方からやってくるこどもたちのほんの
短い時間ですが、面白い時間を一緒に過ごせるよう準備して待っていました。夏休みなど、長い休みには朝から塾はやっていますが、ほとんどは放課後のこどもたちと付き合っていました。1993年からは、朝から塾を開けることにしました。学校に行かないで家に居たかったから、それでもいいし、もし家以外の場所で過ごしたくなったら、出かけてきませんか。
⑤場所は塾ですが、なかみは何でしょう
午前中の内容はみんなで相談して決めます。何にも予定しないでおしゃべりで過ごすもよ
し、出かけるのもよし、何か作るもよし。
午後は一応教科は決めていますが、学校の補習のためではなく、本当におもしろいもの、学んでみたいもの、そういうものをこれもまた、みんなで考えましょう。教科の担当は丹誠塾のスタッフの西尾・福島がおもに当たります。私(山下)は英語を担当します。
⑥私の好きなことをお話しします。
私の好きなことは『人と話すこと』と『土をいじること』です。話すときはお酒があれば
なお楽しいです。土いじりは陶芸も、園芸でも好きです。これは一人で静かにやっています。土をいじっている時は私の中の「静」の部分を感じています。誰でも「動」の部分と「静」の部分を持っているんですね。
⑦塾まで出かけるきっかけがないときは私が家まで伺いましょうか?
みんなと作る空間から極力「おしつけ」という事を排除したいので、ここに通うことにつ
いても本人が決めて下さい。家が自分にとって居心地が良くて快適なら、それでも良いでしょう。もし、それだけで、あきたらず、家以外の場所で楽しみたくなったら、仲間を作りにやってきてください。ただ最初のきっかけが出来ないときは、ご相談下さい。私がちょっと顔をのぞきに伺っても良いです。週に一日はその日に当てています。これも、あくまでも、押しつけがましくならないように気をつけましょう。
自分と親の2点だけではつまらなくなったら3点目の点を探しに来ませんか。3点が出来
たら平面ができて自分のまわりに新しいがりが生まれてくるかも知れません。家の中で酸素欠乏になったら、出かけてみませんか………。こういう意味でトライ☆アングル(三角形)という名前にしてみました。そして、ちょっと角度(アングル)をかえて自分の可能性に向かってトライしてみて下さい。
一年を振り返って相談から学んだこと 1994年 2月
①家庭の中の学校
1993年の2月より相談を受け始めてちょうど一年経ちました。集計してみますと、相
談件数110件、来塾した保護者55名(組)、来塾した子供20名を数えました。なかなかここまで足を運べる子は少なかったですし、逆に「もう少し家にいたいだけいさせてあげて下さい」とお頼みしたケースも多かったです。
いろんな相談を受けながら、不登校について私が考えても見なかった一つのアングルが見
えてきました。私はもともと学校が元凶で、学校のもたらす緊張に耐えきれず、自分を保護する行為として『学校に行かなくなる』と単純に考えていたきらいがあるのですが、緊張は学校だけでなく家にも存在したようです。日本の社会が学校の管理教育を生み出し、学校はもう子供にとって息苦しい場所になってしまったのみならず、家に帰っても学校の持っている空間が延長されてきていることに私は気がつかなかったのです。この一年相談を受けながら、家を代表する母親のみなさんとお話ししてお母さんの真剣さ、まじめさ、そして果てのない不安感を強く感じてきました。皮肉なことにお母さんが真剣に真面目にそして不安になればなるほど、子供は身の置き所をなくしていくようです。トライ☆アングルに通ってきている子供たちのお母さんはこの真剣さ、真面目さ、不安感をやっと越えて、親子で楽になったケースが多いようです。
うかつにも『家庭にも学校にも学校と同じ緊張があった』と、110件の相談を受けてや
っとわかった私でした。
②母親として反省をこめて
この一年間いろんな親と子を見てきて、私自身も母親として反省すること大でした。自分は学校と一緒になってこの社会の養成を当たり前のこととして受け止め、『あなたのためよ』と言いつつ我が子を頑張りレースに駆り立てていないだろうか……、と。
こどもと大人を力関係で見ると腕力も経済力も経験からくる表現力も……いろいろな点
で大人の方が有利です。それはもう、二者が一緒に存在するだけで大人はこどもを威圧しているわけです。存在として強者なのです。
私の子育てを振り回すと、誠に恥ずかしく、氾濫する情報の中のアップ、アップしながらの子育てでした。何時にミルクをどれだけ与えるか(私の場合、出ない母乳をを恨みつつミルクを与える罪悪感に苦しめられ続けられましたが)、いつからおむつを取るのか、指しゃぶりはいいのか、早期教育の必要性は………などなどたくさんのマニュアルが存在し、情報の量だけ『不安』は増えました。そしてその『不安』によって母親はどんどん、子供に支配的になっていきます。私たちのおかれた子育て空間は、近くに頼るモデルもなく、相談する人もなく、不安だらけの母親が作る母子密室の世界だったように思えます。マニュアル通りに行かないと「将来、人並みについていけないのでは……」という不安がつきまとい、人並み、人並みという目標達成点をいつも意識しています。公園で遊ばせるときも『私』ではなく、『○○ちゃんのママ』で人と付き合います。同じ月齢の子と遊ばせたくて、またいつものメンバーで遊ばせたくて、母親どうしの排他的空間ができあがる公園もありました。一番いてほしい子育ての時期に父親は超忙しく、『行く先不安』という荷物を背負った母親が懸命に育児と戦っている。不安を抱えた母親は、どうしてもやることが皆一緒になっていきます。
人と同じように、自分もそう深く考えたくないし、まして子供にも考えさせない。学齢前にピアノ、スイミング、サッカー、習字、公文……。どれだけの子がその必要性を自ら自覚し、自ら訴えて、通わせてもらっているでしょう?ほとんどは親の誘導による疑似意思決定によるものではないでしょうか。(わたしも塾を仕事としている身で習いごとの否定をするものではありませんが……)ようはだれが決めたかということです。
こうやって、『行く先不安』からくる『人並み願望』という制服を着せられて子供は就学していくのです。そこには「こどもが○○やりたい……」という気持ちを持つ前にすでにやりたいことはパッケージされて、待っているのです。
③こどもが決めるということ
習い事こそ、させたことはありませんが、私自身も今まで、どれだけこども対大人の力の関係の中で「こどものため」という名のもとにこどもを振り回し、傷つけてきたことか、そして非常に支配的であったことか……と思います。二人目の子ができたころはいらつき・不安のピークで「何が愛情なのか、本当にこの子を愛していけるのか」と悩んだこともしばしばでした。幸い、辛いことを辛いといえる伴侶がいて、彼が子育ての半分を担ってくれたおかげで、『まだまし』という程度の傷つけ方だと思っていますが、なるべくフェアーに決めていこうと家庭の中で心してても、つい親としての力を奮ってしまうことがあります。深い反省を込めて告白します。
そんな我が子もおととし小学校に入学しました。初めのうちは心配で「今日、学校で何やったの?」と聞いてしまう私に、息子は困ったような顔をしながら「それはオレの秘密だよ」と言い放ちました。そのときから、つまり息子の心の中を自分の心配のために覗こうとする母親を拒絶された時から、すこしフェアーな関係が出来てきたようです。見守りつつも、最後には『子どもが決める』ということ、『決定を委ねた部分については大人がその決定を力関係でひっくり返さない』・・・・そんな訓練の真っ最中です。
④トラブルから学ぶ関係に
子供を思い、転ばぬように、傷つかぬように親が先回りして決めていくことは本当は親自
身の安心のためであることが多く、結局子供から判断力を摘み取っていく行為です。こうされてきた子供は親の判断が自分の判断であると錯覚しているのです。言われた通りにやってきただけなので、親の判断がない場所では自分だけではどうやって判断して良いのか途方に暮れてしまうのです。
また学校内でも「やるべきこと」はすべてパッケージされて待っているので、こどもたち
自身で決めていくような余地はありません。家庭でも学校でもこどもたちは本当に意味で主人公になっていないのが現状です。
このように『自分で決める』ということが当たり前になっていないこどもたちは、ちょっ
とした人間関係のこじれに非常に悩むことがあります。例えば、友人間でトラブッてその原因が誤解から始まっていたとします。そんな時はどこから話が違ってしまったか、じっくり、話していきその誤解の箇所まで戻って話を詰めれば良いわけですが、そんな関係を修復する能力はとても高度な能力だといえます。それはいろんな場面で、みんなで頭を働かせて、知恵をめぐらせ、「解決するのは自分たちだ」と当事者意識が育ってからの話です。残念ながら、今の日本の社会に子どもたちにトラブルを回避する術は授けても、トラブルから学ぶ余裕は与えてないように思えます。
誤解をもとに自分を理解しない友人は恐ろしい存在です。その誤解を解かないとお互いの
無理解からどんどん新しい誤解を生みだしていきます。そうなるとあとは彼らは守りを固めるしかないのです。守りつつ人と付き合うのは辛いことです。こうなる前にもう少し何とかならなかったのか、こどもたち自身に問題を解決していく力をつけられなかったのか、と思うことがあります。
⑤人と居たい、だけど繋がれない
トライ☆アングルの子どもたちを見て
いて思うのは、友達がほしい・自分をわかってほしいという欲求は強いのに、こんなのはまだ友達じゃない、こんなのは自分を分かったことにならない・・・・といつも不満げで満足感が少ないことです。
友達を作るということはもともと胃や腸を動かすことと同じで、人間の体が勝手にやって
ることに近かったのではないでしょうか。どうやって自分の胃を動かすのかなどとレクチャーを請う人は余りいないはずです。人が会ってそこに偏見や誤解がなければ、そして回数を重ねて会っていけば、おのずと気持ちが触れ合い、お互いをよく知っていくことになります。
それが「友人」だと思います。会って、お互いを知っていけば・・・・・ということで可能なことなのですが、どうも、みんな特別なノウハウがあり、人に好かれるにはどうしたら良いか、誰と一番に親密になるか・・・・・など「親友願望」にふりまわされています。親友とはなんでも話せて、趣味の話もよく合って、なるべく長い時間を共有するもの・・・・・などと一人で定義づけています。そんな親友を持たない自分は不幸だ・・・・とこうくる。
私はそんな意味での親友は今まで持ったことがありません。大学時代などあまり大学に行
かなかった私はクラスの女の子と半年ぶりに会って喋って、それでも、いわゆる親友という感じで心の交流はあったように覚えています。事実今も、親しく付き合っています。
ウマがあうということがありますね。だれでもウマがあうというわけにはいきません。こんなものはそれこそノウハウはないので、ただひとつ私がみんなにアドバイスしていることは『率直さ』です。この『率直さ』というポイントが欠ければ、どんなに回数会っても、どんなに趣味が合っても、心が通じあえたということはありません。『率直さ』を言い換えると素のままの自分を出してつき合うということです。これだけしか私もよく分からないのです。でも、残念ながら、『親友願望』の子の納得のいく答えになってないのが現状です。
学校での緊張、家での親の支配、また集団の無理解のもとで、傷つき疲れた身としては、何の武装もせず、素のままの自分をさらけだして人と繋がるということは、本当に足がすくむ思いなのかも知れませんね。それは長じた大人にとっても永遠のテーマなのかも知れません。
これからもトライ☆アングルという居場所では素のままの自分をさらけ出して、人と繋が
ってほしいと願っています。(代表 山下由美子)
