2005年12月20日 12:52:03
今年の冬は本格的寒さがやってくるかもしれませんね。
先日、通常授業最後の日に恒例の高校生忘年会を福島が企画しました。いつも珍しいモノを食べる・・・・というテーマで一年を締めくくって楽しむ会です。去年はイノシシ鍋をやっていました。今年は懇意にしている福井の水産関係者に頼んでずばり『越前カニをたべる・・・・』・です。
忘年会の水曜日は福井地方が大雪で午前中にカニの到着を待つ私の気持ちをいらいらさせて正午になりました。私はその日給料計算やその他の仕事をたくさん予定していて、午前中にカニがつかないと、きれいにさばいてあげられない・・・・と焦っていました。福島は「もう、自分でやってもらうしかない・・・」と決断を下し、自分だけ夕方まで自宅でカニの到着を待ちました。結局ついたのは4時過ぎでその判断は正しかったのです。
私は夕方塾に無事カニが到着したことを確認して、そして福島にカニの食べ方を一応確認のために開いてみせて帰宅しました。
さて、10数名の高校生は一人一匹ずつの越前カニを前に約1時間無言の時間が経過したという話です。福島は「こういう風にカニを食べるのはほとんどの子が初めて、本当に静かになるよ・・・・。中3に味噌汁を作ってあげたら、好評でお変わりをする子が続出だったよ・・・・。」と帰宅して伝えていました。
私は兵庫県の出身で小さい頃からカニを食べて育ちました。私の郷里ではマツバガニと呼びます。越前もマツバも同じズワイガニで最近激しく高騰していると聞きます。私の小さい頃は母がカニの本体で、子どもたちは足を食べていました。大人になって本体や味噌の食べ方に熟達してからは一人前に食べるようになります。その福井の水産関係者から毎年送って頂くカニに香箱カニというズワイのメスがあります。これが非常に旨くてとくに甲羅内の内子が絶品です。外子は雑炊や茶碗蒸しにいれて味を付け直しでいただくと美味しいです。水曜日の便の中にたくさんの香箱ガニも入れておいてくれたので、知り合いに配って「初めての香箱の内子」を体験して頂きました。
山や森にいく機会もこの寒波でぐっと減りました。代わりに美味しいものレポートになりました。
2005年12月9日 11:57:38
今年は山より里の紅葉がきれいです。とくに街道沿いのイチョウが光に輝いています。
ずいぶん昔の塾通信の巻頭にイチョウの話を書きました。今日はそのことを街道沿いのイチョウを見て思い出しました。
記事は「イチョウが風もないのにバサバサ落下する一日がある。その日はいつやってくるか分からないけど、その時にイチョウの下に立って、バサバサの音を聞くのが近年の念願となっている・・・・・・」という文章でした。その機会はその後やってきて、西武線のガード近くの団地のイチョウの下にしばらくたたずんで、秋の落葉を感じて満足した山下でした。まだ田無に住んでいた頃なので20年近く前の話です。
イチョウの美しさに虜になったのは大学のキャンパスからです。誰が歩いてもイチョウのある風景は絵になりました。大学以後、イチョウの樹の下でバサバサ落ちる経験をしたことは計2回と少ないですが、機会があれば今年もねらってみたいと思います。 条件は無風。あっと言う間に黄色い葉が音を立てて落ちる時を逃さず、その下に小一時間立っているのです。これを読んだ方で昼間、時間のある人は是非、挑戦してみてください。
2005年12月2日 13:17:51
夏からさみだれ的に引っ越しをしています。築50年の母屋から隣のアパートの2階へです。アパートの2階部分は母が千葉の病院に行って無人になってから、風を通したり、掃除したりしていましたが、2つの家を維持するのは仕事を持つ夫婦としては大変なことで、いっそのこと家族3人で越そうという話になりました。母屋は母の荷物などの置き場となり、いずれは何かの形で処分・・・・という運命になりました。
その引っ越しが遅々として進まず、福島は木枯らしが吹く中、秋モノで生活していました。とうとう先日、衣類を持ってきていましたが、そんな風に母屋に残して、とりあえず・・・・・・の生活が続いています。私の書類関係も助成書類は移動していますが、確定申告や決算関係の書類は母屋です。田舎の母が送ってくれた和服類も母屋です。
先週、母屋へ行くと、その寒さ、寂しさに胸がつまりました。子どもを育てた場所、古いけど広い場所、冬には乾燥せず、夏は涼しかった場所、でも工夫して冬の寒さを克服した場所・・・・が、閑散と荒廃していく様をみるのはつらいモノがあります。隣の新居に帰ると、もうそこは日常の世界が広がっています。一方、母屋では過去の子育て空間が滅びながら存在しているようで、足が遠のく感じなのです。「あ~あ、頑張ってここもピカピカにしなくちゃ・・・・」と思うのですが、毎日の仕事に追われ、逃げるように母屋を後にしています。
助成の書類が一段落したら、このストレスを解消して、母屋で「さよならパーティー」でも開けるくらいピカピカにしたいと思います。パーティーは無理でも息子を交えて4人で一度母屋で食事をしてから、さよならを告げたいなと思っています。
2005年11月25日 13:30:37
平林寺へ行きました。良いお天気で境内にはカメラを担いだ人がたくさん、くり出していました。紅葉の色は例年より、くすんでいると言われていますが、それでも十分きれいでした。この日は知人が二輪講に誘ってくれたので、喜んで参加した私と福島です。二輪講とはお寺と檀家の交流のためのイベントだと知人が説明してくれました。
