2004年12月16日 13:06:23
師走も半ばです。いろんなやり残し仕事が集中してきます。先日のりとくんに塾の玄関で「ヤマシタ先生がため息をつかないで入ってくることが最近ない」と言われてしまいました。
そんな最近、娘がテスト勉強中に「今、玄関の外に誰か潜んでいる。ドアノブを引っ張る音がした」と恐怖を訴えました。勉強中でテレビ音もなく、静まりかえった部屋に外の音が響いたという。玄関の外や庭を見回っても誰もいません。私が「風のせいじゃない?」とか「ネコが歩いているのよ」と言っても気休めにもなりません。とうとう娘は父親が帰るまで神経をとがらせてじっとしていました。テスト勉強どころじゃなく、外の気配に神経をとぎすませて2~3時間過ごしてから、父が帰ってきました。父に「なんだ、そんな人はいないよ」と一笑にふされ、不満顔でしたが、内心ホッとして寝ていました。
その後も恐怖の残骸が残り、心晴れやかではありません。私にしきりに携帯電話を持てと勧めていた娘です。そのたびに「4月に考えるね」と言っていた母ですが、この際、娘の安心材料になるのならと、AUに出かけました。
そして、今は待ち受け画面に母と娘の写真を貼り付けて携帯している母になりました。娘の状態はAU購入からだんだん落ち着いてきました。
携帯電話は使いやすくなりました。塾の行事用のプリペイド携帯を買った際、取説を読みながら、番号を登録した記憶があります。今の携帯はそういう作業もずっと簡略化され、文章の変換も見込み表現が出て、とても便利です。ただ、パソコンの画面で編集している統括感はないので、電報をうっている気分です。こんなメールで自分を表現しつづけたら、文章構成する力どころか、それ以前の自分の考えを持つ段階まで浸食をうける気がします。人にものを伝えるのはやはり手紙がいいと思います。それも大切な手紙の場合、下書きをしますよね、そういう文章を送る訓練が人を育てるような気がします。
携帯電話は便利に「シグナル」を送っていますが、「気持ち」まで乗せてないように思います。
2004年12月9日 13:01:24
今日も関公園にて。
雨ふりの前の公園を今朝も歩いていました。例の汗くさい場所も微かに臭いが残っています。今朝は先を急いでさっさと歩いていました。
イチョウの葉っぱがじゅうたん状になっているあたりにたくさんの鳩がいました。何かをついばんでいる様子です。私は鳩が苦手で、よけて歩いていました。すると速度の速い自転車がその鳩のグループの間を走り抜けました。ほとんどの鳩は事前に飛び立ったのですが、一羽のみ、動作の遅い鳩がいて、車輪にモモの付け根を引かれてしまいました。私の直前で起きた、あっという間の出来事です。自転車の主は平気で走り去りました。歩いている人も自転車にひかれた鳩には気づきません。私一人、その出来事を目撃して、その鳩の動きに注目していました。
鳩は小さな毛を飛ばしながら、チョンチョン、道の端に移動して、植え込みのあたりにじっとしています。私は「内臓はやられていないから、モモの損傷が治癒するまでどうするのかな?」と考えていました。見た目はそんなに損傷が深いという感じはしません。私がそんな事を考えている瞬間、茂みから鳩に突進する動物がいるのです。鳩が連れ去られるのを目で追っていた私は最初、同胞の鳩がダメージの鳩をつれて飛んでいくのかと錯覚しました。でも、おそった動物はネコでした。中くらいの大きさの毛並みのよいネコが鳩の首をしっかりとくわえて、もっと茂みの奥へ去っていきました。飽食の飼い猫は食料としての鳩でなく、眠っていた狩猟本能でダメージの鳩を襲ったに違いありません。
鳩の苦手な私でも、その光景をみて、鳩に同情しました。ちょっとした油断で自転車に引かれ、その直後にネコに首をかまれている運命があまりに過酷だったからです。
野生動物の厳しさを都会の公園で実感した朝でした。
2004年12月7日 12:39:22
武蔵関公園を抜けて朝、出勤しています。
今日は水辺に紅葉の黄・赤が映えてとてもきれいでした。もちろんイチョウも輝いています。箒を持ったおじさんたちが「あとから、あとからだね・・・」と苦笑いしながら、清掃していました。
