2007年11月26日
昔の話です。丹誠塾が始まって4年目の夏にその方との出会いがありました。
丹誠塾は1977年2月に開講し、その夏には蓼科の大学の山岳クラブの山小屋を借りてキャンプをし、次の年は秩父の中津渓谷キャンプ場で、3年目には五日市の少年自然の村でキャンプをしていました。そして4年目の夏にはもっともっと手つかずの自然の残った場所を求めて、中津渓谷キャンプ場より奥を探してみようと、私と福島は朝一番の西武池袋線で秩父に向かいました。
三峰口からバスに乗ろうと思って時刻表をみたら、なんと間隔のあくこと・・・・、私たちが選んでのは往復20キロ以上の山道をレンタサイクルで往復することでした。当時の24,25歳の体力には何ともない行程だったのです。借りたチャリで山道を登ったり下ったりしながら、荒川上流を目指していくと、2年前にキャンプした中津渓谷キャンプ場が見えます。今回はそれより奥を目指して来たわけですから、どんどん上流へ進んで行きました。すると杉木立の中に面白そうな岩や滝のあるキャンプ場が現れたのです。それがそれから5年間続けてお世話になることになる「大滝キャンプ場」だったのです。今はダムにこそ埋まってはいませんが、直近のダム真下の場所になっています。
大滝キャンプ場は2人の共同経営者がいました。その日のうちにそのうちの1人KAさんのお宅を訪ねて、自分たちの希望などを話しました。子ども達を100名ほど連れてくるから貸し切りで貸して下さい・・・というのが私たちの希望でした。(そのお宅は今はループ橋の橋桁の1本の下になっているそうです。)KAさんはゆっくり私たちの話を聞いて下さいました。もう1人の経営者と話して返事するということになり、私たちは再び、チャリで三峰口まで飛ばし、4時30分からの授業に間に合った記憶があります。
その後、私たちの願いは叶って、大滝キャンプ場との付き合いが始まりました。
5年間続けてつまり、ダム工事が始まる直前まで私たちの常宿ならぬ常キャンプ場となりました。なぜ大滝キャンプ場に毎年行っていたかというと、もう1人の共同経営者の存在です。彼は当時50代前半で今の私たちと同じです。大工さんやいろんな仕事を経験し、そのころはキャンプ場の経営管理と共に近くの事業所の夜の警備もやっているマルチなおじさんでした。
そのKIさんは非常に早足で、仕事も大変速いです。キャンプ最初の年に、子ども達が斜面を登ってトイレに行くとき、ツルツル滑っているのを見たKIさんは、自分の林の木を切ってきて、細かく細工して、あっという間に階段をつけてしまいました。その技の鮮やかなこと・・・。私は9月に入って礼状の中に「尊敬できる人を大滝で見つけました・・・」と書いた覚えがあります。また、当時いわゆる「番長」といわれるゴンタな奴がいました。学校では困ったことをしても丹誠塾とそのキャンプは好きでいつも来ていました。そんな奴が何かあることに悪さをします。KIさんはそんな彼にも厳しく声をかけていたようです。あとで「あいつゴンタやろ、先生方が手を焼いているみてえだから、ちょっとこらしめておいてやった・・」と言います。
KIさんはちょっと私たちを過大評価しているきらいがありました。KIさん曰く「丹誠塾の先生はみんな働き者じゃ。いつもちょこちょこ動いて働いてる。それに夜になって子どもが寝ても全然酒盛りをしない。他の大人は子どもを早く寝させて、あとは大人でわいわい楽しんどるのに、先生方は偉いもんじゃ・・。」だそうです。私たちは別段働き者でもなく、ストイックな人種でもないのですが、KIさんはいつも私たちをほめてくれました。
種を明かせば、いつもちょこちょこ働いているように見えたのは100人もの小中学生を引率するには24、25歳の私たちにはアップアップの仕事だったのです。今なら、高校生や大学生をスタッフにして子どもを見ながら自分も楽しむというシステムがありますが、塾を初めて4年目の私たちには卒業生をスタッフにするという発想がなかったのです。それと、夜お酒を飲まなかったのはアップアップだったことに加えて、その一年前の五日市のキャンプで深夜テントにムカデが出て、大騒ぎになり、お酒を飲んでいたこともあり、対応に苦労したことから、イベント中は禁酒しようとみんなで決めたからです。種を明かせば、どうってこともありませんが、KIさんは私たちを好ましく思っていてくれて、言葉で評価してくれることは、逆に若い私たちには「信頼されているからしっかりしなくちゃ」と意識を高めてくれた効果がありました。私たちはキャンプ中、KIさんから薪の火付けから、スズメバチの対処法などアウトドアのノウハウを知らず知らず、教わって過ごしました。
2年目も3年目もKIさんはバンガローを自分1人で新築して私たちを待っていてくれました。大滝という地名が示すとおり、豪雨があればすぐ水が押し寄せる場所です。台風などにはひとたまりもありません。そういう場所だから、民家を建てずにキャンプ場として土地があったのでしょう。最後の年はダム建設を前にキャンプ場は閉鎖しました。でもKIさんは「丹誠塾の皆さんにはキャンプをしてもらう・・・」と私たちだけのためにバンガローを作って待っていてくれました。
とうとうダム建設が始まって涙をのんで大滝キャンプ場とお別れした私たちは相模湖、上野原高原、檜枝岐などいろいろな場所を転々としてキャンプをしました。その都度、工夫してワイルドなキャンプは成功しましたが、KIさんが応援してくれたようなキャンプ時代はいつも頭にありました。定点でやりたい、自分たちの場所を作りたい・・・・という思いが結実したのが、1993年の苗場山荘の完成だったように思えます。つまり、今の山荘の歴史を作ったのは広い意味では大滝キャンプ場で、KIさんがホームのように暖めて待っていてくれたキャンプ場があったからです。