トライ☆アングルは4年目に入りました。 1996年5月
①しばらくトライ☆アングルについての文章が書けませんでした。
長い間、案内書の改訂版が出せなくて、同じ内容の案内書に年度の日程だけ付け替えて印
刷していました。
なぜかというと大っぴらに自分の考えを書く『気』がしなくて・・・・、そんな期間がず
~と続いていました。そしてもう1年と4ヶ月が経ってしまいました。なんでこんなになったかなぁ・・・と考えつつ、他の仕事を優先してやっている自分がありました。この状況は一本の電話から始まったような気がします。
その電話はトライ☆アングルへ決別を告げる母親からのものでした。長年塾をやっている
者としては退塾を告げられる電話ほど辛いものはありません。が、しかしその電話は「トライ☆アングルに子供を通わせていたが、山下の人格のあり方に強い不信感を持っているので退会する」という内容だったのです。そして今まで言えなかった私への不満・不信が数限りなく一方的に述べられました。
私はひと通り聞いて、子供自身の意思がそうなら仕方がないということと、一方的な不信
感の源となった2~3の事件について、私の側からの説明をしようとしたのですが、その母親は「あなたの言葉より私は息子の言葉を信用する。不登校の子の心を扱う人がそんな、ひどい人間でこれからつとまるのか・・・・」といったように感情の領域で話をされ続けました。
ひとつ事件を紹介します。
トライ☆アングルでは合宿に出かけることがよくありました。そんな時はみんなで食事を
ドーンと作って中央に置き、各自の小さいお皿でとって食べていくことがあります。そんな時、潔癖な子もいて大皿から自分の皿にとっていく時は、そっと食べ物をつまんで運ぶ子、ハシをひっくり返して使う子・・・・いろいろいます。そんな中、その母親の子であるS君は自分のハシをたった今しゃぶったばかりで大皿の食べ物をかきまわしておいしいものを物色したのです。そういう事をする子も今までいたように思うのですが、その時はみんななんとなくS君が「どうだ~こんなことしたぞ~」というように、ちょっと挑発的に見えたので『イヤダナー』という空気が出来上がってしまいました。そんな時、上級生のゴツイ子が「こらっ、キタネエナ、かきまわすな」と言えば、ことはおさまるのですが、その時はだれも何も言わず、シラッーとなってしまったのです。
そのまま黙っているとS君のハシをしゃぶっては大皿をかき回すという動作が食事中、何
度も繰り返されそうになったので、私が「S君、お箸をなめてかきまわすのはやめようよ」と言いました。S君は「うう~ん、家じゃ、いつもこうしてるよ」というので、だれかが、「家でしててもこういうところはかきまわさないの。」と言いました。
でも、S君は「ふ~ん、へんだなぁ」としっくり納得した顔をしてませんでしたので、私
が「家族くらい親しい人どうしだと、ハシとハシで直接とって、一緒に食べるのって楽しいよね、だれかが気にしておハシをこうやって逆に持って唾がつかないように食べ物を運んでいると『じかばしでどうぞ』といって自由にやりましょうというようになるんだけど、その場合もやっぱり最低の気遣いがあって、あまり唾つけてかき回さないようにみんな気をつけているのよ・・・・・」となんだか回りくどい説明をしてしまいました。
それでもなんとなくS君はしっくりいかない感じでしたが、だれかがトリバシを持ってき
て、その場は終わりとなりました。
そしてその食事のあともS君はハシをしゃぶってはお皿をかき回すということをくり返
したので合宿中、皆のひんしゅくを買う場面がたくさんありました。一度言われたことをその場では分かるですが、次の場面ではもうすっかり忘れるという特徴がS君にはあるようでした。
長い説明になりましたが、山下批判を告げる母親はその時の話を持ち出して「山下はとて
も神経質で子供をおおらかに受け止める力がない。合宿から帰って『いろいろ注意されてイヤだった』と子どもが言っていました。もっと細かいことを気にせず、子どもを受け入れられないのか」という主張になるのです。
食事の際の作法については基本的には家庭の問題なので山下が出る幕はないのですが、ひ
とたび家庭の外へ出て食事するとなると社会的な行為です。「S君のいつもの食べ方に皆の感覚がイヤだなといっていて、まわりから総スカン状態になりそうだったので、山下が中に入って関係を調整したのです・・・・・」という意味のことを伝えたのですが、相手は私の言葉の終わらないうちに自分の思いをぶつける状態になってしまっているので、もう話のできる感じではありませんでした。
最後のほうになると、『山下のように人の気持ちを理解しようとしない人がトライ☆アン
グルをやっているなんでおかしい。いままでみんな本当の事を言わず、黙って去っていったに違いない。私は本当の事を言ってあげます。あなたは本当は人の気持ちなんかちっとも感じない冷たい人間だ。』と、言ってすごく嘘っぽく作り笑いを続けるのでした。
私はその作り笑いを聞いたとき、もうこれ以上この人と話を続けると、私のどこかがダメ
になるなぁと感じ、「わかりました。S君によろしく、力及ばず残念です。」意味のことを言って電話を切ったのを覚えています。1年4ヶ月前の出来事です。
そらからもずっとトライ☆アングルについての文章を書く段になると、この電話のことで
心がチクチクして1行も文が書けない自分がありました。
今から冷静に思えば、私がS君としっかり理解し合っていなかった事が大きな原因だと
思います。もともと他の人と理解し合うことが難しいS君だったのですが、その事をお母さんともっと話し込めば良かったと思います。
1学期に1度ずつくらい彼女と話す機会はあったのですが、彼女の話はS君の事ではなく
『いかに学校が彼に対して無理解か』という話に終始していました。私は塾でのS君を伝えてS君自身問題を伝えていたつもりなのですが、彼女にとってはS君をそのまま受け入れてくれる人は『味方』、S君の一部分でも問題視する人は『無理解な敵』という図式があったのでしょう。私の言葉もS君を認めている部分は耳を傾け、他の子とのトラブルの話などはどういう風に聞いていたのか、今ではわかりません。そういう時の山下の勘の鈍さが悔やまれます。山下としてはS君の問題点を彼女に伝えながら、だんだんと共通理解が出来てきたように考えていたからです。
実際は私はS君ともその母親とも何も共通理解を広げないまま、約一年間を過ごしていた
ことになります。そして何かのはずみで、S君の言葉にスパークしてしまった母親と、急に考えもしたこともない言葉を浴びせられ、動転している山下が、電話で通じ合えるわけがありませんでした。
苦い体験として1年4ヶ月前の事を告白しました。
②思いがけない娘の不登校
苦い体験を告白した後は、やはり文章を書く余裕を私から奪ったと思われるこの一年余り
の我が家におこったことを報告します。
個人的なことに違いないのですが、やはり書いておくべきだと思い記します。
ちょうど今から一年前になります。
我が家の第二子(娘ですが)も、やっと小学校に入り保育園の送り迎えがなくなってホッ
としたのも束の間、5月の連休明けから、水の枯れた切り花のように娘が萎びてきてしまいました。朝起きても元気がなく、顔の表情も乏しくなっていました。日曜日は元気なのですが、月曜日になると萎びるのです。気がつくと娘はダンボールの中に入って遊ぶことを好むようになっていました。月曜は休んで、火曜は遅れていって、水曜・木曜は休んで、金曜は行く・・・・・という感じの登校状態になっていました。
私たち親は迂闊にも上の兄の時には慎重に学校への適応を見守っていたのですが、妹に関
してはマークが甘かったのです。『妹の方はしたたかに適応するはず・・・・』と何の根拠もないのに思っていたのです。
娘は4月からの始まった生活に1ヶ月でへとへとになっていたのです。仕方がないので一
つ一つ肩にかかった重荷を取り除いていきました。まず、一番上にあったのが学童クラブのドッジボール、その次は集団登校の○○君のどなり声。次々に娘の話を聞き、解決できるものは解決していきました。そして家が良いなら、居心地良いようにして、元気な朝だけ登校するような生活をつくっていきました。そんな風にして私たち親は娘の生気が戻ってくるのを見守っていました。
③隣の母がパニックに
そんな状態を隣に住んでいるつれあいの福島の母がもちろん知ることになり、心深く悩む
ようになりました。自分の孫が学校へ行けない原因を懸命に探したのでしょう。ある時、電話で「あなたが(山下のこと)髪をおかしな色にしたり、リュックしょって登山するみたいなかっこうで仕事にでかけたりするから、学校でいろいろ言われて、イヤになったのかもしれない。」と、娘の不登校の原因を私の髪や服装のせいにするのでした。その時は反論するより、母の心配の深さにびっくりする思いでした。正直言って事情を知らない田舎の母(山下の母)の方が、知らないから何も言ってこないぶん有り難かったです。70才近くで我が孫が学校へ行かなくなったら、もう天と地がひっくり返ったような状態になっている隣の母でした。良妻賢母の母にとってムリもないことだと思います。
私と福島は娘の元気回復を見守りつつ、隣の母のガス抜き、つまり心配する気持ちを聞い
て、「大丈夫、いつかよくなる」と言い続ける仕事を抱えながら、5月は後半を迎えました。
④すんなり許された同伴登校
ある月曜日の朝、娘が「お父さんかお母さんかと一緒なら学校いきたいなぁ」と言いだし
たので、私たちは内心『ちょっとこまったなぁ』と思いましたが、まず、学校が許すかどうかもわからないので、一度聞きに行こうと言うことになりました。山下一人で出かけようとしたのですが、娘が「私も一緒に学校へ聞きに行く」と言うので、二人で出かけました。
ちょうどうまい具合に学校に入ったところで担任の先生に会いました。しばらくぶりの登
校なので先生も喜んで、すぐ娘の手を引っ張って教室へ連れていこうとします。娘は怯えて私に説明を促すのでした。気がつくと、娘は学校で声が出ない状態でした。
私は「娘が父か母かと一緒なら、学校へ来たいと今朝いいますので、父か母かと一緒に教
室へ入って授業を受けて良いか検討して下さい。」と担任に言いました。「それだけ言いに来ましたので結論が出たら、伝えて下さい。」と言って帰ろうとする私と娘に担任の先生は言いました。
「いいですよ。お母さんと一緒だったらお勉強できるんなら、一緒でいいですよ。今日からどうぞ。」
私はもう少し時間をかけて、校長とも相談したりするのかと思っていたので、こうもあっ
さり許されてびっくりしました。
⑤給食もいただきながら
それから一学期の終了するまで約2ヶ月間、我が家の同伴登校が続きました。月・木・金
が父、火・水・土が母・・・・・とローテーションを組んで朝8時から登校班で登校し、午前中4時間授業を受け、給食もいただいて帰ってきました。福島は夜遅く帰ってきて翌日の準備を深夜までやり、朝は子どもと一緒に登校して行きます。学校と仕事の両立はひたすら睡眠を削って成り立っていました。
私たちは塾で子どもに勉強を教えている仕事なので、担任の先生もプレッシャーのかかる
ことだったと思います。
一年一組の子どもたちはみんな元気で、娘よりずっと上手に適応しているように見えまし
た。40名の満員の教室はギュウギュウで窓よりや廊下のよりのほんのちょっとの隙間にや
っと私のイスを押し込む感じでした。
娘をみていると『全身、これ耳』という状態になって先生のことを聞いています。先生が
ちょっと曖昧な指示を出したり、突然に指示が変更になったりした時は、ずいぶん戸惑っていることがありました。全身耳になって聞いている分、曖昧な一貫性のない指示には強く戸惑い、適応できないことへの不安で潰れそうになっている娘の姿がありました。
担任の先生は柔らかく人あたりの良さそうな人なのですが、子どもたちの気持ちをつかみ、自分の気持ちを伝えるということにおいては大雑把で迂闊なことが多かったです。