そんな今朝ののどかな一時の話・・・。
池の周りを一周して駅に向かう私です。途中、ふっと汗くさい臭いがしました。ジョキングの人とすれ違ったせいかと思いましたが、ちょっと違うなと思って、立ち止まりました。鼻をクンクンさせて思い出すと、4~5年前に出会った「コガネタケ」の臭いなのです。汗くさい臭いを発している大型のキノコがコガネタケです。笠の部分は甘食というパンに似ています。どんなところにも出てくるキノコで、そのときは沢すじ奥の日向に出ていました。天ぷらにして食べたら、汗くささがなくなっていたのを覚えています。
紛れもなくコガネタケの臭いだと思い、周りの人に分かるくらい鼻をクンクンさせて、臭いの素をたどりました。後ろに下がったり、前進したりして、一番臭いの濃い場所を特定しました。もう一度あのキノコに逢いたかったからです。そして、そこから池の脇の植え込みや道路側の植え込みを丹念に鼻で探しました。行き交う人は「何をしているのか????」と不思議そうに通ったことでしょう。絶対あの大型のキノコに逢えると確信して5~6分不思議な行動をとっていました。でも、どこを探しても、キノコの影もありません。時間も迫るので、しかたなく関公園を後にした私ですが、残念で仕方ありませんでした。
考えると今年もキノコは不発で、どこかにシーズンにやり残した感覚が残っているのでしょう。あんなに確信して臭いをたどるのもおかしなものです。苗場は50センチの積雪でスキーシーズンが始まっているそうです。だからもう山は雪の季節を迎え、きのこはおしまいなのでした。
2004年11月30日 12:07:45
今年最後の野外活動イベント「水晶採り」が無事終わりました。
幸い天気に恵まれ、快晴の中、山に入ることができました。途中の神社で諸注意を伝えている時から子どもたちはそわそわ下の地面を探しています。上へ行けばもっといいのがあるというのに、もう拾い始めている子もいます。
一番気をつけたのは落石です。全体を2班に分けて上へ登る班、下の方で探す班に分けました。そして上へ挑戦する班がいなくなってから下の班が動きます。私は下の班と一緒に行動してビデオを撮っていました。沢すじに落石が多いので、全体を見張って危険がないように配置するのはフクセンの役目です。子どもたちも注意しながら、動いたので2年前のように「お~い落石だよ」と叫ぶシーンがありませんでした。
子どもたちは落ち葉をかき分け、光る石を探します。そんなに努力しなくても簡単に水晶が拾えるのであっという間に袋がいっぱいになります。私は水晶採りをするたびに子どもたちが一番のお宝を最後にはなくしてしまうのが可愛そうで、なんとか事前に袋を縫ってあげて、ピカイチの水晶をそれにいれるようにしてはどうかと、思っていました。今回は以前の轍を踏まないよう、早くから準備して40数枚の水晶袋を作って現地に行きました。手伝ってくれたのはYさんという保護者の方とその娘さんです。助成金の仕事をしながら、そんなミシン仕事をするのは大変だろうと自宅でひたすらミシンを走らせてくれました。その甲斐あり、お宝をなくす子どもは皆無で、一生に一度あるかないかの大切な体験を思う存分楽しむことができました。
水晶採りが終了したら、今度は地元の小学校の隅を借りて、「一番の水晶」を披露する時間をとりました。そして審査員の審査により「クリスタル・キング」が選ばれました。栄えある第一位に輝いたのは中学生のSくんでした。彼はスコップを突き立てながら斜面を登っていたそうです。そして六角柱に結晶しているピカイチの水晶をたくさん採って自前のケースに入れて保存していました。もちろん水晶袋にもたんまり入っていました。大きな岩石のような水晶でリュックを重くしている小学生と違い、お宝級のものしか眼中にないSくんでした。
お弁当はぶどうの丘で食べました。ずいぶん遅いお昼だったので、子どもたちは黙々と食べ、展望広場の展望を楽しんでいました。
こうして超人気イベント「水晶採り」は楽しく幕となりました。最後の中央高速の渋滞はうんざりですが、みんな満足して西東京に帰ってきました。来年もまた、所有者の方が許して下さったら、今回申し込んでも定員がいっぱいで参加できなかった子どもたちにも体験させてあげたいと思いました。