お墓参りをすませてから、本堂で精進料理をいただいて、野立てで抹茶とお菓子をいただきました。小学生らしい子どもたちもお茶運びを手伝って、ほのぼのした雰囲気でした。そのお茶の席を見渡す廊下の端に「万仏来臨」という写真が展示してありました。それは雪が降っている時の平林寺の竹林を写したものです。一方方向から湿度のある雪が吹き付け、竹の節ごとに一定の形に雪が積もっている写真です。その形がさながら仏さんなのです。風に吹きさらされて仏さんが浮き出てきた・・・・という感じです。その造形の見事さ、美しさに思わず立ち止まってしまいました。一つ一つが見事な仏さんなのです。天女のような造形もあります。
むかし、無着成恭さんが「教育とは子どもの心にある仏を削り出すことだ」とお話になるのを聞いたことがあります。彼は「子どもはもともと心に仏をもって生まれてくる。いい先生にあうと見事にその仏を削り出してくれるが、そうでない先生はよけいな場所を削ってしまって、子どもの仏を壊してしまう・・・・・。」と続けていました。30年近く前の話です。
この「万仏来臨」はさながら、竹の表面についた雪から本来そこに存在していた仏さんを、風の力で削りだしたという感じです。無着さんの話を思い出しながら、大きな写真画像の前にしばらく立っていました。
平林寺は新座市役所の斜め前方向にある大きな林を持つ禅寺です。竹や桜、紅葉が美しく、休日にはたくさんの人が訪れる場所です。本堂に入るには特別の機会しかありませんが、どうにかして、あの「万仏来臨」を子どもたちに見せることができないか、と思って帰ってきました。
2005年11月16日 12:34:36
那須に行っています。千葉の病院で母を見舞って、再び外環に戻り、東北自動車道を北に那須インターまでひた走ります。目的は「鹿の湯」という源泉で、40度から46度の浴槽が楽しめます。(男湯は48度)。
特徴は独特の湯の入り方を指導していることです。小さなひしゃくを持参している人は常連さんです。まず、そのひしゃくで頭に100回以上掛け湯をして入浴するのです。頭の掛け湯用のお湯の温度は48度と高いです。常連さんはタオルを頭にかぶってひしゃくで何度もお湯をかけます。タオルが高温を緩和させているみたいです。
頭の掛け湯が終わると、低い温度から入浴していきます。46度に挑戦せずに入浴を終える人も多く、私は44度くらいが一番好きです。もちろん46度にはトライして帰りますが、長く入っているお湯ではありません。入浴後はさっぱり感があり、ほこほこした中にもスッキリした感じが翌日まで続きます。入浴前に考えていたことをすっかり、忘れている自分を発見します。
このお湯には、今年になって3度行きました。その都度新しい那須の発見があって、お土産をもって帰路につきます。
まず①ニキ美術館
冬期は閉鎖されて作品が各地を回ると聞いていますので、暖かい時期に行かれることをお勧めします。ニキの描く女性はナナといって、母性の象徴のように見えます。天真爛漫なナナやその他の作品の色彩が楽しく、まわりの那須の自然と解け合って、此の地にある意味を感じます。
②は那須の和牛です。肉屋さんに入って注文してからカットしてくれるので時間はかかりますが、神戸牛にも負けぬ、濃い味のお肉です。
そして最近注目しているは③パン屋です。街道沿いにパン香房とあるので、思わず寄って買ったら、これが逸品。地元の人に受けているのか、3時ごろに完売していました。外国の人が焼いているというパンらしいです。技術なのか材料なのか・・・・。パンのランクは都会が上と思っていましたが、考えを改めました。別荘族に受けている本格的なおしゃれな店が並ぶ那須のメインストリートでした。
2005年11月10日 13:28:54
陶芸の窯が塾にありました。私が不登校の子どもたちに朝から塾を開けていた時代に活躍した窯です。1993年から7年間、その教室はトライ☆アングルという名前で開いていました。そのときの子どもらと熱心に粘土をこねて灰から釉薬を作って、たくさんの作品を焼きました。大人向けにも自由に参加できる教室を開いて、塾関係の大人の作品もたくさん焼きました。私の趣味がたまたま「やきもの」だったのと、生徒の一人が強く「やきもの」をやりたいと希望したので、みんなで朝市でバザーを企画し、資金を集めて購入した窯でした。
トライ☆アングルを閉じて6年。思い出の深い窯ですが、誰も手を触れることがなくなって、ホコリをかぶる存在になってしまいました。そこで、貴重なスペースを占領していることから、苗場の山荘のボイラー室に移すことに決まり、先日4人で窯の引っ越しを実行しました。たくさんの消耗品はこのさい処分して、ろくろと窯のみ移動しました。山荘で窯を扱える人は限られています。ボイラー室の窯が再稼働する日がくるかどうかは五分五分です。私は今も「やきもの」は大好きです。ただ、じっくり土をこねる気持ちが沸いてこないのです。次々と巡ってくる多種多様な仕事をこなすだけでアップアップしている生活だからこそ、そういう時間が必要なのかもしれませんが、たくさんの道具や作品を管理するのは、到底無理とホコリをかぶった窯は語っていたようです。
ついでながら、窯を運ぶ途中、停止しているハイエースに後方からバイクが滑ってバンパーの下に潜り込むという事故が発生しました。けが人もなく、ハイエースに損傷はなかったのですが、警察の到着を待ったり、トヨタに点検に寄ったりと、出発がずいぶん遅れてしまいました。事故の時、運転していた福島もへとへとになり、帰り道はとうとう全部のりとくんが運転することになっていました。
窯のホコリを取りながら、『ひと時代をひと区切りした』ような感じをうけた月曜日でした。
2005年10月27日 11:56:26
先日、法務局へ行ったときの話。