40人の学級で授業中、同時に2カ所で小さなケンカが起こっていても気がつかずに、授業をマイペースで進めるということは日常茶飯事でした。
⑥子どもたちの心はいつも
私たち親がまずビックリしたことは配られるプリントは大学生が読むにしても不親切なくらい印刷が不鮮明で、わかりづらいことでした。実線と点線の差が分からないくらいでし
た。そして娘のクラスの担任は国語の授業をそのプリントに頼ってやってました。
ある時、娘が不安そうな顔をして国語の授業を受けていますのでプリントを覗くと順番が
変でした。教科書をなぞったようなプリントの内容なのですが、場面がいきなり、2番なのです。前日休んだので1番を貰わなかったのかなぁと思っていました。娘は飛んでしまった内容を一生懸命考えていました。
そしてその次の日、どこかに置き忘れていたのか、1番のプリントを持ってきて、「昨日のはこの後なのよ・・・・・」と誰に聞かせるつもりか小さな声で言って、ウヤムヤにして1番のプリントをやらせました。子どもらの顔には疑問というより混沌という無表情があったような気がします。
一度、こういうこともありました。授業中に担任が自分で黒板に書いた字をバーッと自分自身で消しました。次の瞬間何も書いてない黒板を見て、「だれ、ここの字を消したのは?」とすごい剣幕で子どもたちを叱るのです。子どもたちはあっけにとられてポカーンとしていましたがああ、先生は怒りが一段落したら、私の視線もあったからか、『だれが黒板を消したか』ということはウヤムヤになり、変な感じで授業は終わりました。あれは一体何だったのでしょう。
またある時、プール開きを前にクラスの代表を決める時のことです。先生が「みなさん、プール好きですか?」と尋ねました。子どもたちの手が挙がります。○○ちゃんが当てられて、「はい、先生あのね、私ね、スイミングで5才の時にね、・・・・」
「うるさい!あのね、好きかどうか言えばいいの」と先生は言い、次の子を当てました。
次の子もまた、「あのね、僕もね、プールはすきだよ。うちの兄ちゃんと・・・」「あーうるさい、」と、またもや先生は発言を途中でストップさせるのでした。時間が押していて早くクラスの代表を決めなくてはならないことは分かりますが、風船のように膨らんだ一年生の心を先生の「うるさい」の一撃で萎ませてしまうのが、いかにも残酷で見ていられませんでした。
同伴登校の結果見えてきたのは、集団の中の娘の姿と、「先生」という落とし穴に落ちてしまっている一人の『教師』の姿でした。それは○年○組の一国一城の主となって、誰からも検証を受けることなく、澱んだ空気の中で生き続ける『教師』の姿でした。本当は子どもという存在に厳しく検証されているのですが、子どもの声は小さく迂闊な『教師』には届かないことが多かったです。子どもの声が確かに聞こえる教師は随所に変わるチャンスが用意されていると思うのですが・・・。
新学期の担任発表に『当たり・はずれ』といって一喜一憂する親子の姿があります。『賭』から始まる学校生活なんて歪です。この歪さはどこから来るのでしょうか?
一つは『あなた、その対応は変だよ』とお互い言い合えない、何の検証能力を持たない教師集団にあります。
もう一つは我が子がよほどの問題行動を起こさない限り、学校のやることは受け入れる・・・・そんな雰囲気が家庭にあることです。だから、井戸端会議では担任の批評を感情的にはするけれど、本当に担任の適性を自分たちが論じてよいか疑問を持っているのです。
私は任せることも大事だと思いますが、その前提になるのは信頼出来る人だという感覚だと思います。結局、歪さの犠牲になるのは子どもだからです。
***そんなクラスの中で、一年一組の子どもたちの心はいつも先生やクラスの仲間に届かず、まとまらず、集中したいという子どもたちの身体はいつも散漫に混乱の中に消えていきました。
担任の先生に対しては、私はプレッシャーを与えること避けてなるべく教室いる時間を短
くしていこうと思っていました。
福島の方は教科書で新しい単元に入る度に、おもしろい教材をせっせと渡していましたが、彼女は丁寧に御礼を言って手元に保管し、あまり興味を示すという感じではありませんでした。福島はよく言っていました。「もう少し、授業を工夫したら、もっと子どもは混乱が少ないんだけどなぁ。」
⑦勝ち気な校長先生で
同伴登校を始めてしばらくして、校長先生と話す機会がありました。昨年までの典型的な
「管理者」の校長は転勤していて新しい校長になっていました。新しい校長は女性でとても率直な話をする人でした。
校長は「担任の問題があなたのお子さんの不登校の原因なのか?」最初から尋ねてきまし
た。私は「担任の問題もその一つかも知れない。今ははっきりと分からない。ただ、娘が家にいたいと言えば居させるし、学校へついてきてくれと言えば同伴登校をしようということだけを家庭で今、結論を出しています。その線で学校も協力してほしい。」ということを伝えました。
校長は担任とはタイプが違うらしく、どちらかというと彼女を冷淡に評価しているところ
があり、そういうことを保護者に感じさせる管理職にまず驚き、そしてこれはどちらか一方にスタンスをおいて発言するのは良くないな・・・つまり感情的に担任の悪口で話を終えてはいけないな、具体的にこちらの希望を出していった方がいいと直感しました。
そして、私は慎重に言葉を選んで「今の担任の適性に疑問」ということを伝え、「今の担任の2学期以降の続投がありか」を尋ねました。校長の答は「学期途中の交替はよほどのことがない限り無理。替えるなら2年から・・・・」「私も授業を見てみます。」というものでした。
その後は専ら福島が校長室へ行きました。福島は校長への授業の感想を具体的に使用した
プリントなどを示して、話していたようです。校長は「こんなプリントを一年生全員が使っているのか?」と驚く場面もあったようで、どこまで本当にやる気か分かりませんが、学年で話し合うような事を言っていたようです。
⑧精も根も尽き果てて
同伴登校も一ヶ月を過ぎると娘は全身を耳にして先生の話を聞くということはなくなっていました。他の子と同じように授業中、お友達と喋っていたり、書かなければいけないこ
ともすっ飛ばしていたり、何でも程々に聞くようになってきました。大勢の中の一人になることに慣れて来たようでした。
でも、一人じゃいけない・・・・・という状態は続いていたので、親は大変でした。私た
ちの塾での仕事がもう限界に来ていました。福島は午前中、家の仕事を終えた後は授業づくりのために図書館へ行き、アイデアを練ることを日課としていました。そしていつも子どもを引きつける新しい授業を作り出していたのです。が、娘の同伴登校を始めてからは一つも新しい授業が生まれなかったです。すべて去年までのアイデアの焼き直しで、塾に授業時間にぎりぎり飛び込むという生活が続いていました。
山下は火曜のトライ☆アングルの担当を福島に変わってもらって同伴登校を続けていた
ので、塾に来る日が極端に少なく、月・木・金だけとなっていました。その中でトライ☆アングルの相談などの仕事、塾の会計の仕事をこなしていました。
そんな風にして私たち親はよれよれになって、やっと夏休みを迎えました。
⑨今も綱渡りですが娘は元気になりました
夏休み明けて、2学期の初登校の朝、娘に私たちが言いました。
「本当は○○ちゃん(娘の名前)がいいよ、というまで学校へ一緒に行ってあげたいけど、仕事がたくさんたまっちゃって夜も寝ないでいろいろやっているけど、これ以上無理すると、お父さんもお母さんも辛くて病気になりそうだから、もうついて行かないよ、一人で行くのが辛いなら学校を休んで、一人で行けるときだけ学校行ったらどうかなぁ・・・・・」言いました。娘は不安そうな感じでしたが、『じゃ、しかたないなぁ、』という顔をして、一人で学校へ行きました。
冬になり始めた頃一時不安そうにして、元気をなくした事もありましたが、その後は一人
で登校しています。
今は2年生になり、担任の先生も変わってまずまずの元気さで学校へ行っています。1年
の頃は学校の話を娘がすることはまずなかったのですが、今はポツポツ今日学校でね、○○ちゃんが先生に叱られたんだよ・・・」などと話すようになってきました。
同伴登校ももう格好悪くなってきたこともあり、親の負担になることもよく分かっている
ので、娘は娘のペースで学校と付き合い始めたようです。
今後のことは全く分かりませんが、娘の学校生活は確実にスタートしたようです。
⑩同伴登校について
こんな風に書いてきますと、子どもが学校へ行けなく悩んでいる家庭にとって同伴登校が
特効薬なのではという錯覚を起こしてしまうのでは・・・と危惧しています。私は同伴登校を通して見えてきた学校や我が子を書いてつもりです。同伴登校という方法はあくまで我が家の娘の場合であって、当然どの家庭でも私たちのように父と母でローテーションを組んで毎日学校へ通えるわけではありません。付いていってあげたくでも仕事の関係で絶対無理と言う場合も多いでしょう。また、子どもが付いてきて欲しいという年齢も限られていると思います。
今、トライ☆アングルは小学校低学年の子どもも通ってきています。(これは1996年の話
です)昨年まではあまりなかった事です。彼らのこれからを考えると、このまま長い不登校時代になるのか、学年の区切りでまた学校へ復帰するのか、全然分かりません。
もし、復帰することを彼ら自身が望んで、その時自転車の補助輪のような物が一時いるな
ら、なんらか形で最後まで見守ってあげたいなぁと思っています。それが同伴登校という形になるかは今のところ想像も付きませんが、とにかく今はトライ☆アングルでじっくり元気を回復してほしいと思います。
⑪最後にトライ☆アングルの子どもたちに救われたこと
一年四ヶ月前の電話の件を書きました。その時の情景を思い出すと今もまだ、疑問と辛さ
が戻ってくるのですが、電話を終えた後もことも忘れられません。電話を置いた私の顔色
が変わっているので敏感に感じ取ったトライ☆アングルの子たちは「だれからの電話なのか」尋ねます。私は泣きたい気持ちを堪えて、少し話しました。合宿のことになると、その食事の場にいた子がじっと聞いていて、最後に「ずいぶん前のことだけど、山下先生は全然悪くないよ。」と一言いいました。その言葉で90%くらい私の気持ちはグッと持ち直しました。あとの10%を持ち直すのに1年4ヶ月もかかるとは情けないですが・・・・・。
あの時の「山下先生、全然悪くないよ。」と言ってくれた子に今もすごく感謝しています。
あともう一つ、娘が学校で萎れてきて同伴登校を始める前のころ、トライ☆アングルの合
宿がありました。苗場の山荘へ行く途中、『たくみの里』という民芸体験をさせてくれる場所によりました。その民家の前にいろいろな植物の苗がプランターに育っていて一つ一つプレートが付いていました。そのプレートの一つに『一年生の○○の苗』『多年生の△△の苗』とあります。娘のことで心迷う私は一年生の文字にも切なく反応していたものでした。『一年生の○○の苗』のプレートを前にボ-ッ と立って娘のことを考えていたように思い出します。
そのころ、トライ☆アングルの子どもたちの存在は私にとって、今までの私の言ってきた
ことを問い直すものでした。「学校に行かないことをそんなに重く考えないで、今はこういう時、じっくり自分を感じる時期にしよう・・・・」なんて人の子には言いながら、我が子のことになると心が揺れてしまう・・・・。そんな私に彼らの存在は、唯一はっきりしている「これていいんだ」と確信させてくれる手がかりでした。彼らは明るくて、楽しさを追求するのでどん欲で、ちょっと自分勝手で、ずいぶんと優しかったです。
トライ☆アングルの子どもの一人が私に言いました。「行きたくなるまで、家に居させてやればいいのよ。」
普段、人に言っている言葉なのに私は『は~ん、そうなんだ~。』と思っていました。不思議なものでしょう?