その後20年近く経ちました。年賀状のやりとりは最初に訪問したKAさんとは続いていますが、KIさんとはいつのまにか途切れていました。時は移り、雁坂トンネルも開通し、ダムは概ね完成に近くなっていました。一昨年、福島と山梨から大滝に抜けたことがありました。昔のキャンプ場の跡がどのへんか、KIさんの自宅もどのへんかわからないまま、ダムサイトのお土産屋さんで「大滝のKIさんはお元気でいられますか?」と勇気を出して尋ねてみました。答は「はい、お元気でいますよ」でした。そのとき、はっきり決心しました。「早いうちに会いに行こう」と。
そして今回です。やっと本題に入れます。
来年は鉱物を探す一年になりそうです。今までは水晶や化石などを中心にハンマーやタガネをふるっていましたが、来年度はもう少しフィールドを広げ、川金、山金、黄鉄鋼、黄銅鉱、磁鉄鉱、沸石、マンガン、方解石・・・・、ルーペを片手にいろいろな鉱物と出会ってみたいと思っています。近いので吉見の沸石や奥多摩の川金などはついでのときに下見ができましたが、もうすこし本格的な鉱山跡はどこかと探していたら、なんと大滝の奥に昭和初期から掘っている鉱山群があることを知りました。福島は「KIさんにご挨拶がてら、大滝に行こう」と11月に入って言い出しました。9月末からイベント続きで11月18日にやっと野外イベントが年内終了したので、その翌日19日に出かけて行きました。
事前に電話で訪問と目的を知らせておいたので、84歳のKIさんは自分も鉱山跡に行くつもりで準備して待っていてくれました。よく話を聞くと自分は若い時、その鉱山で働いていた経験があるそうで、当時の鉱山の抗口を覚えているとおっしゃいます。車から降りて、昔の抗口を求めて歩く姿は背筋が伸びて、かくしゃくとしています。昔と同じ非常な早足です。覚えのある河原に来たので、河原に降りることになりましたが、階段がなくなっています。みると木に1本のロープがかかっています。このロープを頼りに3人で崖を降りました。重量オーバーの私を84歳のKIさんが気遣ってくれます。河原で身軽に向こう岸に渡って「2人でそこにいて・・・」と福島から言われたKIさんは、大きな石をぶん投げて浅瀬に道を作り、なんなく向こう岸に渡っていきます。鉱山で働いていた人だけあっって、「これは方解石、ここはマンガンが入っている、これは黄鉄鋼、磁鉄鉱・・・・。これはもしかしたら、金?いや、じゃが金かいな・・・。」と石を見て反応します。じゃが金とは黄鉄鋼のことで、うその金という意味らしいです。
来年度の鉱物学習の下見という口実で昔お世話になった方との再会を果たし、満足な思いで帰宅したのが、先週の月曜でした。そしてまたこの日曜日私たちの車は秩父に向かっていました。今度は鉱物に興味のある卒業生2人とKIさんを懐かしがる西尾を連れてです。また、鉱物を採りにズリ場や河原におりる格好で待っていてくれたKIさんと楽しい半日を過ごすことができました。今回はもっと鉱山跡のズリ場が見たかったのです。KIさんの知り合いの協力もあり、鉱山跡にも少しおじゃまさせて頂いて、昔の鉱山の雰囲気を嗅ぎ、ズリ場というものがこういう場所なのかとも、よくわかりました。
KIさんには鉱山で賑わっていた当時の光景が蘇っているらしく、「あの山の高いところに宿舎があって、たしかあっちには学校があって、ここは食堂だったがな・・・」。でも私に見えるのは廃墟と化した鉱山跡のトタンや古木材の集合です。「こうなっては侘びしいモンだ・・・。」KIさんのタイムスリップ状態は尽きませんでした。
最後に、また来年も来ます。そのときはまた昔のようにお世話になります・・・、と言ってお別れの挨拶をしました。
吉見の沸石 | トロッコの線路と抗口 | マンガン鉱などのズリ場 |
昔の抗口は 埋まっているらしい |
中津川へ注ぐ神流川 | 白いのは石英 |
2007年11月7日
何年ぶりかで骨董市へ行きました。ビギナーの1人を案内して歩く骨董市はお天気に恵まれ、お店の人たちとも話が弾みました。
行ったのは新井薬師の骨董市です。第一日曜日と決まっていて、大学時代から通っています。だからもう30年ちかくなりますが、この2~3年、休みのタイミングが合わなくて、残念に思っていました。私は卒業生が結婚したら、思いっきり趣味の押しつけをします。親しかった人に限りますが、私の気に入った、使いたい骨董を贈るのです。迷惑でもかまわず贈ります。ところがこの2~3年,なかなか骨董市へ行けなかったので、贈り物の機会にいつも不本意ながら、吉祥寺あたりの現代ものの陶器を贈っていました。これも趣味の押しつけですが、ちょっと私流ではない気がしていました。
久々の骨董市では一枚の大きいお皿が気に入りました。お約束の値段交渉をして約2割ほど割り引いてもらって、店主から「幕末のころだよ」とちょっと古めにリップサービスをいただきながら、新聞紙に包んでもらいました。コツンとあてたら大変とすぐリュックにしょって、他の店を見て回りました。ビギナーの連れはタイの小物入れを1つの値段で2つ手に入れていました。交渉能力が高く、なかなか強者です。本人は黙っていたらおまけしてくれたといいますが・・・。
何もない久々の天気の良い日曜日。骨董市を見て回りながら、「やっぱり私は骨董市が好きなんだ」と満足して帰ってきました。
右はその気に入った大皿です。次にゴールインの報告を持ってきてくれる卒業生に押しつける予定です。
2007年10月18日