ある事項を登記する必要があって、法務局へ行きました。介護事務所の若者に教わって書類を作って、やっと時間をあけて出かけました。窓口には、くたびれた年配の男性が机の前で暇そうにしていました。私が「申請書と書類を持ってきました。」というと、その男性は書類を一瞥もせずに、さっさとクリップでとめて、「ここに連絡先を書いて帰ってください。不備があると連絡したり、質問したりしますから・・・。」ともう机に戻りかけるのです。私は「一応、書類がそろっているか、ここで確認してください」と頼むと、男性はめんどくさそうに、のそのそと書類のタイトルをみています。私が「この原本は持ち帰っていいですよね。」と言うと、クリップからはずして、「そうですね。では。」といって、元の机の場所に戻ってしまいました。忙しい中やっと、時間をあけて、法務局へいったのに、書類の不備があって、その場で訂正できるものなら、すぐみてほしかったのですが、混んでいる場合を考えて、こういうシステムにしているんだなと判断して、短時間の滞在で法務局を後にしました。
そして3時間後、移動中の私の携帯がなりました。出ると法務局の例の職員です。「○○のコピーが薄くてよく印が出てないから、濃い目にコピーして、持参してくれ」という内容です。また時間をやりくりして、法務局へ出向かねばなりません。あの時、見ていてくれれば、近所のコンビニに走ってコピーを提出できたのに・・・・。そのためにすべての原本を持参していたのに・・・・。と悔しくてなりませんでした。
法務局は資本主義の根幹を守る砦だといいます。財産や法人の存在を守っている場所です。ないと無法状態で経済活動が混乱し、犯罪が横行すると教科書に出ています。でも本当にそうなんでしょうか?そういう大切な存在という気概を持って仕事をしているのでしょうか。
頭から湯気を出しながら、しばらく怒りを収めていて気がついたことがありました。それは法務局を訪れる人はおおむねプロの人だということです。私のように見よう見まねで書類を作って、持って行くのはレアケースだということです。法務局のまわりは司法書士の事務所で一杯です。お金のある人はみんなプロを雇って、不備のない書類を作ってもらっているから、法務局の職員はただ、受け取るだけの毎日なのです。万に一つ書類に不備があっても、事務所が近所だから、呼びつけやすいのです。「はは~ん。こういうことか・・・・。」と一人がてんしました。「餅は餅屋」ということを苦い思いで思い出しました。プロが扱う場所だから、こういう不親切が生まれたのでしょう。何だか解せない私の一番苦手な結論でした。
見方を変えると、法務局の男性には利用者の立場にたって、想像力を働かせるという余地が微塵もありませんでした。昔、郵便局がそうでした。ただ、民営化実施を前に非常に対応が変わってきました。民営化という局面で手のひらを返したように、利用者側への想像力が出てくるのは、いかに公務員がサービスという言葉から離れて生活しているということが分かります。これくらいにしておきます。公務員批判は・・・。
先日の2回目の小谷村行きを最後に私たちのキノコシーズンは概ね、終わりました。収穫はナメコ、チャナメツムタケ、キナメツムタケ、ブナハリタケ、サンゴハリタケ、スギタケ、シロタモギタケ、ナラタケ・・・・・と今年一番を記録しました。塾の近所の料理屋の女将に自信のない2種を鑑定してもらって、今はそれぞれ小分けされ、我が家のパーシャル室で眠っています。すこしづつ楽しみたいと思います。
今回の山森話は愚痴っぽくなりました。あと一回くらいキノコで山に入りたいと願っていますが、無理かな・・・・。
2005年10月18日 12:37:37
病院の母が食べることに困難を感じるようになって久しいです。どうも入院当時からのスプーンで口へ運ばれることへの嫌悪感から始まったみたいです。今頃になって、母のとまどいを想像できるようになるとは遅きに失した感があります。申し訳ないと思います。先日の食事の様子をみて、いろんな方が入院していらっしゃると分かったと同時に、次はどの料理をどのくらいの量、口に運ぼうかと考えるのも、食事の楽しみだということが分かりました。細かく切り刻まれた魚や野菜はあまり食欲をそそりません。入院当初から母はずいぶん無理して、このような食事を頑張って受け入れようとして、今は食への関心がなくなってしまったようなのです。
幸い、現在の病院は食べることを強要したりしません。いやなものはいやで受け入れてもらえますが、ちょっと遅かったみたいです。食べることがつらくなってしまった母はこれから時間をかけて、食べることの喜びと再び出会う途上にあるわけです。
迷惑メールが多いので直接メールがおくれるようなシステムをやめました。山下にメールを下さる方はメールアドレスを上記につけておきました。よろしくお願いします。
2005年10月6日 12:03:16
みんなにあきれられています。
きのこの魅力に惹かれて長野県の小谷村へ行きました。月曜日のことです。もちろん日帰りでした。
早朝5時に弁当をもって自宅を出ました。途中SAで朝食を取り、信越道で長野ICへ。小谷村に着いたのは9時45分でした。小谷の道の駅でキノコの先生のMさんと落ち合って、早速小谷温泉への山道を彼の車で走っていました。フクシマと私はMさんに案内されるまま雨飾山付近の山道をあちこちキノコを求めて歩き回りました。途中雨飾山荘でおいしいソバを食べ、鎌池も見て、でもひたすら山道をうろうろする6時間でした。
収穫はこの3年の中で一番で、ナラタケ、ヒラタケ、ヌメリツバタケモドキ、ブナハリタケ、シロタモギタケ、タマウラベニタケ、スギタケなどでした。深い立派なブナ林が健在で、ブナハリタケの量は半端じゃないものでした。あとはサルナシという野生の小型キュウイも収穫しました。