私はバチあたりな生活をしてますが、神の存在を信じています。おいそれと、神という言
葉を使うのが憚られる昨今となってしまいましたが、私を超える存在、人間を超える存在を何となく感じています。娘のことで心が辛かった時、「自分のこの日のためにトライ☆アングルを始めていたのかなぁ。神はうまくプログラムしてるんだなぁ」思うことがありました。
S君のお母さんの電話で不甲斐なくも文章が書けなくなったのも、神が私に 「何も分か
ってないじゃないか」「はっきり言葉になるまで何も書くな」「たくさんの疑問を心にためろ」といってくれていたのかも知れません。
そして不思議なことにきのう5月22日に、この文をドット一時間で書いていました。ど
うしてかなぁ・・・と清書をしながら今、考えています。
これからも心迷う一人の母親として、他の心揺れる母親達と一緒に、迷って行こうと思っ
ています。そして迷いから救われる唯一の方法として、子どもらの声を確かに聞けるような大人でありたいと願っています。 1996/5/23 山下由美子
世紀末の改訂版になりました 1999年6月
前の文章を読み返してみるといろいろなことがあったなぁと感じます。そしてその事から
も後もいろいろなことがありました。改訂版を出すたびに山下の出来事報告のようになってしまうみたいです。トライ☆アングルを初めて知った方に読んで貰う案内書なのでこれでいいのかなぁとも思います。
まず、報告することはトライ☆アングルはたくさんの卒業生を送り出したことです。卒業
とは・・・私はこう考えます。山下やトライ☆アングルの人間関係の中で充分ゆるんで(いいかえると気を許したつきあいができるようになること)、かつ集中して(自分の出来ることと出来ないことを認識し、何を自分がしたいのかを見つける手がかりをつかむこと)、次の刺激を求めて出発すること。そういう一人一人について書きたいのですが、現在進行中のことを書かれるのは本人もイヤだろうし、山下もまとまらないので、今までの卒業生のトライ☆アングル時代やその後のだいたいの姿をまとめてお伝えします。
①放浪という困ったクセ
まず、A君。トライ☆アングル開設当時からのメンバーで3年間付き合った彼です。中学
校へは一日も通わず、トライ☆アングルのみで中学を卒業しました。彼と付き合いだした頃、在籍中学校の校長先生がトライ☆アングルを訪ねて来ました。目的は彼に会うためです。でも彼はその時放浪中の身でトライ☆アングルにはいませんでした。彼は小学校の時から自分の好き勝手に放浪するというクセを持っていたのです。4月から付き合い始めたわけですが、4月の間はほとんど放浪していてトライ☆アングルに来るのはその合間という感じでした。
最初私はココを始めたばかりでそれも預かったばかりの中学一年生が放浪するという事実
に気も動転し、田無のゲームセンターを探し回ったり、駅前を探し回ったりしました。でも彼の母親は電話で「また、帰ってきます。こういう時はあまり近くにいないので田無を探すのは無意味です。」この言葉に私はまた、仰天して『えらい子を預かってしまった・・・』と思いました。彼は自分の気に入らない場所には居られない子で、フラッと日本全国を放浪してしまうのです。全国から親の元に知らせがあると仕事があっても引き取りに行かなければならないと親はこぼしていました。ある日突然四国の警察から「息子さんを保護してます」と電話を貰ったら、困りますよね。
私は彼のことを入塾のまえに母親から「学習障害児の傾向があると言われた」と聞いてい
ましたので、勉強の部分で配慮が必要だとは覚悟していましたが、放浪とは考えてもしていませんでした。彼の考えは明解で「いやなところにはいられない」というものです。
私は放浪から帰ってきた彼を普通に迎えました。放浪の話を聞きました。何をして一週間
近く過ごしていたのか、お金はどうしたのか、食事は、睡眠は・・・・・・その話がまたすごくおもしろいのです。トライ☆アングルの他の子どももちょっと面白い、放浪癖のあるA君の話をおもしろそうに聞いていました。彼と付き合いだして分かったことですが、一見脈絡の無い話でも良く聞いていると必ず彼の真意がある・・・・ということです。時間はかかりますが、ゲームのキャラクターもわからない私ですが、よく聞いていると何となく分かります。私には不明な部分がある時はすかさず、「分からない」と答えます。初めのうちは彼はそれを説明することはしませんでした。勝手に自分の話を続けるという感じです。でもそうすると私に話を聞いてもらえなくなるので、だんだん説明するようになってきます。次第に彼は説明を求められると苦しげな表情をするようになりました。『相手が自分を理解できないこと』が初めて分かったからでしょう。理解して欲しいからいろいろ説明をします。上手に説明し切れてないと分かるようになった彼は苦しさも知るようになりました。でも私はいい加減に分かったとは言いませんでした。時間をかけて(時間はたっぷりありましたから)、ゲームの話も鉄道の話も聞きました。そして不明の部分は「分からない」と言いながら・・・・。そのうち彼の方も自分の話に飛躍があることが自覚できるようになって、また山下自身もその分野に習熟したこともあり、二人のコミュニケーションは非常に楽になってきました。 また私は彼に次のことを教えました。「話をしていて話題が変わった時はその事を相手に言おうよ、そうしないと別の話が始まったって分からないからね。」彼はいつでも自分の心を相手が読んでくれると思っているのか、勝手に別の話題を持ってきてしまうのでした。そしてこれはあとで笑い話になるのですが、朝の10時にやって来た彼の開口一番のセリフが「あの~ちょっと話は変わりますが○○というキャラクターがありまして・・・・」というものだったのです。関西出身の山下が間髪をいれず、「朝一の話し始めじゃないか・・・・話かわっとるか!・・・」とつっこんだのは当然のことです。
そういう放浪癖を持ってやって来た彼は5月も終わりになるころには全然放浪しなくな
っていました。毎朝せっせとトライ☆アングルに通ってはゲーム機を繋いでゲームをしたり、友達にゲームのことを話したり、鉄道の話をしたり、・・・・そして昼には山下が焼いた特製のラーメン鉢で超大盛りラーメンを作って食べるのでした。そのラーメン鉢は卒業の時にA君にプレゼントしました。彼ともたくさん焼き物を焼きました。手先の不器用な彼が作る作品は正直さとその迫力に目を惹きつけられます。本当に気持ちの良い作品でした。
彼は中学3年になり、進路のことについて話をするようになると「僕は鉄道の会社に入り
たい、運転手になりたい、そのために今から神田の鉄道博物館で運転を練習している・・・・」
といいます。私は「高校に行かないとそれは難しいのではないかなぁ、私の大学の友人に阪急電車に勤めている人がいるけど、話を聞いてあげようか?」と言いました。そうすると彼は「イヤ結構です。僕は阪急電車は運転したくない。関西なら僕は近鉄がいい。近鉄の知り合いはいませんか?」と言うのです。彼の話は非常に明解で、そんな風に進路が決まればいいなぁと思いました。彼は結局、定時制の工業高校へ進み、今は皆勤賞を記録しつつ登校しています。彼の放浪癖とはほんの一時のお付き合いでしたが、イヤになったら、お金と体力の続く限り日本全国を放浪する彼の姿を、今でも懐かしく思い出します。
②出席扱いにする学校が増えて・・・
A君を預かってすぐ校長先生がみえたのはお話ししました。その時、校長は12枚の紙を
私に渡して「これに必要事項を記入して毎月中学校まで提出して下さい。A君がこちらに来た日数を出席簿につけますので・・・。」私はこれを聞いて不登校児を預かるようになったのは初めてだから、知らなかったけどみんなこんなにスムーズに学校に出席扱いされるのか・・・と驚きました。(でもあとになってこれは特殊な例だとわかるのです。)
それからは、A君の校長が持ってきた『通級・通塾報告書』はトライ☆アングルの学校報
告書の雛形になっています。私はこの報告書を学校へ提出するかどうかは全部、家庭に判断を委ねています。子どもと保護者が話し合って必要と思うなら、山下に伝えて、どの程度の情報を学校へ出すのかも指示してくれるよう頼みます。ほとんどの保護者は学校が通塾を出席と認めてくれると安心します。A君の場合学習障害があり、放浪癖のある手の掛かる子を民間の施設が引き受けてくれるならせめて学校はそれを出席と認めようと言うところだったのでしょう。開設直後のトライ☆アングルの生徒で、学校がすんなり報告書を受け取り、出席を認めたのは半数もなかったです。ただ、最近はほとんどの学校長がトライ☆アングルを一度は訪れ、参考にしたいので是非報告書を送ってくれるよう話して帰られます。だんだん変わってきました。
でも、6年前はひどい話もありました。卒業させるためにいろいろな条件を付けてきて親子を翻弄するのです。たとえば、学校に来なかった日の日記を克明につけて提出せ・・、親子で校長室にやってこい・・、」とかです。そんな時、山下は、まず子供に聞きます。「お母さんがどう言ってるか関係なく、あなたはこのことをどう感じるか教えて欲しい」と言います。そしてどういう風に応援してほしいか尋ねます。子供がどうしても納得できない時は、友人の弁護士に相談して「自分は守られている」ということを実感させたこともあります。お母さんには「母親一人で学校の先生達数人を相手に不本意な約束をすることより、父親と出かけて家庭の方針をきちんと伝える」ということを勧めます。あまりコトを荒立てたケースはありませんが、子どもの気持ちをひとつひとつ確認することが問題解決の最良の方法だと思っています。
開設当時はまだまだ登校刺激をする学校も多く、進級、卒業で不安を与える管理職もいま