今年の紅葉は本当にゆっくりです。先日、休みと仕事を兼ねて福島県に行ってきました。東北道を二本松で降り、岳(だけ)温泉、新野地温泉と巡って猪苗代に抜けました。途中レイクラインやスカイランイはすごい渋滞していることを新野地の相模屋旅館の野天風呂の中で知り、「紅葉はどうですか?」と尋ねると「福島側は全然よ・・・」という答えでした。土湯峠辺りは赤い紅葉が進んでいて、これから見頃・・という感じだったので、意外な感じがしました。相模屋旅館の野天は噴煙が大きく2ヶ所から上がり、女湯は上からそれを見る位置にあります。大きく上がった噴煙の行き先が風にあおられ、山側の木々に向かったとき、その光景は現れました。太陽を背にした木々の隙間からわずかに木漏れ日が逆光ながら、女湯からよく見れます。そこへ噴煙が重なったとき、木漏れ日のシルエットがカーテンの様に放射線状に浮かび上がるのです。この世のものとは思えぬ美しさで一瞬に去る噴煙を恨めしく思いながら、次の噴煙の訪れを待っていました。結局、その光景は2度しか現れず、ずいぶん長湯をしたと反省しながら、野天風呂を後にした次第です。ロビーでは先に上がった福島がのんびり新聞を読んで待っていました。「男湯はずいぶん混んでたよ」といっていました。
その後猪苗代に行った私たちは友人の紹介で自炊式ホテルに安く泊まり、自由きままに食事し、日頃の睡眠不足をここぞとばかりに補っていました。ホテルの公共スペースや大浴場にも行かず、ひたすら自室で楽しんでいました。福島は「せっかく、源泉に入ったのに循環塩素消毒の大浴場に入ったらもったいない・・・・」と言います。
翌日は9時から3つの旅館を回って春合宿の宿を探すという仕事でした。12時ちょうどに終了した仕事は神経を使う仕事でした。前もって電話連絡してあったので、3つの旅館ともお茶やお菓子を用意して待っていて下さいました。みなさん親切にお部屋や浴室を見せて下さり、春合宿の話を聞いてくれました。ただ、立て続けに初めての場所で初めての人と会うのは気疲れの作業で、終わった時福島は「もう一つ、源泉に行こう・・」と東北道を再び北上し、福島西で降りて「高湯温泉玉子湯」へ直行しました。到着は1時20分だったのですが、日帰り入浴を断わられ、がっかりして町営の「あったか湯」へ回りました。福島はこの湯も大変気に入って、首の後ろにあったしこりがとれたと喜んでいました。高湯温泉はどの旅館も外観が綺麗で、最近改築したものが目立ちます。山奥の秘湯というより、福島県の人たちに支持された「人気の温泉」という感じを受けました。帰りには車中で「福島県すごいね。いい温泉がたくあるね」と話して帰ってきました。
(画像はホテルから見た磐梯山と下は地ビール園でソースカツを食べる福島です)
2007年10月11日
やっと秋らしい空気になりました。9月9日から連続行事続きの生活はやっと、水晶まで2週間の間隔をあけることができます。毎週毎週なにかあるので、週初めは大変きついスタートでした。
今年の森は2週間遅れだそうで、いつもきのこツアーの時期にはいち早く盛りを迎えている和田小屋の紅葉もまだまだ本番前という感じでした。きのこはスギヒラとハナイグチがたくさん、収穫できました。その他は全然見つかりません。ナラタケの姿が見えないのが寂しいです。きのこツアーには幼児から大人まで参加して、秋まだ浅い苗場の森を歩くことができました。行きに原木栽培のマイタケを仕入れで山荘に向かいました。春雨とインゲンの千切りと、そのマイタケを炒め、オイスターソースで味付けし、春巻きに巻いて揚げました。マイタケの香りが春雨にしみこんでそれを全部春巻きで包み込んで、旨さを閉じこめて揚げる料理です。きのこ鍋とともにツアーの定番となっています。今回は中学3年生の勉強合宿の時に食べたコロッケが忘れられないという大学生の強い希望で山下のコロッケが登場しました。特徴はポテトをよくつぶしてなめらかにしてあることと、サイズが小さいことです。50個のコロッケは参加者のお腹につぎつぎと収納され、翌朝にも登場し、最後西尾家のお土産となって、完売の運びとなりました。またきのこ鍋の残りでつくった雑炊は好評で、なぜかカニの味がするとフクセンやのりとくんが言うのが不思議でした。
森を歩き、旨いものを食べ、楽しく語らう・・・・。こんな贅沢な時間を過ごして来ました。
2007年9月13日
台風4号で延期となったイベント「ビーチコーミング」に行ってきました。今回も台風がねらっていましたので、気が気ではありませんでした。しかし、運良く台風の去った後の館山で無事終えることができました。台風4号と違い、9号は館山の沖の海底をごっそり攪拌してくれたのか、海岸の様子が全然違っていました。日頃みられない貝殻やいつも見ている貝殻でも完全な状態の貝殻がたくさん上がっていたのです。関東を直撃し、東北へ北上した進路がそういう効果を生み出したのかもしれません。
マイクロで20名弱の一行が館山の海岸についたのが10時過ぎ。それから約5時間波の音を聞きながら、海岸のお宝を探して歩きました。やはり根本のフラワーパーク下が一番の貝殻の海岸で、いつも集まっていない場所が今回は厚い貝の層ができていました。そのあたりで子どもたちはたくさんのタカラガイをみつけました。珍しいところで、カノコダカラ、クロダカラ、サメダカラ、ウキダカラ、ヤナギシボリ、シボリダカラなど・・・・・です。山下はウキダカラの3個並んだところを見つけて思わず「ウッキー3連発!」と叫んでいました。すかさず小学3年生がやってきてそのあたりをぐちゃぐちゃにかき回したので、4つめ、5つめは分からなくなってしまいました。小学生は私をはじめから、マークしていて、私の視線の場所を探すのです。私が「おおっ」というと、もう前方に手が出てきて、獲物をいち早くゲットしようと構えているのです。これを1時間やられたので「自分で探しなよ」と言い置いて、なるべく単独で海岸を歩くようにしていたのです。そんなときウキダカラを3個も同時に見つけたモノでしたから、小学生の悔しがること悔しがること・・・。「やっぱ、ヤマセン(山下のこと)についとくべきだったな!」とつぶやいていました。