楽しいキノコタイムはあっという間に過ぎ、Mさんに別れを告げて4時に小谷村を出発しました。自宅に帰り着いたのは8時30分。小谷温泉で汗を流そうかとも思いましたが、娘が待っていることも気になったので、大量のキノコを持って泣く泣く帰路についたのでした。
帰って待っていた仕事は、大量のキノコの下処理です。まず全体の種類を確認して、料理に回すもの(ほとんどですが)を決めました。スギタケはMさんは「食可能」と言いましたが、本に黄色い枠付きで紹介されていたのを、思いだし、確認のために本を開くと、やはり「まれに下痢する」と注意がありました。今回はスギタケはパスすることにして、他のキノコを虫だしの塩水につける作業を始めました。
2時間30分後には大鍋にナラタケと雑きのこのスープが完成し、ブナハリタケとコンニャク・アゲ・鶏肉の煮物が出来上がっていました。ここで12時となっていました。私としては深夜にあたる時刻なのでさっと風呂に入って寝ることにしました。長時間の運転と4時間以上渡る山歩きで疲れたフクシマは3階でグーグー寝入っていました。「一度お湯に浸かった方が明日楽だよ」と声をかけましたが、「明日にする・・・・・」という返事でした。
翌日は塾では若い所帯に料理を分け、子どもたちにはサルナシの実をあげました。追熟が早く、どんどん甘くなり、木曜日には全部子どもたちが食べきったサルナシでした。介護事務所でも出来上がった煮物を持参し、「初めての野生キノコの味」を楽しんでもらいました。
2005年9月13日 13:34:13
また、山に行きました。今度は青梅街道をひたすら走って奥多摩も超えて柳沢峠まで出かけました。昨日のことです。
途中おいらん淵の崩落復旧工事を見ながら「晴天でよかった」と思っていました。この前の台風で大きな崩落が起きていたようです。あまりの光景に思わず携帯に記録していました。上部に育っていた木々は、滑って落ちて、今は岩石の下に埋まっているみたいでした。現場は大小の岩が剥き出しで、まるでずっと昔からこうだったと語っているような感じですが、大雨が降る前は緑一色だったはずです。自然変化のスケールに驚き、今はどこでも大雨になるとこうなるのでは・・・・・・・と恐ろしさを感じて通っていました。異常気象もそれが続くと恒常になるかとも思いました。田舎暮らしにあこがれていた夫婦ですが、大水の危険と隣り合わせということが、この光景を見て強く感じました。やはり、人は安全で便利な所に住むのは道理かなと思いました。
柳沢峠で車を置いて、水源保安林を歩きました。ほどよい傾斜の山道をキノコを探してウロウロしました。たくさんのイグチやヒラタケ、出はじめのナラタケなどを確認して歩きました。ヌメリツバタケもたくさん出ていました。沢になるたびに何かのキノコが待っていてくれました。このエリアは木に丁寧にプレートがあるので、楽しいです。また、台風に無理矢理落とされたドングリが帽子つきでたくさん落ちていました。ゆっくり拾っておみやげにしました。あっという間に3時間近くがたっていました。
森の空気を十分楽しんだので、また仕事に精出せそうです。次の日曜は館山のビーチコーミングです。今回もタカラガイをたくさんとるぞと意気込んでいます。しばらく、森とお別れです。
2005年9月6日 12:40:44
キノコの季節がやってきました。金曜日の夕方から娘、福島の3人で苗場へ出かけ、今年一番のキノコ探しをしました。途中遊神館で入浴と食事をとり、山荘につくと山岳トイレの会合で来ていた西尾が驚いていました。そして、4人で久々の山荘の夜を楽しみました。
涼しい朝の目覚めは格別で、8時過ぎから、平標山の麓の雑木林を約1時間30分ほど登りました。途中沢が2本あり、そのたびにキノコの匂いがして、探すと収穫することができました。去年ヤマブシタケがあった同じ場所にヒラタケがびっしりありました。またミズナラの倒木のまわりにオシロイシメジがたくさんの束をつくっていました。歩き始めに、ヌメリツバタケモドキが少量ですが見つかり、「これがあると、収穫できるというエンギモノのキノコだね」と話していました。そのジンクス通り、ヒラタケなどの収穫に大変満足して山をおりました。
下り道では、ミヤマクワガタが完全に標本になったものを拾いました。形が一つも損傷することなく、自然に標本になったものです。珍しいのでキノコの籠にいれて持ち帰りました。
そして、午後からフットワーク良く、温泉巡りをしました。まず新治村から中之条に抜けて久々の四万温泉を楽しみ、さらに草津に抜けて湯畑付近で夕食を取り、共同浴場に挑戦。ここの共同湯は加水しないので、源泉の高温そのままです。結局娘は入ることができませんでした。共同湯をでると外は超豪雨の真っ最中でした。排水溝に吸い込まれる雨水が池をつくり、洪水状態でした。その中を雨宿りの観光客を尻目に、3人はサンダルの足下でバシャバシャ、歩きました。爽快!・・・の一言でした。
翌日同じような豪雨に東京が襲われるとは夢にも思わず、「すごい雨だね、山間部の雨はすごいね」と興奮して、帰ってきました。深夜早朝割をにらんで、所沢を10:05に降りたとき、思わず「やった~」と叫んでいました。
2005年8月18日 12:56:24
7日より長い旅に出ていました。長野の松代の温泉を皮切りに乗鞍高原、金沢、能登の千里浜をまわって、兵庫県の高砂に帰省しました。
松代の温泉は加賀井温泉といってオレンジ色のお湯でした。どこか身体を患っているご老人たちのたまり場という感じで温泉の主人の饒舌な説明にとまどいながら、隅の方で入らせていただきました。また、そばの池田満寿夫美術館に立ち寄り、彼の世界にしばし陶酔しました。