した。学校と話がこじれた時、一番の弊害は親子の信頼関係が壊れたまま残ってしまう場合です。お母さんが学校の方を向いて話をして、その事で子どもと衝突した場合です。そんな時の母親は心から相談する人を持たず、ご主人や姑さんからも責任を追及されて、自分の考えに自信が持てず、ホントに辛い立場でいたケースが多いです。そんなとき、山下は母親と子ども、学校と家庭の緩衝地帯となって機能できたら・・と思い、母親と会ったり、学校へ出かけて行ったりしました。なぜなら、当事者は子どもであり、それを守る第一の責任者は保護者だと思うからです。
ほとんどの場合、学校は子どもの将来のために卒業を認定しましたので、トライ☆アング
ルの通塾日数が出席扱いされていようがいまいが、関係ありません。ただ、子どもによっては『ココが自分の居場所、そしてそれは学校も文句を言わない、』という実感が安心になる場合もあるのです。
③小学校低学年を受け入れて
次はHちゃんの話をします。Hちゃんは小学1年生の算数・国語のクラスに入塾してきて
丹誠塾とのおつき合いが始まりました。担当は西尾です。西尾の小1クラスには自閉症児のN君も受け入れていたので、授業のやり方は西尾独特のものでした。まず、机をずいぶん後になって使っていました。教室全体を何もなく取っ払っていろいろな空間として使ます。ある時は部屋一杯をポリ大幕で満たし、数人の子どもをその中に入れて動かします。何のねらいかは忘れましたが、子どもが非常に生き生きとして、そのまますんなりと学習空間に移動していたように憶えています。その授業を受けていたのがHちゃんで、N君の大親友でした。
Hちゃんは利発で明るい子です。私には彼女の率直な物言いが本当に可愛く感じられて、
つもやってくると何かちょっかいをかけたくなる子でした。
そんな彼女が小学一年の秋ごらから、学校へ行くのを渋るようになったと聞いたのは年が
明けてからのことだったように記憶してます。彼女の父がいうには「学校も学童もやめたい、行きたいのは丹誠だけだ。」だそうです。西尾に初めに話があって、その後山下がトライ☆アングルを打診されることになるのですが、私は小学一年生を受け入れることに自信がありませんでした。なぜなら、それまでのトライ☆アングルはほとんど思春期の中学生中心だったからです。科目も小学一年生となると別にスタッフをまるまる増やさないといけないし・・・・・。
心揺れている山下の元に当の本人が直談判にやって来ました。『あのね、Hね、今学校行
ってないの、それで本当は学校やめて丹誠に毎日来たいの、でも小学1年生クラスは週に1回しかないし、他の日は一人でお家に居るのがつまんないの・・・、で、トライ☆アングルに入れてくれないかな・・・』と言うのです。私は会ってからすぐ気持ちは決まっていましたが、両親に次のことを確認して2月から彼女を引き受けました。一つは『親の都合で託児所として預かるのではない、彼女が家がいいと感じたら、無理には通わせないでほしい。』つまり彼女はまだ、小学一年生なのでたった一人で留守番することは生命や身体の危険をも伴うのです。両親ともフルタイムで働いているので一緒にいてやるのも限りがあります。安全のためにはトライ☆アングルに行っている方が良いのですが、そのためだけに預かるのは山下は抵抗があったのです。この場を彼女が選んでいる実感がほしかったのです。もう一つは『小学1年生用の午後からの教科担当はこの年度の間は出来ません。4月からは小学低学年クラスの担当を設けます。』というものでした。
そうこうしてHちゃんはトライ☆アングルに毎日通いだしました。小柄な彼女は本当に可
愛く、トライ☆アングルの生徒の中でも人気者でした。トライ☆アングルで彼女は勉強もしました。午前中には外へ遊びにも行きました。そのために山下は3月中に地域のミニコミ紙を通じてボランティア・スタッフを募集しました。たくさんの方が名乗りを上げて下さって、人選が大変でした。私はその中から「○○を子どもたちに教えます」と言っていってやってきて下さった方ではなく、「私は何も教えるものはありません」という方を選んで4月からお願いしました。その方たちはいまも続けてトライ☆アングルを支えて下さっています。Hちゃんは彼らと一緒に午前中は東大農場や近くの公園へ行って小さい身体を動かしていました。塾に帰ると必ずだれかのヒザの上。ひょいと飛び乗って話をしています。同じ年齢の女の子を持つ山下は彼女を我が子と同じくらいの時間量だっこしていたように思います。もちろんスタッフ以外のトライ☆アングルのお兄さん、お姉さんにだっこをして貰っていることもありました。
4月から2年生になったHちゃんは本当にのびのびとこの場所で育ちました。けなげな彼
女は弟の就学の時にあわせて、学校へ復帰していきました。学校そのものに大きな期待もなく、ただ自分がいない学校へは弟は絶対通わないと強く感じていたので、2年生の終わり頃からは九九の勉強に精を出し、3年生になったら、学校は行くからと口に出していっていました。私はどうなるかなと思いつつ、見守っていました。1年と少しの間、トライ☆アングルでいつもだっこされていたHちゃんはその後学校へ戻り、今はおませな小学5年生になっています。復帰後トライ☆アングルに再び帰って来ることはなく、弟を保護しながら、学校生活を過ごしているようです。この前電話があって『今日学校2人で休んで家にいるのでトライ☆アングルへ遊びに行っていい?』というので午前中ならいいよと答えますと、『やっぱり弟がイヤだと言ってるから行かない』と返事がありました。時々は休みつつ調整しているのかなと思いました。
④親の替わりを期待されて~食べることは生きること~
Hちゃんに少し遅れて小学3年生のYちゃんがトライ☆アングルへやって来ました。表情
が硬く、身体も華奢な女の子でした。彼女はココを卒業したといえる子ではありませんが、象徴的な存在なので少し触れたいと思います。『食』ということについて私に考えるきっかけを与えてくれた親子だったのです。トライ☆アングルは毎日朝から開いていますが、昼から来る子もいます。お弁当の時間からの子もいます。来るのは自由です。お昼は12時頃文庫と呼ばれる部屋でみんなで食べます。ほとんどの子はお弁当で、たまにコンビニで買ってくる子もいます。前出のHちゃんは時々カップ麺をもってきて陶器の器に入れ直してお湯を大人にかけて貰って食べます(親がカップ麺の容器から何か溶けだすのではと考えたので)。また生協のレトルト・カレーの時も大人に茹でて貰って食べます。だれかに一手間かけて貰って食べるっていう感じです。「ねぇねぇお湯やってぇ~」と甘えてきます。これもひとつのコニュミケーションと思って大人のスタッフはお湯を入れたり、袋を開けたり手伝います。
例のYちゃんはそんな文庫の食事風景の中に異彩を放っていました。お弁当が変わってい
るのです。お弁当箱にごはんとクコの実2粒、ごはんと塩昆布1枚、ごはんとちりめんじゃこ3本などなどです。たまにはお魚の切り身を持ってくるのですが、ほんのタマです。ある時からYちゃんはカップ麺の『めん達』が気に入って毎日それを持ってくるようになりました。カップ麺の容器にお湯を注いで待つ間に具の干し肉をカリカリ囓ります。出っ歯気味の前歯で美味しそうにお湯にもどす前の肉を囓るその姿はなんだか小動物のようです。あまりカップ麺が続くので最後には山下が《カップ麺週1回のルール》を家庭にお願いしました。
本来家庭に任せているお昼ご飯まで私が口だしするのはおかしいのですが、毎日Yちゃんが『めん達』を食べている姿を見て私の身体から警報が鳴りだしたのです。子どもの身体、食事について山下は毎日考えるようになりました。
我が家の2人の子どもはあまり好き嫌いがないためか、食事の時無理矢理何かを食べさせ
るようなことはありません。子どもは大人より正しい食べ方をするものだと子育ての中で発見することもありました。楽しい食卓だと自分では思っています。我が子はお肉もお魚も野菜も豆も何でも食べます。毎日程良く食べて料理の感想を当たり前のように私に伝えます。『食』は我が家では一番のレジャーなのです。決してグルメではありませんが、家で食べるのがみんな大好きなのです。子どもはみんなそうだと思っていました。小学校低学年をトライ☆アングルで引き受けるようになってそれは各家庭によって大きく様子が違うことを知りました。Yちゃんは『食』に無頓着なのです。もちろん食の細いことも原因しているとは思うのですが、いろいろな味を知らないのです。同じものを食べ続けることに平気なのに私は驚いたのです。
彼女のことで驚くことはそれだけではありませんでした。話をしていてそっけない終わり
方をすることです。これから話が続くのかと思っていると『じゃばいばい』と言う感じで彼女の方から一方的に終わってしまうのです。「あいそなし」というヤツです。場面が変わるように話が終わってしまいます。人と話していてもなんだかいつも独り言のようです。ある時私はYちゃんがゲームボーイをしている姿を見ていました。その時気付いたのですが、そゲームの中の誰かと話をしているのです。そして『じゃばいばい』といってスイッチを切っているのです。トライ☆アングルの生徒はほとんどゲーム好きです。それもかなりの。でもYちゃんのように機械と対話しながら遊んでいるのを見るのは初めてでした。
彼女の生活が気になりだして、ちょくちょく家でのことを尋ねるようになりました。彼女
は3時になっても帰れず、5時過ぎまで塾の文庫に残って、お母さんのお迎えを待つ姿がありました。これも気になっていたので、ある時私が「Yちゃん、昨日のご飯何だったの?」と尋ねると、彼女は「あのね、お母さんがお仕事で帰れないので、『何かその辺にあるもんを食べてて・・・ 』って電話で言ったから、そうした」というものでした。彼女の家はお母さんと2人だけの家庭でした。仕事で帰れないことを予想したお母さんは電話で準備していた食事の指示を出していたのかと思って、「その辺にあるもんって何があったの?」と私が尋ねるとYちゃんは「うん、チョコとおせんべい」と答えます。びっくりした山下は「そんな、チョコとおせんべい食べただけで寝られるんか???」と尋ねると「うん、別に・・・。