あと5分のところで最後にウキダカラを見つけた小学生もいて、根気のある子は勝利するなと確信しました。
探し疲れて海岸に寝ころぶと雲一つない青空が広がっていました。耳元ではつきることのない潮騒・・・。磯の生き物を追いかける小学校低学年の騒ぐ声に混じって「○○見つけた!」と興奮する叫び声。これが心安らかな空間というのかな・・・と思って寝ころんでいました。
館山道が全面開通したおかげでずいぶん時間短縮となりました。休憩を途中たっぷり20分入れて、2時間40分で到着しました。海水浴のシーズンが終わると今度はビーチコーミングのシーズンです。子どもたちも回数を重ねて参加している人は立派はコレクションを作るようになってきました。よほどのものはタカラガイブックで確認しますが、参加者の半数は経験者。海岸ですぐ名前が出てきます。ここまでタカラガイに精通している小中学生は珍しいと思って頼もしく眺めていました。
それにしても今回の台風9号はいいプレゼントを残して行ってくれました。
2007年9月4日
休暇村を全国回っています。今年の夏は前半に3つの苗場のサマースクール、後半に10日連続の田無教室でのサマースクールを実施し、サマースクールと2学期の合間の休みに東北へ行ってきました。このコラムにふさわしく森へ行ってきました。
最初の休暇村は網張温泉休暇村。浴槽に入った時は透明で時間が立つにつれて白濁していく温泉に浸かりながら、夏の猛暑の疲れを流していました。深夜に一度お湯を全部抜いて入れ直したのか、翌朝には透明なお湯が待っていました。1,000メートルの高さから遙か岩手の町並みを臨みながら入る早朝の湯は最高でした。
福島の希望の「比内」へいったのは2日目でした。比内地鶏で有名な「比内」です。もちろん彼は親子丼を迷わず注文していました。私は秋田の地酒と比内地鶏の焼き鳥ともつ煮込みをいただきました。もつはもちろん鶏もつです。言うまでもなく満足の味で噛みながら、地鶏の風味を味わっていました。その地酒のお店を紹介してもらい、お土産を買いました。
次に目指すは「焼山」の両麓にある温泉です。その北側麓の後生掛温泉は今までに経験した中で一番強烈な温泉でした。白濁の硫黄泉で入浴料400円ながら、木造の湯殿は湯煙の中で秋田弁が飛び交う静かな湯治の空間でした。一つ一つの源泉が珍しく「泥湯」や「蒸し湯」も体験してみました。先客が入り方を指南してくれます。「底の穴っこの泥を身体に塗ってさ・・・」「そっちの泥はぴりぴり刺激が強いで、底の穴っこに指つっこんで・・・」
お昼をいただいた比内の食堂の方は「どうです?秋田の酒っこは。上手いでしょ。」と親しげに優しい秋田弁で話しかけてくれました。この後生掛温泉の秋田弁も最高に優しい響きです。○○に「っこ」」をつけると○○がとても優しくなります。湯っこ、酒っこ、穴っこ・・・・・・。
後生掛温泉の次は同じ焼山の麓にある玉川温泉ですが、駐車場が満車で、あたりの景色を見ただけで諦めました。
その夜は休暇村田沢高原でした。単純硫黄泉とナトリウム塩化水素泉の二つの源泉を持つ宿のお湯はまた秀逸。無臭といいながらプンと油臭が感じられるのは私だけでしょうか?食事もいうまでもなく、きりたんぼ鍋やタケノコとニシンの煮物は味付けの優しさが秋田弁とだぶって一層旅情を深める味でした。
帰路についた私たちは欲を出して予てより行きたかった鳴○温泉に寄るため東北道を下りました。さて、さて、いいことばかりは続きません、待望の鳴○温泉は共同浴場のチョイスを間違えてしまい、残念な感想を持って帰ることになりました。温泉町に異彩を放つ薄黄色にペンキを塗られた共同浴場は浴室もコンクリートにペンキ塗りのアート(?)な空間。オープンの頃はきれいなペイントも時を経過すると無惨にも廃屋に近くなっていきます。東京の大学の先生の設計とありますが、温泉をもっと研究された方が・・・・と思って入浴していました。お湯の良さにもまして臭気がたまらないのです。私の鼻を悩ました臭気は二つあります。もやしの傷みかけの臭気とカビ臭です。浴室を見上げると黒々の一面の黒カビ・・・・。これではたまらないと早々に引き上げました。福島は私よりもいち早く休憩場所にいて、ふたり顔を見合わせて笑ってしまいました。そこではまわりのお客さんもいるので、コメントはさけましたが、車の中で「ほうし温泉だね、それもカビの胞子温泉だね・・・。」鳴○温泉は期待が大きかった分、落胆も大きく、早々に東北道に復帰して、夕方7時前に自宅に帰ってきました。
今も後生掛温泉の湯煙の中の秋田弁を思い出します。
2007年8月21日
酷暑が続きます。いかがお過ごしですか?
塾はあと少しで夏期の休業が終わり、サマースクール最後の田無教室での勉強が始まります。フクシマはこの休みの間に隣の家をずいぶん頑張って整理しました。8畳間の3壁にあった書籍たちを一冊一冊吟味して、廃棄するものを十文字に縛っていきます。その作業にほぼ一週間を費やしました。本棚も壊して束ねてゴミに出したり、廃品回収の車に出したり・・・・・と酷暑の中、一日一キロずつ身を削って積年の堆積物を整理していました。ほとんどのモノは今の住居には収納不可能なので、廃棄となります。彼は「本を開いて思い出す記憶がある。本を廃棄するとその記憶もなくすことになる」と切なそうに言います。いろいろな授業のアイデアが廃品となった書籍の中に埋まっているのでしょうか?