乗鞍高原、能登千里浜は国民休暇村を利用しました。手頃な値段でゆっくりできるが気に入って、福島と二人Q会員になっています。休暇村のバイキングはチーズフォンデュー以外は大変美味しく、景色も最高で旅を楽しむことができました。ただ、一番の目的でもある、金沢の21世紀美術館がピンとこなくて、期待はずれに終わったのは残念でした。なにか勘違いしたままの作品を芸術大作として中心に据えている感じがしました。金沢を早々に切り上げて、次に向かった3人でした。金沢工芸大などの見学のため、娘も同行していました。
移動途中の美浜ではトンネルや道路がきれいで「お金が落ちる」町を実感して走っていました。小浜は回転寿司も大変美味しかったです。めのうの加工センターもあり、原石を売っていました。
北陸経由で中国自動車道に入ったらもうすぐ、姫路福崎でした。あっというまに見慣れた故郷にハイエースで到着しました。
初盆の法事が終わって高砂の駅前の「やつか」という料理屋ではも鍋を食べました。その上品な旨さに感激しました。娘は上にぎりのトロが絶品と褒めちぎっていました。法事も終わり、淡路島で遊んでから神戸の妹のマンションで一泊予定することにしました。
初めてわたる明石大橋はでっかくて立派なものでした。西淡まで行って「五色浜」で石を拾いました。石英・チャートの丸い磨き上げれた小石でできている海岸は圧巻です。そばの浜は普通の砂浜なのに、ここだけ五色の石で埋め尽くされているのでした。その後、北淡に移動し、安藤忠夫の夢舞台に行きました。そこの中国料理屋さんで昼食をとりました。食卓からの眺めがすばらしかったです。石、コンクリート、木材(店の内装)の調和が見事だったのです。もちろん、本格中国料理の味も満足でした。食後は歩ける限り、夢舞台を歩き続けました。大きな花壇の横を流れる水を真下から見たとき、水の流れも計算ずくだ・・・・・・ということに気づき、やられてしまいました。本当にすばらしい造形でした。
詳しいことは何もしらず、ただ歩き回っただけでしたが、花壇がどうも墓地に見えて仕方なかった私と福島でしたが、後で震災の鎮魂の意味も込めて設計したと知って、深く納得しました。神戸の妹宅で夢舞台の説明書をもらった時は幸運を喜びました。あの建物は清水建設の仕事だったので、たまたま家にあったというのです。(妹のつれあいは清水の職員だったので)
翌日は三宮でインド料理をたらふく食べて、一路岐阜に向かいました。この長旅で唯一の仕事らしい仕事????です。
岐阜の洞戸という所にガーネットが採れる鉱山跡があるいうのです。地元の方とコンタクトを取り、長良川の鵜飼いで混雑する8月13日に宿を彼の紹介で取ってもらい、現地で落ち合う約束を取り付けてあったのです。お盆の渋滞でその夜岐阜のホテルに到着したのは8時ごろでした。ホテルの名前は『ルネサンス岐阜』といい、大変立派な大きなホテルでした。レストランの終了時間も迫り、インド料理で満腹していたこともあり、9時すぎてルームサービスをとることにして、部屋でゆっくりしていました。快適な本格派ホテルに娘は大満足でした。
洞戸で地元の方は待っていてくれました。車関係の会社を営む傍ら、石器づくりや鉱物観察を子どもたちに提供している方でした。自らエジプトからフリント石を買い付けて、石器作りの材料としていました。私たちも2時間かけてフリント石やサヌカイトを割る練習をしました。コツが分かれば少しずつ割れるようになりました。食事(みそかつ定食を選んだのは彼と福島)のあと、ガーネットの採れるズリ場へ行きました。険しい山道を行くと沢沿いに光る石がありました。近くの坑道跡に入ると空気の冷たさに、びっくりしました。もっと奥へいくとフズリナが混入した化石岩石もありました。雲行きが怪しいので今度は急いで河原へ行きました。そこにはミドリのガーネットの原石が転がっていて、まわりを探すと欠片らしきものも発見できました。たくさんの石たちが出会う河原のようでした。石を探しているのは私たち4人くらいで、他の大勢の人たちはお盆のひとときを奥長良の川でバーベキューをして楽しんでいました。15日にはやなの仕掛けに水が入るというタイミングでした。鮎料理屋さんにもたくさんの人が繰り出していました。
その夜、中央高速の渋滞を見越して甲府昭和で一度高速を降りて、夕食と休憩を取ったものの、小仏トンネルの渋滞は深夜まで続きました。
かくして、日曜から始まった、私たちの長旅も日曜の深夜に終わりとなりました。
ハイエースの走行距離も5000キロを超え、貫禄すら出てきた感じです。福島いわく「非常に運転しやすく、疲れにくい。長旅はハイエースに限る」だそうです。今は千葉の母を見舞ったり、隣への引っ越し片づけも再開し、日常生活が戻ってきました。更新しているのは介護事務所からです。お昼休みを超えそうなので、この辺で・・・・。
2005年8月4日 13:14:28
5日間のキャンプが終わりました。大きな事故もなく、けが人もなく、夏のイベントは無事終了しました。
帰りに町営の温泉施設にお昼ご飯をかねて、寄りました。キャンプで汚れきった体をさっぱり、温泉できれいにして家庭にかえってもらおうと考えて、恒例になっている施設です。そこでちょっとしたアクシデントがありました。
貸し切った和室に福島が待機しているので代わってあげようと、私はお風呂を早めに切り上げました。そこへ中1のTくんが追っかけてきて、「蜂にさされちまったよ。」と興奮しているのです。私はすぐ、指された箇所を点検して針がないかどうか、を見ました。そして親指の爪を使って、丹念に毒を絞り出しました。二の腕の内側と肘の付近2カ所を刺されていたので、2カ所を交互に何度も毒だしをしました。店の人に薬を持ってきてもらい、傷口に塗って、みんなの休憩する和室に連れて行きました。その間3分でした。和室でTくんの様子を観察して、落ち着いているようなので、蜂にさされた現場に私一人で行ってみました。そこで半死で横たわっているコスズメバチを発見しました。私がとどめの処理をしてもいいのですが、『これはこの施設の人の仕事かな』と思って、係のひとを呼びました。スズメバチ処理を仰せつかった若い従業員は無言で、こわごわスズメバチに近づいていました。Tくんのデコピンの一撃で半死になったスズメバチでも彼にはとても恐怖に映ったようです。