チョコとおせんべい好きだから・・・」というYちゃんの答えに何の言葉もない私でした。
彼女にとっては珍しいことではないようでした。
彼女は塾の宿泊行事によく参加しました。その都度まわりの人と色んなトラブルを起こす
のですが、それも経験と思い私は誘っていました。ある化石採りの時のことです。暖かい時期に日程が取れず、3月に実施した化石採りです。寒くて可哀想だと参加者に当日はトン汁を作っていました。化石を採る前にまず腹ごしらえということになって、みんなトン汁と持参のおにぎりを食べていました。トン汁のお代わりを希望する人も多くみんなで仲良く、分け合います。Yちゃんは「私トン汁生まれて初めて、こんな美味しいもの食べたことない・・・・」と言ってお代わりに手を挙げます。そして3杯目のお代わりを一人だけすると宣言します。まわりはやめた方がいいと止めたのですが、「絶対食べる」と振り切って自分のものにしたのです。それでお鍋のトン汁は完売となりました。そうなると安心したのか、すぐ「お腹いっぱいもう食べられない~」といってたくさん残してしまいました。一同のひんしゅくを買ったのは言うまでもありません。幼児にはよくあることです。でも小学3年では珍しいことでした。
またあるスキーツアーの時、全員がシーフード味のクリームシチューを『うまい、うまい』と楽しんでいた時です。これは私が自信を持って出したものです。一口食べたYちゃんの口から大声で「まず~い、こんなもの食べれない~」という言葉が出ました。一同凍っていました。みんなの心の中には「こんな大声でそれも作った人の前でまず~いというのはまずい。山下先生はどういうだろう。」という感じのことが渦巻いています。私は内心自信作をけなされて、ムカッとしましたが、Yちゃんの美味しいと思うクリームシチューってどんなんだろうと思いました。私は「Yちゃんこれが本当にまずいの?作った私はそういわれてすごくがっかりだな、でもまずいなら仕方がないね、Yちゃんの美味しいと思うクリームシチューってどんなの?」とたずねますと、「お母さんが作ってくれるヤツ。前に一度作ってくれたヤツ」と言います。負けん気の私は「それじゃ、お母さんにその作り方を書いて貰ってくれない?」と頼みました。 後日Yちゃんのお母さんは当惑気な感じで『ハウス』のクリームシチューの箱の裏の作り方を私に示してくれて、これが私の作るクリームシチューですと教えてくれました。私は特別のYちゃん家の作り方があるのかと半分期待していたのですが、市販のシチューの素だったので驚き、また人の舌の不思議を感じました。Yちゃんはなぜあの粉っぽいシチューの素を溶いただけのシチューの方が美味しいと感じるのか、不思議でした。お母さんの料理として『一番美味しいクリームシチュー』という感じだったのでしょうか?
ある時、Yちゃんのお母さんと塾で話をする機会がありました。私はかねがね思っていたことを言いました。「Yちゃんの食事が気になっています。」という私の言葉にお母さんは「私と一緒で食が細くてあまり食べられないのです。だから、太れなくて困ります。」と言います。私は「やせ型ということだけではなく、おいしそうに食べることがないのです。それから人と食べる時、他の人が食べてることを感じないで一人で異常にはしゃいだり、大声で叫んだりするのです。みんながYちゃんうるさいからもう少し静かにしてと言われても意味が分からないのです。人と食事をするという習慣が極端にないようなのです。」と言います。
お母さんは「私は食べることがめんどくさいのです。仕事の合間にご飯に塩をかけて立って食べることもあります。だからYも私の子どもで食べることがあまり好きじゃないのかも知れません。」
この言葉ほど私の理解を超えているものはありません。人一倍食いしん坊の私には『食べ
るのがめんどくさい、好きじゃない』ということが信じられませんでした。生きることまでめんどくさくなってしまうんじゃないかと思います。ココまで来ると私の守備範囲を超えています。私はYちゃんの食の問題はそっくりお母さんの問題であると感じました。Yちゃんの家庭はYちゃんが作っているわけではありません。そしてYちゃんは家庭を選んで生まれてきた訳ではありません。訳あってお父さんと離れて暮らしているYちゃんの家庭はすべてお母さんです。Yちゃんの最大の恐怖はお母さんに捨てられる恐怖です。『私のできることは不登校児のお母さんの話を聞いて不安を少しでも和らげ・・・』などど考えていた山下ですが、このケースは私の限界を超えているようでした。
結局、Yちゃんはトライ☆アングルで他の子どもとケンカして、その子の身体にひどいこ
とをして、ごめんなさいが言えないので、福島から1ヶ月の自宅謹慎を言い渡されます。『自分の言い分が通らない時に人を噛んだりしていいのか。そんな時どうしたらよいのかお母さんとよく話し合って下さい。』初めてトライ☆アングルが家庭に踏み込んだ瞬間でした。『ココからはお母さんと考えて下さい。もう少し、Yちゃんの現実を受け止めてあげて下さい。』という私たちからお母さんへのメッセージでした。その段階でYちゃんのお母さんは託児所としてのトライ☆アングルを失い、困った様子でイライラして塾を後にしました。
謹慎期間が終わり、Yちゃんの言葉があれば、つきあいを再開しようと思っていた山下で
す。でも、Yちゃんのお母さんが出した結論はもうトライ☆アングルはいらないということでした。お母さんの顔色だけを見て生活していたYちゃんは人とケンカした時、自分の意地を通すためにかみつくしか、方法がないのです。人の中で生きていないので、なぜ、悪いことをしたら、ごめんなさいをいうのか、その回路がつながっていないので、これから先、トライ☆アングルで同じことがあってもどうやって過ごしたらいいのか分からないのが実際の所だったのでしょう。お母さんも私たちと同じようにYちゃんの問題を感じていてくれたら、Yちゃんは変わると思っていました。しかし、お母さんはお金を出して親の替わりをしてもらえるなら、通わせたいが自分の子育てにまでとやかく言われる関係は望まなかったのだと思います。最後に要領を得ない決別の手紙を貰いました。もちろん山下や福島は残念でした。ただ、『親の替わりはできません』と初めて家庭に伝えたことで、二人の心には一つ課題をこなしたという気分はありました。
⑤ではトライ☆アングルは何なのか
親の替わりはできませんと確認してすっきりした私です。ではトライ☆アングルは何なん
でしょう。それは水泳の練習の時のビート板のようなものだと思います。泳ぎ初めの人の安心のために少し浮力をつけてやるものです。ビート板自身はどこへ泳いでいこうか意思はありません。泳ぐ人が方向を決めるのです。ビート板は一見泳ぐ人をリードしているように見えますが、ただの安心に過ぎません。そしていつしかビート板を卒業して自力で泳ぐようになっていくのです。私はビート板として存在し、時々へたっぴのスイマーをつかまらせてやっているわけです。それでいいと思います。
トライ☆アングルをフリースクールですか?と尋ねる人がいます。私は初めの頃はフリー
スクールというものがハッキリ自分の中で定義づけができていなかったので『いいえ、ちがいます。朝から開けている塾です。』と答えていました。でも最近はめんどくさくなって「ハイそのようなものです」と答えています。今はたくさんのフリースクールと呼ばれる不登校の子の居場所があります。その中でトライ☆アングルの特殊性というものがあるとすれば何でしょう。それは①教科学習を必ずやるということ②学校へ行ってる子と行事・勉強を通して交流があるということでしょうか。これは塾に併設していうことが原因と思われます。トライ☆アングルではその気になれば、どの段階からでも勉強を再開できます。その気になればの話ですが、ある生徒は中学3年分の英語の授業を受けたいと言って来たので、山下は一年かけて3年分の授業をしました。やってくる課題はありますが彼女は見事に一年やり抜きました。いまは通信制の高校を経て専門学校の2年生です。時々手紙をくれます。彼女にとって私は「一度は中学の英語の授業を受けてみたい」と思っていた時に出会った『もってこいの伴走者』だったようです。でも教科学習に全然実が入らない時期も長いので無理無理にやることはかえって遠ざけることと思っています。まずは勉強するのは自分という当事者意識がないと何事も身に付きません。
トライ☆アングルに通って誰かと一緒にお昼ご飯を食べるだけでも、存在意味はあると思
います。
⑥人の中で生きること
話すと長く悲しい話が一つあります。
私の長年の塾での相棒である西尾の末娘の話です。彼女は享年5才で短い一生を終えるこ
とになりました。昨年の春でした。1才と4ヶ月で小児がんという大きな病と闘うことになった彼女はその後3年余りを鮮やかに駆け抜けて生きていきました。この小さな命をめぐって周りの者たちは色んな事を教わりました。これもそのうちの一つです。
あれはいつだったか、大泉教室(西尾が1997年春に自宅隣で開設した第二の丹誠塾)
の開設年の夏頃のことだったと記憶しています。小児がんの再発という最悪の事態を前に西尾とそのつれあいの恵子さんは祈る思いでその治療を支えておりました。末娘は治療の合間に許される一時帰宅を心待ちにしていました。そしてそんなとき自宅隣の大泉教室にも連れられて遊びに来ていました。その時のことです。治療中にいろんなストレスに耐えている彼女です。わがままがどうしても出ます。3人の子供の中で一番末娘を可愛がっている西尾はそのわがままにどうしても甘くなってしまいます。「命をかけて病と闘っている娘」を前にどんなことでも大目に見てしまう、メロメロの父親でした。それは当然のことと思われます。末娘を溺愛していた西尾のエネルギーは全て彼女の存在からやって来ていました。