私はただ、フクシマが整理する気になっただけでラッキーなので、あまり水を差さないようにしていました。
きのう、約200冊の廃棄書籍を資源回収の場所に並べて、やっと片づけの折り返し地点に来ました。あとはどんどん不要品を可燃、不燃に分けて、毎朝少しずつ集積所に運ぶ作業が待っています。書籍の選定がこの夏の最大の課題でした。
先日、郷里の叔父(父の兄)が暑い中なくなりました。エアコンの嫌いな方で高齢だったこともあり、あっけなくこの世を去られました。私は式に参列するために兵庫県に帰っておりましたが、これで父にまつわる人がまた一人いなくなったなと感じて帰ってきました。人は2度の死を経験するといいます。第一の死は生物学的死。つまり自身が死ぬこと。第二は社会的死。故人を知っている人、故人にまつわる人の死。
更新しているか・・・・と、こまめにチェックして下さっている方がいると知り、有り難く思います。2学期からはなるべく何か記そうと思っています。はやく頭脳が正常に働く気温になることを願っています。でも本当に「暑いね」。(我が家での禁句)
2007年7月20日
台風4号でビーチコーミングが延期になり、翌日大人だけで行った館山で中越沖地震のニュースを知りました。この前の地震の記憶が新しいうちに、同じ地域に激甚な揺れが襲ったことになります。お年寄りが犠牲になってことも痛ましいです。古い家に住んでいた者としては人ごとではありません。今も築50年の我が家は隣に健在です。
さて、我が家も17日火曜日より、「就職活動」という激甚な揺れに襲われました。息子がメールで「国2の1次受かったから、家に帰る」と知らせてきました。私たちは試験を受けていたことは知っていますが、発表の日やその後の官庁訪問などは全く知らなかったので、何が始まるのが見ていました。その夜に息子は「明日は國學院で合同の業務説明会かあるから・・・・」と翌日からの官庁回りの予定を立てています。心配は交通機関や地理のこと。時間までに官庁に行けるかどうかです。
結局、息子は公正取引委員会、特許庁と回り、精魂尽き果てて金曜の夕方を迎えました。結果はどれも思わしくありません。どうもいち早く他の人は回っていたのを、息子は今になって知ったようです。また仕事の内容も超ハードなようで「国家公務員は忙しいな・・・。もっとゆっくりしてるかと思った。」と言っています。スーツを脱ぎながら、土日は宇都宮でゆっくり鋭気を養うといいます。
今日息子が出した結論。「霞ヶ関は自分には合ってない。普通の服を着て生活するのがいいな。新宿でスーツじゃない人をみると羨ましくて目がそっちにいっちゃった。オレ、宇都宮の検察庁予約して、もう霞ヶ関は回らないことにしよう」息子は来週には金融庁、会計検査院を予約していますが、どうもエネルギー切れしている様子。私は官庁の特徴などの説明や地図などの協力はして、あまり口を挟まないようにしていましたが、あまり消極的なことを言うと、「あなた面倒なことから逃げてんじゃない」と思わず言いました。息子は「お母さん、それはおれの問題。黙っていて。」と図星らしく反論します。福島は結局一言も意見らしいものは言わずにオールスターの話をしています。
この1週間、夜は息子の相談や官庁からの電話を待ち、朝は早朝より朝食作りやお握り作りで協力し、母親としても疲れました。来週は息子のことを忘れて生活したいと思います。3日間のラッシュ電車やスーツ姿で自分の限界を知った息子の出す結論とは・・・。宇都宮検察庁への電話のあと、「やっぱ栃木なまりは最高だな・・・」とつぶやいた彼はもう心は宇都宮に帰っていました。
2007年7月5日
久しぶりに休みをとって、福島県方面へ出かけてきました。高速道路の記録を見ると5月の連休以来、遠出をした記録がないので、よく働いていたものだと思います。とくに6月の最終の週はいろんなものの仕上げの週で、睡眠時間にも影響するくらい忙しい週でした。
福島県はまず土湯温泉こけしの湯を選びました。コンコンとわき出る源泉に惜しげもなく水を注ぎ入れ、地元の人だけの立ち寄り湯は入館料250円。浴後は今までの仕事の頭がスッキリ切り替わって、心身ともに爽快感でみなぎっていました。「ひさご」という蕎麦屋に行き、そこの皮タケノコや牛もつ煮に舌鼓を打ちました。次は二本松方面に舵を取り、岳(だけ)温泉に向かいました。ここの温泉も透明で無味無臭ながら、激しく熱いアグレッシブな源泉がドバドバ投入されていました。入館料300円。爽快感を通り越して、戦闘的にもなって行きます。
夕方になり、茶臼山中麓の那須湯本の休暇村に落ち着きました。野菜中心のバイキングはいろいろなバリエーションがあり、内容といい、量といい、満足のいくものでした。ネットで予約したので、いろいろプレゼントがつき、うれしいのですが、そのたびに「夫婦ふたり旅プランの・・・・・」と説明されるのが、ちょっと恥ずかしい感じでした。
その夜の経験を記しておきます。
休暇村の温泉は鹿の湯と違い白濁していませんでした。土湯や岳温泉と比べると、ちょっと物足りない感じは否めませんが、明日は一番に鹿の湯に入ることを思い、ゆったりと露天風呂に浸かっていました。そこには茶臼を歩いて下山してきたという健脚のご婦人が入っていました。山の話や天気の話をしていると、もう一人のご婦人が入ってきて、話に加わりました。あとから加わった人が「あなたは一人で山を歩いているのですか?」と健脚のご婦人に尋ねています。「はい、主人は着いてきません」。「なぜ、ご主人は着いてこないのですか?」「いや、主人はちょっと・・・」「他の趣味をもっていらっしゃるの?」「そうですね」・・・・・・・私は露天風呂で話すにはちょっとつっこみすぎてるな、不躾な質問なだ・・・と感じながら黙っていました。そうすると健脚のご婦人がサラリと「私の主人は認知症で山に連れてくることは無理なのです。」私はとても驚いてしまいました。差し障りのない温泉情報を交換して露天風呂の付き合いは行われています。この流れはちょっと違うなと感じていますと、あとからのご婦人が「私の主人もおかしいの。今日も車のサイドブレーキの場所を間違えたり、ワイパーを回したり、ライトをつけたりと、運転中おかしなことをやっているの。認知症かしら。前からも物忘れがひどくて、本人もオレどっか見てもらった方がいいかな・・・っと言い出す始末で、でもお酒を禁止されるのが怖いらしく、病院にいかないのよ。これってどうでしょう?MRIっていう検査した方がいいかな?」おっと、意外な方向に話が向かっています。健脚のご婦人は穏やかに「一度、問診からでいいので、お医者さんに相談してみたら・・・。車の運転は心配ですよね。」と相談に乗っています。