和室に戻って「Tくん、あれはコスズメだったよ。よく一撃でやっつけたね」というと、彼は「これで自慢ができる。でも腫れてきた。」と複雑な様子でした。昔覚えた、腕の上部の化膿活点(かのうかってん)を刺激することを思い出し、彼にそれを指南しました。痛い箇所を探って刺激すると、腫れが抑えられるような気がするのです。
しばらくは、みんなスズメバチの話で持ちきりとなり、出発時間となりました。Tくんは施設の人に氷を分けてもらい、冷やしながら、岐路につきました。
帰ってきた夜、私が「巣があるわけじゃないのに、なぜ1匹紛れこんだハチにTくんだけ刺されたのかな?」というと、ふくしまは「スズメバチは黒いものやストライプを攻撃してくるよ。Tの格好はどんなだった?」そういえば、Tくんの格好は上は赤のタンクトップ、したは黒に白いストライプが3本入ったハーフパンツでした。はは~ん、黒にストライプが災いしたのか・・・・・・と合点した私でした。
みなさん、ハチの巣がない所でも、黒いものやストライプの服装は要注意のようです。そして刺されたら、即刻毒をだして、おきましょう。これはブヨなどの虫刺されにも有効です。今回は山や森に行くときのマメ知識でした。
2005年7月26日 12:32:24
毎週、千葉の病院へ母を見舞いに行っています。きのうは病室を連れ出して上の階や玄関へ車いすで移動しました。1階の売店で孫にお菓子を買い与え、自分は「うめぼし、うめぼし」と言って、食事中に食べる梅干しを買いました。食物を飲み込むのが苦しくて、ほとんど食べていない状態になっているのに、『本当に梅干しを食べるのかな?』と内心思いましたが、食に前向きなのが、嬉しくて、一緒に買いました。
暑い日差しではありましたが、機嫌が良いので、外の駐車場のハイエースを見に行きました。感想は「大きな車だね」でした。
入院生活の中で母は日に日にスリムになり、髪もすごく短くなりました。昨年の今頃と比べると想像もつかない変化です。会話もかろうじてコミュニケーションがとれる程度で、何度も聞き返して理解する場面があります。
今になって本当に実感することがあります。それは、のりとくんが「新しくおばあちゃんと出会っている・・・・・」といった言葉です。私たちも病院に行くたびに、どんどん変化していく母に気持ちが追いつけない状態が続いていましたが、きのうはっきり、「新しい母と出会っている・・・・・」という実感がわきました。これから母は病院という環境で母らしく生きていこうとしている、・・・・そんな感じがしました。
塾は夏期講習前期が終わり、森のプレイ・パークの後はしばらく、休暇になります。コラムもとぎれがちになるかも思いますが、またいろいろな夏の体験をおみやげに東京に帰ってきますので、こうご期待。今年の夏は初盆に車で田舎に帰ります。途中北陸に寄る予定。
2005年7月15日 13:07:29
福島の念願が叶い、玉虫が出てきました。いただいたマキの中にたくさんの幼虫が眠っていて、その中から玉虫が誕生したのです。本当に玉虫を見た時は目を疑ったと言います。それからの福島は慣れない携帯電話を駆使して、子どもや大人を集め、生きている玉虫『なまたま』に出会わそうと必死になりました。自然界では知りませんが、飼育は4~5日が限度ということなのです。塾の子であろうとなかろうと連絡して、木曜はたくさんの昆虫博士たちが塾に集合したようです。
今日は小平霊園に行く途中に私の職場にも寄って、1時間ほど「なまたま」を置いていってくれました。事務所では、初めて見る人、子どもの頃見たことのある人・・・・、それぞれ感動を与えられたようでした。
「なまたま」でしか実感できないことは多く、羽を広げたら、羽の裏も見事にコーティングされていること、顔の部分も微妙に青や緑の独特の着色があること・・・・。もちろんお腹もあの玉虫色だってこと・・・。
マキをいただきた陶芸家にすぐ連絡したようですが、不在なので、私がハガキを書いて報告することにしました。本当にあの里山まで行ってよかった。新車をこすってもあまりある収穫だね・・・・、と今朝話しました。
2005年7月5日 13:39:01
益子の陶芸家の家におじゃまして、マキをいただいてきました。窯だしの前だったので、かなり熱い窯のまわりにはたくさんの木材や丸太が積んでありました。窯の守りをしていると、まわりから虫が飛んでくることが多く、薪割りをしても中から幼虫がでてくることがあり、陶芸家の仕事は虫たちとつきあいの深い仕事のようです。
福島はこの3~4年、玉虫を探しています。いろんな人を頼って、ネットワークを広げていましたところ、引っかかったのが益子の彼らでした。その名も「玉虫工房」。「このマキに玉虫の幼虫がいるかどうかわかりませんよ。カミキリかもしれませんよ。幼虫が似てるから・・・」と若い陶芸家は言って、その場で丸太をマキにしてくれました。大きなワゴン車をマキで一杯にして帰ってきました。
家ではマキを作業用の袋に詰めたり、大きめの衣装ケースに納めたり・・・・・と幼虫が出てくる準備です。我が家の玄関がケースで埋まり、庭も袋に埋まりました。何がでてくるかわかりませんが、明らかに穴のあいたマキは不思議な空間に私たちを誘います。
玉虫は飼育が難しいので、野に放すことになると思いますが、それまで美しい姿を一人でも多くの記憶にとどめたいと思います。さて、首尾はどうでしょう?