そんな中一時帰宅でわがままの出始めた娘が大泉教室でラジカセをいじって遊んでいま
した。ラジカセをあっちこっち乱暴に扱っていたので私も気にはなっていたのですが、父親がそばにいるのでそのまま、いじるに任せていました。 そしてとうとう彼女はラジカセを使用不能にしてしまいました。壊れたことが分かった彼女は4才ですので当然自分のやったことだと認識しています。でもそのことについては「知~らない」という顔をして次の遊びを探し始めました。父親は「あれれ、誰がラジカセを壊したの?」と注意をむけます。娘は「知~らない、Mちゃんじゃないも~ん」と言います。「Mちゃんじゃないも~ん・・・・」といい続ける娘に父親の追求はどんどん勢いをなくしていきます。そばで見ていた私は彼女の小児がんの再発という厳しい事実を前に「今、きちんとけじめを付けるべきかどうか」躊躇していました。私の心の中には『この子は将来人のものを壊してごめんなさいという場面はあるのだろうか?』『再び保育園に復帰して人の中で生きていく事が出来るのだろうか』と思うと心がなんとなく湿ってしまって、すぐ「こらっ!!」と言えなかったのです。いつも塾や家で条件反射的にやっている「こらっ!!」という反応がその時は出来なかったのです。ぼんやり考えてしまう瞬間がありました。
父親も同じで反応が鈍って「Mちゃんじゃないも~ん」と言い続ける娘の前で、大人二人ともそれぞれの胸にやってくる思いにしばし占領されていました。私は西尾の顔を見ます。彼は半分、娘可愛さに「いいよ」と言いたい顔・・・。もう半分はきちんと悪いことは悪いとしつけたい顔・・・をしています。そして後の方の顔は「山下、助けてくれ~」と言っているように見えました。
反応の鈍かった私もようやく腹を決めて彼女を真正面から見ました。「Mちゃん、今のことを山下おばちゃんはよく見ていたよ。Mちゃんが触っていてそのラジカセは動かなくなったよ。そのラジカセを壊したのはMちゃんだとおばちゃんははっきり思うよ。Mちゃんは自分が壊したのにごめんも言えない子なの?」と真剣に言いました。西尾ももう腹を決めたらしく、「そうだよ、そのラジカセを壊したのはMだよ。きちんとごめんなさいを言わないといけないよ。」と彼女に告げます。彼女はいつものように「知~らない、」で逃げ切れないと感じ始めています。少しずつ神妙な顔になってきます。私も父親もカンタンには逃がしてくれないことに気が付くと、父親に「だっこ・・」とせがみ、泣きそうな顔になりました。私は「お父さんにだっこされても終わらないよ、ちゃんとラジカセを壊したことごめんなさいしようよ。」と言います。彼女は父親にだっこされて顔を見せないようにしています。父親である西尾もそのまま終わるわけにはいかないので「ちゃんとしょうよ」と言います。
私は胸の中では違うことを感じつついいます。「Mちゃん、病気が治って元気になると保
育園へ行くよね、そこにはお友達がいてみんなで仲良くオモチャで遊ぶよね、そんなとき、みんなのオモチャを壊して知らん顔してごめんも言えないMちゃんではダメなんだよ。保育園でみんなといるためにはごめんの言えるMちゃんにならないといけないんだよ。」
これで彼女に強情に「だってMちゃんじゃないも~ん」と言われると私の追求のエネルギ
ーは切れそうです。エネルギーの切れないうちに言ってしまおうと、私は最後の一手を繰り出します。そうなれば、それでもいい・・・エイッ!!と思って言った言葉です。「山下おばちゃんはMちゃんにみんなと一緒にすごせる子になって欲しいから、ごめんの言える子にしてあげるよ。ごめんの言える子になるまで、山下おばちゃんの家の子になろうよ。このお父さんの子のままではごめんの言える子にならないみたいだから、しばらく山下おばちゃんの家でいよう」と。これが私の最終兵器でした。
その兵器に西尾も乗ってきます。「Mちゃんバイバイ、しばらく山下おばちゃんの家の子
になってごめんの言い方を教わりなさい。もうお父とは居られなくなるよ。寂しいけどバイバイだよ・・・」と最後の言葉を言います。今から思うとなんて事でしょう!4才の子を前に大人二人が強烈な脅しをかけて、その子の「ごめん」を勝ち取ろうとしているのです。冷や汗とともに今も一言一言が鮮やかに思い出されます。
Mちゃんは今までの態度を一変させて、火がついたように大声で泣き出しました。「ええ
~ん、ええ~ん、ごめんなさ~い。ごめんなさ~い。ごめんの言える子だから、お父さんとお母さんのおうちの子でいる。山下おばちゃんの家には行かな~い。ええ~ん・・・」もう、人さらいの気分の山下です。その泣き声を聞きながら、Mちゃんの病気にさわりはしまいかと心配しつつ、私の役目は終わったとホッとしてました。
私の役目とはいったい何だったのでしょう。お父さんやお母さんと一緒に居られないとい
うペナルティーを課せられてまで人はごめんなさいを言わなければならないのでしょう
か?それも一時帰宅が終わればまた化学療法という厳しい治療が待っている4歳児に・・・。
でも、同じ状況に置かれたら、やっぱり同じ反応をするでしょう。また、冷や汗を流しな
がら、追いつめてしまうのでしょうね。そんな気がします。火がついたように泣き出して「ごめん」をいうMちゃんの姿を私は決して忘れることはないでしょう。
次の改訂版を出すのはたぶん2000年を過ぎてからのことでしょう。『食と家族』『人の中で生きること~ごめんをいうこと~』についてはもう少し、はっきり整理が着いていることと思います。今回はこの辺で御勘弁を・・・。 1999/6/17 山下由美子
まずは新世紀の教育論から 2000年3月
お約束通り新世紀はじめに宿題を終わらせます。今回は山下の教育論から始めます。
①昔、田無「ひとの会」で勉強したこと
私たちは20代始めに丹誠塾を始めたので当然、独身で、子どももなく塾のお母さんたち
がとても大人に思えていた時代でした。そんな時西尾の発案で「田無ひとの会」を作ろうということになりました。「ひと」という教育雑誌を読む会から始まったこの会は田無の地域で当時、教育に疑問を感じる人たちが集まって、活気を呈していた時代がありました。
やがてそれぞれの興味や方向がハッキリしてくると次第に「ひとの会」は学習する集団と
なり、その活動は続いていくことになりました。「ひとの会」で私たちはいろんなことを勉強しました。子ども、教育にとどまらず、フェミニズム、歴史、建築、心理学などにも興味の幅は広がっていきました。
私はその心理学の勉強のなかで、「母なる存在とは我が子はみんないい子」「父なる存在とはいい子だけが我が子」という2つの面(母性・父性)が子どもの成長に必要だと知り、いたく感動した記憶があります。そしてなにも母性を母親がになうのではなく、その逆の家庭もあるだろうし、一人の人間の中に父性・母性があるということも知りました。今でもキーワードだと感じています。
②我が子はみんないい子・・・子どもの存在を無限定に受け入れ、「私の目の前にいるあなたは世界でかけがえのない存在である。」・・・子どもをすべて包み込む大きな母の存在です。
ここで子どもは「ああ、自分は大切な存在なんだ。自分がいることだけでこの母を幸せにしているんだ。母はいつでも自分を見ていて自分を認めてくれている。母の人生の目的は自分が幸せになることだ。」という考えを当たり前に持って育ちます。
③いい子だけが我が子・・・これは1つの物差しに照らして「良し」とされた存在だけが我が子であり、それ以外のものは家から外に放り出される恐怖を子どもに与えます。物差しはその家庭のルールです。「よそはどうか知らないが我が家ではこのルールを守らないとダメである。・・・」親がある基準を示して子にダメだしをする機能です。
子育ての随所にある場面です。熱いアイロンに手を出そうとしたとき、砂場で友達のオモチャを勝手に取ったとき、親のお金を持ち出してジュースを友達におごった時、ファミコンを買えとしつこく言った時、オセロに負けて悔しくて泣いた時、門限に遅れて帰った時、模擬試験の出来が悪く周りの人にヤツ当たりした時、・・・親はダメだしをします。これは実際にあった我が家での場面です。親は年期をつんでダメだしの仕方もうまくなっていきます。即座にシンプルに一貫性をもって・・・。これがコツです。このルール拾得によって子どもは生命を守り、そして社会へどう適応していくのか学んでいくのでしょう。親はいろんな局面で社会へ出ていく助走を子どもに与えているように思えます。
④なぜ「食」にこだわり、「ごめんを言うこと」にこだわったのか?
(前回の改訂版で宿題にしたことです。できたら、前回を先に読んで下されば、前後がよ
くつながると思います。)
山下が以前から食にこだわるのは「あなたが大切」と言うことを食を通して親は毎日子供
に伝えているからだと思います。一緒に食べることができない場合は作りおいてあるものをメモなどで指示して時間差はあるものの一緒に食べているのです。お弁当などもその例です。親はいつでも子どもに食べるさせることを一番の勤めとしているのです。子どもを
持って初めて知る親の勤めです。子どもが育つ場は「食卓から」と、今春、高校生と中学生になる子どもを育ててみて実感しています。
私はこの面ではすごく保守的かもしれません。女性の社会進出という裏でコンビニ文化が
今日本の食を破壊していることを、怒りを持って見ています。家庭に包丁やまな板が消えてしまうのは子どもを育てるのを家庭が放棄してしまった証拠です。亡国の危機です。この国では次の世代は育たないのかも知れないと感じています。コンビニの食事を毎日とり続けられる味覚を作ったのは親です。その子が親になった時、どんな風にして「あなたが大切」を表現するのでしょうか?