その後は心配なつれあいを持つご婦人の話が中心になり、日頃のうっぷんや不安を一度にはき出すこととのできた彼女はスッキリして露天風呂を後にしました。私と健脚のご婦人はちょっとやれやれ・・・という感じを共有し、あとはゆっくり認知症の看病の話に移りました。淡々と語る彼女の話に思わず、引き込まれ「つれあいを介助する生活」の壮絶さを知ることになりました。一番つらいのは性格が変わってしまい、昔はなかったような対応や物言いをすることのようです。彼女の体調の不調もどうも精神的なものからきているという話です。息子さんが休みを取って、家に来てくれたので、こうやって山を歩く時間ができるということです。
偶然その夜はテレビで「明日の記憶」をやっていました。早寝をした福島のいびきを聞きながら、部屋で渡辺謙、樋口可奈子のその映画を見た私は、露天風呂の方よりずいぶん綺麗な話に仕上がっているが、実際の問題提起にはなっているなと感じました。あのように夢を持って終わらないとやりきれない現実があるのだということだけは分かりました。
不思議なご縁で認知症のつれあいと生きていくということをずいぶん身近に感じられた旅となりました。その彼女とは朝のバイキングでも隣の席となり、福島も交えて山の話をいろいろ楽しんで「また、どこかの休暇村でお会いしましょう」と別れました。名前を名乗り忘れた関係のままとなりましたが、忘れられない出会いになったと思っています。彼女の穏やかな表情がいまも印象に残っています。
2007年6月12日
このコラムで一度話題にさせていただいた吉祥寺モカがお休みしています。
先日の豪雨の時、休日補講の娘を乗せて吉祥寺へ行った福島が「やっぱり休んでいるよ。ご主人が体調を壊しているらしい・・・」と浮かない顔で帰ってきました。何度電話しても出なかったので、何かあったのかとずっと心配していました。
吉祥寺モカは私たちが大学生のころからあり、最初はたくさんの若い人を雇って、喫茶部でコーヒーを飲ませていました。結婚したころ(今から35年前)はもう私たちは喫茶部に通うことなく、豆を買って家で楽しむ客になっていました。世界各地を歩いて、いい豆を求めるご主人の姿をいただいたハガキから想像して、ひと組の客として、モカを応援していました。
ある時一年間、店を休んだことがありました。私たちはいろんな評判の名店を試してみましたが吉祥寺モカの味は出せませんでした。モカのご主人はいいます。「コーヒーは入れ方じゃなく、豆だ」と。だから私たちはモカが再び開くまでコーヒーをやめて紅茶派になりました。
念願かなって、モカは再開しました。喫茶部を閉鎖し、豆売り専門のスリムになったモカが同じ井の頭公園入口近くに現れました。電話注文の私たちですが、ホンのたまに店に買いに行ったとき、「コーヒーを飲んでいって」とご主人が声をかけて下さり、奥のコーヒー歴史館のごとき部屋でコーヒーをごちそうになったことがありました。福島と「やっぱりうまいな」と言って、感激した覚えがあります。
モカは丹誠塾のお手本の部分があります。それはなんでもかんでも達成することが無理なら、最小限の実現・・・・・を果たそうとする姿です。吉祥寺はある時期、激しいコーヒー店出店戦争を経験します。一部のファンがしっかり支えるモカもその嵐の中にいました。ドトールコーヒーが幅をきかす街で本格派のモカがどのようにして生き残っていったかは「一番残したい最小限」のスリムなモカの姿が物語ります。「商い」ということでモカと共通点を持つと思い、丹誠塾の舵取りに「この一番残したい最小限」という発想は1つ先を航海する有り難い灯りとなって私たちを導いてくれました。
ステイタスシンボルとしての進学塾、お母さんに都合のよいご用聞き的塾、精神主義の塾・・・・どれも私たちの方向ではありません。塾の舵取りで窮地に立ったときは「私たちはいったい何をやりたいのか・・・・」「どこをスリムにすれば、より大事がものが残せるのか」とこう考えていました。モカにとっての豆は塾にとっては授業だったのでしょうか?それとも目の前にいる子どもから全てが始まるつきあいでしょうか?前者は売っているもの、後者が売り方でしょうか?
きのうは台所のコーヒーグッズを全て片づけて、モカ再開を祈りました。しばらく、紅茶派になって人生の先輩の復帰を待とうと思っています。
2007年5月29日
親子4人で苗場山荘へ行ってきました。息子は高3の受験サマースクール以来の4年ぶりの山荘。この4人のメンツで行くのは本当に久しぶりです。これは娘の提案から始まったことで、はしか休講中にかねがね行きたかった山荘へ1泊で出かけようということに話がまとまったのです。息子に声をかけるとこれも二つ返事で「懐かしいな行きたいな」ということだったので、この日月に出かけました。
日曜に宇都宮の息子を拾い50号を桐生方面へ。途中「一品香」というラーメン屋さんでお昼ご飯をとり、「みかも」の道の駅で「おかき」と「トマト」と「いちご」を仕入れで楽しい山荘行きは始まりました。
桐生では少し仕事をしました。それは「ぐんま昆虫の森」の下見です。二日酔いでダウンの息子は車に残ってしましたが、私たち3人は昆虫館を中心に見て回りました。網をもって歩く親子連れが目立つのがこの昆虫の森の特徴です。昆虫を採集してもいいのです。帰りにはリリースするのがきまりですが、子どもが虫取りすることを念頭につくられた体験施設なのです。福島は夏のDIGのフィールドにここを考えていたので、お弁当の場所や展示のやり方を下見に来たのでした。
昆虫の森をあとにしたのが午後3時ごろ。赤城の南麓を快晴の中、ドライブして行きました。すると福島が「あったあ!」と叫ぶので見ると、「とんとん広場」の看板です。「とんとん広場」とは駒寄の食の駅でいつも福島が買う「福豚」の牧場(運動させている赤豚)のことです。でも看板があるものの、そこへの案内がありません。気をつけて赤城南麓の道を行くとそれがありました。あきれる子どもを残して、私たち2人は店に向かいました。お昼を食べてしまったのでレストランは断念して、ウインナーとベーコンを買いました。その夜のメインはポテト&ベーコンと決まりました。福豚のベーコンをたっぷりつかった料理を思い描いて、山荘で料理するのが楽しみになりました。
山荘に着くとカメムシのお出迎えで、息子と娘は掃除機とガムテープで格闘していました。私は食事担当となり、運転してきた福島はしばし休んでいました。料理の合間にリビングの食卓で3人卓球大会が始まり、娘が口ほどにもないことが判明しました。彼女は大学の体育の授業の卓球大会で優勝したと言っていたのですが、兄貴に一言「クラスのレベルが低いな」と言われていました。