おまけ:栃木の里山で新車をこすりました。納車2日後です。社内もマキの虫で一杯になりました。頓着しない私たちでも「新車時期1日だったよ。タッチペンでもいいけど・・・・。トヨタに相談しようか。」と話しています。
2005年6月30日 12:27:26
我が家の車が変わります。
15万キロを走ったシャリオが引退していきます。山荘ができた年、1993年からのつきあいなので、13年間です。最近は電気系統に難ありで、遠出できない状態のまま、次のハイエースの到着を待つ日々でした。
子どもを後部座席に寝かせながら、山荘に行く途中、事故車の後続となり、ABSで見事に停車したこと・・・。雪道で往生してやっと、脱出したこと・・・。猛暑の草津から苗場に抜ける時、峠で他車のバンパーと接触したこと・・・・。息子の大学見学で東北を巡ったこと・・・。アサギマダラを追っかけて知多半島まで行ったこと・・・・。息子の引っ越しで大きなソファを運んだこと・・・・。この10余年の出来事はおおむね、我が愛車との歴史でした。13年前から車に乗ると必ず寝る娘は、やはりその癖はぬけず、近くの移動でも横になっています。来週20歳になる息子は秋から運転免許取得に向けて、モチベーションをあげている最中です。父から「農業を目指す者が車を動かせなくていいのか」と言われて、重い腰を上げているところです。きっと超慎重派の安全運転だと思います。
次の車は10人乗りです。子どもたちを乗せて移動することを前提に考えた結果です。本当は私はもっと小さい小回りのきく車にして、私も福島に任せっぱなしにしている運転の世界に返り咲こうかと思っていましたが、ハイエースではやはりやめとこうと思いました。
『我が愛車シャリオ』5月の山菜ツアーの時。山荘の駐車場で。
2005年6月17日 12:54:40
更新の仕方を忘れるほど、ご無沙汰をしていました。
4月24日の朝、田舎の母がくも膜下出血で倒れたという一方から、私の生活は時間の刻みが変わってしまいました。いつも非常事態体制でどんなことがおこっても対応できる身体になって久しいです。今も続いています。少し余裕がある時に書き記しておこうと思います。
母はその後、意識を回復することもなく、帰らぬ人となりました。ちょうど福知山線の事故の報道が激しい時に、私たち姉妹は病院の待合室で病理解剖から返される母の遺体を待っていました。期せずして事故の犠牲者の方と同じ命日になりました。これからも福知山線の事故の区切り毎に母のことを思い出すことになりました。
母の不調は2月上旬から始まり、最初は腰痛でした。以前は高血圧だったにもかかわらず、血圧が下がってしまい、激しい倦怠感から人に会って過ごすことをさけるようになりました。そんな姿を私たち娘は「精神的」異変ととらえて、まずは内科的検査、そして異常がないという結果に心療内科にも連れて行って話を聞いてもらいました。今から思うと体内の何かの変化から、人と過ごすにはしんどい体になっていたと分かります。当時は思いもよりませんでした。
4月中旬になり、歩行が困難になるくらい、下肢が腫れてきました。関節痛もあり、赤い異常な斑点が現れるようになりました。急いで病院へ行くと「アレルギー性紫斑病」と言われ、急遽入院となり、ステロイド治療を3日間受けました。そしてやっと、症状が治まってきていたところの、くも膜下の発作でした。4月24日、私と娘が新幹線に乗っている時に母の手術は始まりました。午後到着した私たちを待っていたものは「助かっても言語は失って人工透析の生活を送るようになる」という妹の説明でした。そうなったら、いろいろな人に相談して姉妹3人で母の生活を考えようと話し合っていました。
手術の結果は思わしくなく、結局病院に泊まり込んだ私は翌25日の5時前にICに呼ばれて母の最期を看取ることになりました。
その後の法事などの段取りは地元に住む妹が取り仕切り、私と神戸に住む妹はそのアシスタント的な存在に終始しました。
母の35日に法事と納骨に帰郷することを約束して、東京の生活に戻った私ですが、時々訪れる「自分にも異変がおこる不安感」に困り果て、知り合いの医者を訪ねました。そこで「脳の異変の前症状がわかれば、ずいぶん助かる人がいるはずだよ。」といわれ、いつのまにか不安感は薄れて行きました。
悲劇は重なり、納骨に帰る2日前、5月26日にぎっくり腰をやり、無理無理、新幹線に乗ったのは、ほんの3週間前です。新幹線に乗ることだけを目標にひたすら体操して過ごした27日でした。妹は一言も「無理せず・・・」とは言わないで「頑張れ、頑張れ」のメール攻勢でした。母と父の眠るお墓に行くにもみんなと同じ速度では歩けず、最後からノソノソついて行っていました。法要の時もイスに座らせてもらっていました。
今はちょっと近況について書けるようになったので、一番気になっているこのコラムをやっつけてみました。
2005年4月12日 13:01:50
すごいブランクをつくってしまいました。この間50日間・・・・。あっという間に桜がおわろうとしています。
塾は相変わらず、乱雑になった16年度の掃除を課題に春休みに入り、徹底した大改造もできないまま、先日の土曜日より新学期が始まりました。今日はメソッドクラス本格始動の日です。4月から新しく入ってくる子どもや春合宿を経験し、すっかり塾生になった子ども、そしてベテランの塾生もみんないっしょに17年度のスタートです。私はこの日・月に塾通信の編集、春合宿ビデオの編集、山菜ツアーのしおりづくり、新学年の生徒名簿作成・・・・とフルに家庭仕事をしていました。
2月・3月・・・・と家族、つまり両方の老親の体調に変化があり、いろいろ考えることがありました。あまり個人に関することなので誰でものぞけるコラムに書き記すのは適切ではありませんが、アウトラインを言うと、老親の暮らしを再考する段階に入ったということです。今まで一人でのんきに暮らせていた彼らですが、少し周りが介入する必要が出てきたわけです。一つの節目だと思います。
武蔵野北高校近くの玉川上水沿いに見事な桜・桃エイアがあります。特にバスの回転場の脇の紅白の桃が秀逸です。桜より強い桃の花はこの雨にも負けず、まだ咲いていてくれると思います。桃の色を見ると幼児の頃、見上げた川べりの桃の色を必ず思い出します。まだ、本家に住んでいた頃なので3歳までの記憶です。桃の花のピンク色に魅了されて、えもいわれぬ幸福感に包まれていた春でした。そのピンク色に大人になっても幸せ感で反応しています。一度、紅白の桃をごらんください。