もう一つのこだわり・・・。つまり「ごめんを言える子」にするには、その子のなかに悪
いことをしてしまったという認識があることが大切です。周りから言われるから、ごめんをいうのではなく、家庭のルールとして我が家に住む子は「人のものをホントに壊したのなら、きちんと謝れるはずである。・・・」と父性が切り込んで、子どもの心の中に一度「生」と「死」を作り出すのです。ごめんのいえない悪い子は一度死んで、ごめんの言えるいい子は再び生を与えられて、以前より輝いて我が家の一員と認められる儀式なのです。
このことを考えると幼少時代の、こんな光景を思い出します。・・・・・親戚のあるおばちゃんが、自分の子の所行に業を煮やし、今日こそ懲らしめようと計画をねっている。その時そのおばちゃんは、もう一人の親戚のおばちゃんに「今日○○を懲らしめようとおもとるから、あんたその時とってんか?(たぶん、とりなすという意味)」と頼んでいる。頼まれた方は子ども側にまわって、反省のタイミングを演出してあげる役を引き受けるのです。
さあ、くだんの悪ガキが帰ってきます。おばちゃんは「今日という今日はほんまにあんた
ゆるさへんで、もう○○して・・・。」と始まって、お仕置きがスタート。「もうそんな子は性根が治るまでヤイトせいたる(関西の昔の言葉でお灸をすえる意味)・・・。」悪ガキは今日はもう逃げ切れないと思い、少し神妙にしてくるが、「ごめん、もうしない・・・。」というまでには至らない・・。その子は怒りの形相の母親にどんどん追いつめられ、涙を浮かべ
そうになってくる。おばちゃんは「もう、ほんまに、」と手を挙げかけると、前に頼まれていた者が間に入って、「○○ちゃん、ほんまにそんなことしたん?なんでぇ?・・・。いっぺんおばちゃんにいうてみぃ。」仲裁に入り、あわやお仕置き・・・という場面を懺悔のシーンに切り替える。そのコンビネーションの良さ。子どもは結局仲裁役のおかげで手をあげられることなく、なぜ、そうなったかの申し開きの場を与えられ、そして泣きながら、結果的には良くないことをしてしまった自分を悔いる表現をし、最後に親に認められ、「やっぱり、あんたはええ子や・・」と抱きしめられる・・・。そばで見ていて、そのコンビネーション・子どもの「生」と「死」をくぐった姿に小さかった私自身も興奮したことを憶えています。「あんたとってんか・・・」の意味がわかったのはずいぶん後になってからですが・・・。
⑤トライ☆アングルの舵取り
トライ☆アングルのことで大きな報告があります。登録制度を廃止したのです。それに至
った経緯を説明します。
1999年後半から始まった現象ですが、不登校の相談があってもトライ☆アングルに入
らないで塾の学習部門に入塾するケースが増えてきたのです。私たちは両方の体制で相談を受けて、ご家庭につきあい方を選んでもらっていたのですが、それぞれの理由からトライ☆アングルではなくて通常クラスという希望が多く出てきたのです。
⑥不登校の子だけを囲いたくない
一方トライ☆アングルの方はメンバーが固定化してきて、朝から来る子はほとんどいなく
なっていました。朝から来ていた2人の子が学校に復帰してからは午後の教科の時間からやってくることが多くなりました。山下は教科の時間を塾の科目別の担当者に頼んでいたので、彼らは午後1時からと夕方と2度授業をすることになっていました。彼らは「一緒にやった方がおもしろいのになぁ」と感想を漏らすことがよくありました。
その時やって来ていたトライ☆アングルの生徒たちの一部に気になる傾向が出てきてい
ました。それは人との関係から、どんどん遠ざかろうとする傾向でした。行事を決めようとしても何も出てきません。いろんな体験を自分たちで企画して実行しようと水をむけてもイマイチ乗ってきません。月曜日ごとに出かけていた時間も「別にどっちでも・・・」という感じになり、「どこかへ行って楽しもうよ」といっても「自分では決めたくないから、だれか決めて・・・」ということになってきました。本当は強引にでも引っ張って、いろいろ体験させるべきかもしれませんが、なんだか彼らの出会いを閉じてる感じがしてきていました。もっと人と出会ってほしい。人の中にいることがまずは平気になり、楽しさを感じて欲しい・・・。そんな思いがどんどん強くなってきたのです。このままでは不登校の子だけを囲い込んでしまうだけじゃないか・・・。という思いです。
⑦ひとの中で疲れ、傷づいた者は最後には人の中で元気になるしかない
山下がトライ☆アングルの子どもだけを囲ってはいけないと感じ始めたのはずいぶん前
からだったと思います。
ある日、文庫でトライ☆アングルの子が時間を過ごしていて、午後の時間になって学習塾
部門の子がいつもより早くやって来て、顔を合わせることがありました。あとからやって来た子は文庫に他の子どもがいるのが一目瞭然、感じているのですが、トライ☆アングルの子の身体は人が増えたことに何の変化も示さないのです。気がつかないのです。よく見ていると、何かの拍子に他人の存在に気づいて、何の関係も持たないで「さよなら」もいわず帰っていきました。
私はこの光景を見て、彼の中に何が起こっているのか、人に対してすごく鈍くなっているのかなぁと感じました。
その時私は続けて、こんな光景を想像してしまいました。トライ☆アングルの子の足が後
から来た他の子の上にあるのです。他の子は痛いので早く足をどけてほしいと思っています。トライ☆アングルの子はその意味が分からなくて、他人に足を乗せられたら痛いと言うことが実感できなくて、こう思っているのです。「誰かが自分の足の下に足を入れて、自分は足の下がグニャグニャして気持ち悪い。自分は気持ち悪くてかわいそう。何とかして欲しい・・・・。だれだ?俺の足の下に足を入れて俺を気持ち悪くしているのは?」被害者と加害者の逆転です。
あり得ないことですが、山下は近い将来、この子がこんな勘違いをしてもおかしくないと
実感していました。人は人とかかわらないで生きていくことは不可能だという危機感を持ち始めていました。とにかく、人とかかわらないで生きていくのはこの子の幸せにならない。
注意して彼を観察しました。彼は一昨年前までスタッフをして彼のためにお菓子を作ってきてくれたお姉さんのことをすっかり忘れ、身近の知り合いを書き出すと10名前後という状況になっていました。人の名前を覚えることは彼にはもはや必要のないことでした。なぜなら、彼がだれかに呼びかける言葉は「ねぇ、」で足りたからです。
彼のお母さんの言葉で印象的な言葉があります。「私、子どもが生まれてからずっと念じ
ているの、お願いゆっくり育ってね・・・。決して急いで大人にならないでね・・・。」と。
最初の内は子どもを大人の都合で早く成長させることをいましめている言葉ととらえてい
た山下ですが、途中から「映画の『ブリキの太鼓』に出てくる成長を拒否する子どもみたいだな。でも本当に成熟を拒否しているのでは当のお母さんでは・・?」と感じるようになりました。
山下には毎日会いに来るには来るけど、どんどん人から遠ざかっていく一部のトライ☆ア
ングルの子どもを前に、「人は人の中でしか人になれないのではないか・・・、このままではこの子は成長を止められて、とんでもないことがおこるのでは・・・」と感じるようになりました。
福島はそんな状況を見て親ともっと話し合うことを再三、私に言っていました。彼の言葉
は全くその通りで「何もかも社会の体験をトライ☆アングルだけで担当してもらおうというのは所詮無理。親ももっと彼らの世界を広げてあげるべき・・・。山下の仕事じゃないよ。」
結局、山下の体調のこともあり、トライ☆アングルの登録制再検討ということになってし
まいました。正直な所、山下の限界でした。
⑧トライ☆アングル登録制の見直しの後
実際にはその時登録していた子どもは4名でした。その子たちが残れるクラスを作り、ト
ライ☆アングル登録制は消えました。そして、一人一人塾部門の説明をしました。残念ながら、新設のクラスを選んで、つきあいを続けるという結論をだした子どもはいませんでした。
不登校の相談はいつもあり、塾へ入っていく子が続いているのも事実なので、これがいい
時期かなと思っていましたし、4月から、朝から塾をあける体力的自信がなくなっていた時期とも重なりました。塾の仲間、福島から「トライ☆アングルは塾の中でもっと人と関わった方がいいよ。山下の対応にも限界がある。塾を選ぶ子が増えたのは何か意味があるんじゃないか?」と指摘された時、私の気持ちは決まりました。
そして2000年4月より朝から開けるトライ☆アングルは無くなりました。毎日朝から
3時ごろまで預かる登録制は無くなり、すべての相談者に塾部門への入塾を紹介しています。
⑨今、不登校の子も通う場として丹誠塾は存在します
今はトライ☆アングルは丹誠塾の一つの機関であり、不登校の子や保護者の相談の場とな
っています。そして子どもは丹誠塾に入塾した場合、毎日2時から塾を開けているので授業の無い日もやってきていいという取り決めになっています。つまり前のトライ☆アングルの機能を丹誠塾が引き継いだのです。登録制こそなくなりましたが、不登校の子の場としてもここは機能し続けているのです。塾生で学校へ行けなくなった子もいます。その時は長年の経験を生かして山下がトライ☆アングル担当者として相談に乗る場合もあります。
そして子どもには「家がつまんなかったら、2時からやっておいでよ。そのかわり、何をして過ごすかは自分で決めてよ・・・」と声をかけます。また、学校復帰を前に気持ちの不安定な生徒がいました。人と話したい欲求がすごいので、授業中だけでは足りません。そんな時は山下が時間をとって定期的に話を聞きました。もちろん保護者の方の相談も引き続き、担当しています。山下は心理の専門家ではありません。でも、長い間不登校の子どもと時間を共にした経験を、いろんな形で今の子どもたちや相談者に還元したいと思っています。
まとめると、子どもの居場所としては私塾の丹誠塾がいつでも開かれていて、トライ☆ア
ングルはその丹誠塾の一部で、学校の事で悩む子どもや保護者の相談機関となったということです。丹誠塾を居場所として、毎日通いたい人には、まず塾生となってもらい、学校への報告書が必要なら、トライ☆アングル担当の山下がそれにあたっています。
⑩トライ☆アングルは相談窓口・・・授業はたくさんのスタッフとたくさんの同世代の友人のなかでやるのがおもしろい
残念ながら、山下が一番気がかりな子どもは「やはり人が苦手・・」ということで受け皿
に作った個別指導クラスにも残らず、トライ☆アングルを去って行きました。苦しんで出した結論ですが、今はチームで子どもの「今」とつきあっています。子どもは同世代の子どもの中で、授業はたくさんのスタッフと・・・というのが今のトライ☆アングルの行き着いた先です。ここまでたどり着くのにずいぶんかかりました。
⑪今の課題・・・家にいるときから外へ出るときのきっかけづくりが難しい。
トライ☆アングルの登録制度を見直してから、個別指導クラスでつきあうことになった子
どもがいましたが、なかなか塾に来れなくて、時間がかかりました。彼の不安は「ふつうの塾なら自分の様な存在はどう映るのだろう?」ということが気になって、本来なぜここの門を叩こうと思った動機をなかなか自分で確認できなかったからです。これからの課題です。
HPなどの広報活動も有効かなと思い、今年からこまめにHPを使いこなそうと思っています。
トライ☆アングル代表のプロフィール
山下由美子(やました ゆみこ)
1955年2月5日生まれ。
18才まで兵庫県 高砂市に暮らす。その後大学進学のため、上京。
1974年早稲田大学法学部入学。在学中より始めた学習塾でのアルバイトで子供との付
き合いが始まる。
1977年2月より田無で仲間と『丹誠塾』を開く。だれにでもわかる授業を目指し、日々
授業研究をする。進学塾でもなく、補修塾でもない、独自の学ぶ場として『塾』を追求する。担当は英語・社会。
1982年塾の仲間福島と結婚。男、女の2児をもうける。
1993年4月『朝からの塾』トライ☆アングルを開き、学校に行かない子の居場所をつく
る。
2000年4月登録制を見直し、丹誠塾が居場所の役目をになう。
★トライ☆アングルで山下が心がけていたこと
*「本当のあなたを出してつきあおう」と山下も本当の部分でつきあう。
*問題をはっきりさせ、時間がかかってもみんなで考えて解決させる。
*「それはいやだ」「いいえ、おことわりします」を尊重する。
お読みくださり、ありがとうございました。