福島をおこして夕食後はお風呂に入ったり、本を読んだり、ばらばらに楽しみ、家族の苗場山荘の夜は更けていきました。
翌日は福島や息子は朝風呂を楽しみ、掃除を終えて元気いっぱいです。私は山荘まわりのヤマウドを娘と収穫しました。1週間前には影もなかったヤマウドが大きくなっていました。福島と息子はハイエースの教習です。息子はその大きさにこわごわの挑戦ですが、いずれ就職活動が終わったら、後輩たちの試合遠征でも手伝ってやるつもりのようです。初心者の息子はやはり激しいキープレフトでした。
息子と娘に水抜き実習を行い、冬に単独で使用ができる準備をしました。息子はもう成人していますので山荘を申し込むことができるようになったのです。山荘をきれいにして、出発する時、娘が「山荘バイバイ」といっていたのが印象的でした。2歳から四季折々に遊んだ懐かしい場所にやって来て今回は新しい発見があったようです。息子も掃除や物の移動を率先して手伝いながら、幼い頃の場所を再認識していたようです。
遠くの山並みを見ながら、また群馬から栃木方面を目指しました。今度の昼は足利の「一茶庵」です。2時30分には休憩に入ってしまうので急いでいましたが、途中福島がパイプの製造場所に寄って、そこの主人と30分近くおしゃべりをしたので、時間が気になり始めていました。そして無事1時30分には「一茶庵足利本店」に4人は落ち着いていました。昔、目黒の「一茶庵」に子どもたちを連れて行ったとき、お休みだったことを思い出しました。その後目黒は開くことなく、終わってしまいました。残念そうに本店の方が話してくれました。あの時がたしか子どもたちの外食の始めだったように記憶しています。「目黒一茶庵」がだめだったので池袋の「文流」にいったように思います。
「一茶庵」で大満足した私たちは宇都宮に向かい、4時半からテニスをするという息子を降ろし、3人は東京に帰ってきました。外環の三郷近くの「早稲田めぐみの湯」で温泉と夕食を楽しんで家に帰り着いたのは夜の9時半ごろでした。
いや~。遊んだ遊んだ。それも久しぶりに4人で・・・・。
2007年4月15日
春も本番となりました。桜が散り、ハナミズキがあとに続く、こんな頃が一番過ごしやすいのかもしれません。
きのうから塾のパーソナルクラスが始動しました。山下は今年は朝から担当することになり、フクシマと一緒に出勤しています。朝から夕方まで、5コマが入っています。マックスは8コマですので、フクシマが適当と考えれば、山下の担当に増やしてくる予定です。そのクラスの2人の子と本を読む段取りになりました。そのうちの一人と話し合って本の選定をし、アマゾンで一緒に検索しました。なんと中古本で1円!送料が340円で合計341円で2000円近い単行本が買えてしまうのです。少し前まで考えもつかない本屋事情が広がっていることを知りました。インターネットでは画像も出るので、子どもの持っている本と同じかどうか確認でき、本屋さんに直接行くみたいな感じでもあります。
私の中高時代は毎日、本屋通いでした。買う本がなくても本屋に行っていました。姫路には大きな本屋が3つあり、私はそのうちの2つを選んで毎日、何かタチ読んで帰っていました。フクシマは「本は並べないといけない。本の背表紙から刺激を受けるから・・・」と言います。私は本屋さんに通いながら、たくさんの背表紙から刺激を受けていたのでしょうか?
今はネットで買うか、ブックオフで買うかのどっちかになっています。ゆったりした背表紙が並ぶ空間から離れて久しいです。便利な世界で生きながら、昔のあの本屋の匂いを懐かしいと感じました。
我が家の前の空き地にたくさんのツクシが出ているのをおととい発見し、大変喜んでいます。スギナは前から見かけていたのですが、こんなにたくさんのツクシが出ているのは始めてです。お向かいさんと一緒に喜びながら、いつまでも空き地だといいね・・・・と都会のしばしの自然を眺めていました。画像で紹介します。懐かしい景色でしょう?23区ですよ。
2007年3月8日
晴れて受験生の母を卒業しました。娘は念願かなって、4月からは大学生になる切符を手にすることができました。
思い返せば、11月の推薦入試が不合格になってから、本気で大学を考え出した娘でした。そして「私は地方で一人で暮らすんじゃなく、ここから大学に通いたい・・・・」と父親に訴えました。自宅から通う大学はたくさんありますが、今まで私立という範囲は考えてなかったので、大幅な変更を余儀なくされました。国公立なら授業料減免制度もあり、なりより生徒数も少なく、いい環境で勉強できるというのが、私たちの持論だったので、息子の時も私立は範囲外と申し渡してありました。ただ自宅から通う国公立となると得点が届きません。娘に「私立も含めて考えよう・・・」と父親が言い渡したとき、娘のホットした表情がありました。まんべんなく無難に得点する息子と違って、娘は科目にばらつきがありました。
料理の好きな彼女は結局醸造科という変わった学科をえらびました。センター試験、一般試験を全て醸造科を目指して受験し、東京農大という思いの場所から合格通知が届きました。
今、娘は毎日、家事(掃除洗濯料理)を担当しながら、昼間は小さな旅に出ています。移動がいつも自動車だった我が家は公共の交通機関に対する常識が育っていないので、彼女は都内を自分でいろいろ回っています。昨日は自転車で西武線の線路に沿って都立家政まで遠征したと言っています。18歳の旅立ちの時はすでに始まっています。これからは4月からの共同生活者としての娘とのルールを決めて、なるべく干渉しないように生活していくつもりです。
画像はセンター試験から一般試験にかけて我が家で彩りをつくってくれたシクラメンです。一昨年の秋、埼玉県の農産物コーナーで購入して一夏を越して再び花をつけた強者です。
自信をなくして不安になる受験生の心を力強く応援してくれました。
2007年1月21日
更新して日付をみたら、もう1月も3分の2終了していました。
今日はセンター試験2日目です。さっき福島が娘を駅まで送って帰ってきました。
塾はちょうど来期の契約更新の時期です。新規書類を火曜日から配布する予定で今日は1日をかけて、福島と封筒に多種の書類をつめる日にあてています。今年の宣伝は2月に新聞折り込みを考えているので、ただいまノリトくんは募集チラシの本文にかかりきりです。募集要項、規約書、年間予定などの事務書類を作る私と違って、この一年やってきたこと、感じたこと、そして塾の授業のダイレクトな案内文として・・・・・いろいろな面を織り込まないといけない案内チラシの原稿は、一年で一番集中力を要する仕事です。着々と準備を続ける彼の姿は中学校時代より変わらない清廉な姿勢です。『ガンコに繊細に時間をかけて、でも完成するのは一瞬・・・・・。それまでのもんもんとした日々はその一瞬を生むための時間・・・・・』これが彼の仕事です。