2005年2月22日 12:22:05
ひどい風邪状態で伏せっていました。
インフルエンザを特別どうこうしないお医者にかかっていたので、検査した訳ではありませんが、B型らしき症状が花盛りの風邪でした。
この50年でナンバー2に入る強烈な風邪でしたが、いい置きみやげもありました。それは腰痛が治っていたことです。熱で関節痛にさいなまれながら、寝たような寝ないような睡眠でしたが、寝返りのたびにボキボキ鳴っていた腰がいつの間にか「いい感じ」になっていたのです。
今日から日常生活に復帰しています。
明日は都立の一般入試です。みんな力をうまく発揮してくれること願っています。福島はこ10日間、私の半径2m以内に近寄りません。毎年のことながら、受験生を受け持つ身としては軽々に風邪にかかれないのです。
2005年1月29日 土曜日
本日2005年度の募集要項をホームページにUPしました。塾生の家庭にはすでに新規年度の契約書とともにお渡ししてありますが、ポスティングで塾を知った方が訪れてくださった場合を考えて、とにかく数値だけを変えて新規年度バージョンに変えました。
さて、トップページを刷新と考えましたが、どうも体調が思わしくなく、のど・鼻水・・・・・・、としつこく不調です。毎年「すわっー!花粉症が発症!!!」と思うのですが、外へ出ても症状が悪化しないし、本格的春には症状がゼロになるので、いつも「風邪だったのね」と納得していました。
このたびののど・鼻水もそうなのかも知れませんが、トップページをデザインする根気もありませんので、4年前のリニューアル第一弾のデザインに戻しました。和風の凝ったもので、WEB作成者の情熱を感じます。今も若いですが、その当時は超!若い、この世界にめっぽう強い小学生のお母さんがリニューアルしてくれた丹誠塾のホームページです。その後更新のやり方を山下が習い、どうにか続けてきました。ここからたくさんの方と知り合い、今も塾生として繋がっているケースがたくさんあります。私のコラムも5年目を迎え、書き続けることが習慣になっています。休刊している福島のコラムは再刊はないでしょうが、のりとくんのはいつか繋がるかもしれません。
新年度の準備として春合宿の立ち寄り場所を今下見しています。昨年の奇石博物館でも十分なのですが、一つ面白そうな候補があがっているので、みんなで見てきます。厚木小田原道路を南下する初めてのスポットです。乞うご期待。
2005年1月14日 13:00:06
みんなに驚かれるのが私の「編み物」趣味です。
小学校時代、とても寒くて川に行けないとき、母たちが編み物をしている暖かい部屋で妹たちと遊んでいました。
母は両盤器、おばさんたちは片盤器で機械編みを楽しんでいました。私は二本針に目を作ってもらって、なんだか訳のわからないものを編んで過ごしていました。ストーブにかけたヤカンの湯気とともに思い出す子供時代の記憶です。
そんな遊びから始まった私の編み物ですが、高校3年生の受験勉強期には必需品になっていました。英単語を覚えては編み、世界史の問題を解いては編み、古文をやっては編み・・・・と勉強の合間に同じくらいの時間、編み物をしていました。こうすると記憶の整理が抜群によいのでした。受験の冬には編み込みのロングスカートを完成させていました。かぎ針も好きですが、やはり棒針でベストや帽子を編むのが好きです。
今から7年ほど前、スキー帽子を50ほど編んだことがあります。スキー参加者、塾生、関係者に希望を出してもらって、みんなで抽選してプレゼントした年です。この年は各所から余り毛糸が集まって、ほとんど材料費がかからず、大量の帽子を編み上げました。力をいれて細い糸でリバーブルで仕上げた帽子もあります。その後あまり続けて使ってくれる人が少ないのが残念です。やっぱり特定の人からもらった方が大切にしてもらえるのかもと思いました。だからその後は家族か頼まれた場合のみ、編んでいました。
そして今年は息子に帽子とマフラー、娘にはマフラー2つ、福島に帽子を編みました。私的に今年の流行はグレイの濃淡です。息子は宇都宮に帰る鞄の中にその2つを忍ばせて駅に向かいました。娘は通学用のマフラーを巻いて寒い朝、自転車に乗ります。福島はその新しい帽子でスキーツアーの引率に出かけました。そして作品は買った携帯の中にタイトルをつけて保存してあります。
この1週間ほど咳のひどい風邪を引いていたため、編み物禁止令がでていました。今日あたりからだいぶよくなったので、再開しようと思います。まず友人からのリクエストのネックウォーマーからスタートです。家族用に買った毛糸の太さを統一したので、余り分で十分おもしろいものができそうです。ネックウォーマーは輪編み針で編みすすみ、出発点でまた目を拾い、最後に両方の針にかかった目を「ふくろ止め」します。一見するとどこから編んでどこで終わったかわかりません。この技術をこの正月、田舎の母から習いました。この年になって、母から習う技術があったことが大変うれしいです。それだけ母が元気だということです。母は「ふくろ止め」を見せながら、器用に手を動かします。サウスポーの彼女は両手が利き手なのです。私は忘れないように針の動きをイラストで書きとめつつ、記憶しました。今も手元にはそのイラストがあります。
2005年1月4日 12:35:27
あけましておめでとうございます。
お正月は家でゆっくりお祝いをし、2日には卒業生の神社へ出かけました。榎木で有名な神社です。参道に角の提灯のようなものが並び、屋台も出て、初詣という感じが盛り上がっていました。卒業生も白い装束でお客さんに対応していました。私たちは彼から、お守りを買いました。料金を聞くと、「○○円のお納めとなります」と言われ、「ああ、神様に納めるんだな」と納得しました。お守りは健康祈願を両方の母へ、厄除けを娘・息子に渡しました。
昨年の大晦日に松葉カニ3杯と香箱カニ10杯を頂いて、楽しい気分で年を越すことができました。塾の仲間の家族にお裾分けし、あとは2日にかけてゆっくり味わいました。身をほぐしてそのまま、いただいたり、甘酢にちょっとつけたり、甲羅や殻からスープをとって春雨スープにしたり、雑炊にしたり、茶碗蒸しにしたりして合計8杯のカニは家族の胃袋に収まりました。今年のおせち料理は見よう見まねながら、私が雪降る31日に作成し、買った携帯電話に画像を保存しました。お酒は八海山の吟醸を用意し、元旦から幸せいっぱいでした。
今年もいい年にしたいと思っています。みなさまよろしくお願いします。