このコラムをのぞいて下さっているご家庭の皆様、2月の中旬には今年の作品をお届けできると思います。
さて、そろそろ生物の試験がスタートする時間です。昨日は「英語の問題傾向が変わった、超最悪・・・・」と言って帰ってきました。もうすぐセンターの結果がでるという段階で思いは1つ・・・。「どっちにしたって、結果が出て前に進めることはいいこと・・・・。」
本当に人事を尽くして天命を待つ・・・・。という心境です。もちろん一般入試もありますが、ひとつひとつ区切りをつけて前に進みたいと思います。嬉しいことに私の友人や田舎の妹から、センター前日の娘に「合格お菓子」や応援メッセージなどが集まりました。この一年頑張った娘にはどういう結果が出ても、「天の意思」と考え、従うよう勧めるつもりです。
余談ながら、私の一番苦手な言葉に「結果を出す」という言葉があります。おかしい表現です。何でも結果は着いてきます。ですからここでは「いい結果を出す、つまり成功する」という意味で使われています。自信満々の人が「必ず結果を出しますから」というのも非常に傲慢に聞こえますし、反対に、努力したのに・・・いい結果が出なかったとき、潔さを演出し「すべて結果です。結果がでなけば意味ありません、言い訳しません」という風に使われています。
私が結果が出ると言う時は、どっちの結果が出ることもありという前提で、「天の意思」が伝えられる時と思っています。
もうペンを置こうとしていましたが、もっと説明したくなったので、続けます。私の高校3年生の受験期のことです。3つの大学を受けてはっきり2つは不合格で、もう1つのH大学の合格通知が誤配で、同姓同名の他家に郵送されていた経緯がありました。その家の方が少し遅れて「間違って入っていたよ」と持ってきてくれていたから、今の私がある・・・・・という話です。
そのH大学の試験が終わった時は合格を確信していたので、3つとも落ちたと思った私は、悔しく悔しくて、プライドをひどく傷つけれて「浪人しても絶対、H大学は受けない・・・」と心に決めてしまったのです。そして浪人して再び第一希望を目指す決意をし、相談に乗ってくれていた恩師や友人たちにも表明したあとでした。その合格通知が届いたのは・・・・。「女の子が浪人なんて・・・」とH大学に進学することを泣いて勧める母親とは対照的に、父親は「頭を冷やして結論を明日の朝、言いなさい」といい、翌朝も私が「浪人する」と言ったとき、あっさり「そうか、そうするか」と認めてくれました。
翌年、その第一希望の大学に合格し、1年の時に経験した学習塾のアルバイトがあまりに面白かったので教職をとり、4年より塾を開設する流れになるのです。いま思うとそのときH大学に行っていれば、今の私の人的環境はなく、たぶん丹誠塾も誕生しなかったと思います。この話は娘や息子にとっては、非常に恐ろしく聞こえます。つまり、郵便局の誤配がなければ、彼らは存在しなかったのです。哲学の設問「人間存在の根源的偶然性」です。
だから、受験の結果は「天の意思」なのです。そう受け止めて前に進むことが重要だと思うようになったのは上のような背景があるからです。
さあ、ぼちぼち試験が終了するかな?
2007年1月3日
2007年、明けました。今年もよろしくお願いします。
暮れからいろいろ懸案事項をこなすことができ、ゆっくり新年が迎えられえました。まず、換気扇の掃除、窓ふき、寝具の整理、カーテンの洗濯・・・・。日頃できない事を29日あたりからぼちぼち実行できました。年末に急ぎの書類仕事のない年でしたから・・・。年賀状も早々に投函して、メッセージなしであったことを後で気がついたようなポカもありました。
宇都宮の息子が28日に帰ってきて、大学生になって初めて1週間も家に居ました。息子の就職についての考えもじっくり聞く時間もあり、あ~あ成長したな、外に出して良かったな~と思いながら聞いていました。息子曰く「お父さんが情報としてくれる進路は一言でいって脱サラ系だよね。それはそれで生き甲斐もあり、面白そうなんだけど、俺はまだサラリーマンもやってないから、脱サラ系にいきなり行くのは順番がちがうよ。それに今の農家の問題の1つに二極化があって、一握りの千万農家と年収が極端にのびない農家が存在している。農業ってあまり経済的には夢が見れない現場なんだよね。いろいろ考えてみたけど、すぐ生産の場に行く気はないから・・・。」わたしは青臭いと思いながら、村の火のみ櫓(ひのみやぐら)の話をしました。「村に昔から火のみ櫓があってね。垂直なはしごなんだけど、火事があると、その上に登ってね、火事の場所を特定し、上部の半鐘を鳴らして村人に警鐘をならす役目を担っていたわけ・・・。大学って言うところは火のみ櫓みないなものだと思うんだよね。村人が危険の存在をしらない時にいち早く、その危険の場所、回避の方法を知らせる役目をおっている火の見櫓みたいなものだと思うよ。せっかく、大学で勉強ことを日本の農業に活かそうとしないの・・・?」
息子は、「まあ俺の問題だから」というトーンで、はっきりした方針を口にすることはありませんでした。「夏頃に、お父さんがいうように、車を買って、日本中の農家をみて回るのも面白いかも・・・」、と言っていました。
一方、フクシマはセンター追い込みの娘と年末つきあって、精魂尽き果てていました。きのう正月で混雑する駒寄温泉に行って、息を着いてきました。娘は彼女なりの努力で受験戦線を戦っていますが、親はすぐ最短の方法、効率の良い方法を教えたがります。親からみると娘は「要領のよさ」や「集中する能力」は他の才能にかき消えたのかな・・・と思ってしまいます。「自分たちと勉強のやり方が違うね」と2人で遠出の車中で、話しました。自分のやり方を曲げない娘は意外とガンコなのです。今頃父親は気付いているようでした。正月2日よりは父親も追い込みを本人一人にバトンタッチしました。
そして、今日息子が宇都宮に帰り、息子の使った青いシーツを干しながら、気持ちもブルーになりがちな母親でした。毎食毎食、腕をふるい、量もつくり、完食されるうれしさを久々に味わっていた母でしたから・・・・。また3人分の少量のおかずをつくる日常が戻ってきました。親っていうのはいつまでもツバメの親のように、雛にえさを運ぶ習性が身から抜けないようです。カニ料理のバリエーション数種、食べきりサイズのおせち、手巻き寿司、しゃぶしゃぶ&すき焼き、春巻き、桜エビのかき揚げ、揚げ湯葉のサラダ、骨つきハムとトースト・・・・。息子が1週間で完食したメニューでした。