2004年11月26日 12:57:35
健康診断の結果が出ました。
コレステロール・中性脂肪とも要注意ゾーンにあり、現状を改善するように指導のメモがありました。ただ、血圧・肝臓の値は平常だったのが、唯一の救いです。
早速、高値の野菜にもどんどん手を出し、いつも以上に野菜中心、油カットの食事になりました。そして出勤時間を30分以上も繰り上げて、最寄り駅より一つ二つ先の駅まで歩いています。朝40分ほど歩くと体内からぽかぽかしてコンディションよく仕事がスタートできます。これを日課にしようと思います。
これも健康シリーズですが、先日青梅街道を塩山に抜ける途中の柳沢峠までドライブに行きました。山歩きをするためです。三窪高原はすでに登りましたが、今度は大菩薩嶺に抜ける道に挑戦しました。柳沢峠ゾーンと呼ばれる一周3.5㎞のコースです。たくさんの雑木にミズナラやウラジロモミの大木が混ざる林です。驚いたことに主な樹木にみんなプレートがついていてすぐ、名前が確認できるのです。葉っぱが落ちた後なので樹木の肌を手がかりにたくさんの名前を覚えました。各所に地図があって、とてもおしゃれに整備されていました。
途中の沢で、ここが東京都の水道の水源林だなと実感しました。そして、私たちは冷い水の底の砂地にきらきら光る粒に気をとられてしまいました。福島と「ここはもう少し南になると黒川だよ。ええっ、黒川金山???」と興奮して話していました。黒川金山は今年訪れた下部の湯の奥金山と並んで有名な金の産出場所です。そうそう途中の「おいらん淵」の伝説に登場するのも黒川金山です。私たちは冷たい水の中に手を突っ込んで、あたりの砂をビニールにいれて持ち帰りました。もちろん家でパンニングするためです。例のお盆のような洗面器のような道具がたくさんあるので、水晶のイベントが終わったら、金を取り出してみようと話して帰ってきました。もし、金が混ざっていたら、湯の奥博物館に送って鑑定してもらおうということになりました。
そんな満足な一日のあと、この柳沢峠は私たちのフィールドの一つになりました。傾斜のほとんどない山道の周りはプレートのかかった樹木があり、子どもたちと小枝拾いにきたら楽しいだろうということになりました。そしてその小枝を乾燥させてから、木工を楽しんだらどうだろうかということになりました。題して「ブラッシュウッド・クラフト」です。来年の秋あたりにそんな企画が登場するのを楽しみにしていてください。
ただいま来年の助成申請の書類づくりに追われています。やっと一息つけたので、更新することを思い出しました。首尾よく内定がでたら、来年は川辺の企画がたくさんできそうです。
2004年11月13日 土曜日
方々でピカソってそんな凄かった?と尋ねられます。このコラムを読んで下さっている方々です。有り難いことです。山下のこんなつぶやきを開いて読んで下さっていることに感謝します。
さて、そのピカソ展ですが、写真を5枚ほどトップページに貼りました。ご覧下さい。川村美術館前のオブジェは今公開の「ハウル」を連想させます。写真にするとまた、いいです。
さて、今日は塾より更新しています。さっき、すごい事が起こりました。高校生のDくんが捕ってきたヤゴ(小川のトンボ公園)が密かに羽化していたらしく、水槽からいなくなっていました。そしてたった今、天井をブンブン飛び回る虫がいるので、見ると、大きなヤンマなのです。羽がまだ、うす茶色に光って、湿っているような感じです。上部の壁に張り付いて、誕生した興奮をおさめています。塾にいた子どもたちはみんな興奮して見に来ます。jamを中断したシマちゃんも見に来て、「水槽にヤゴいないと思ったよ・・・」とビックリしています。
その後Dくんと「でも、今トンボになったんじゃ、困らないかな?これから冬にむかうというのに・・・。」という話になりました。そうです。ヤゴがトンボになるのはヤバイ時期です。11月にしては20度をこえる陽気が続き、塾内の水槽の水温も春っぽくなっていたのでしょうか・・・。
今は塾内も落ち着き、ヤンマはひっそりと完全な羽になるのを待っています。図鑑で調べたところ、『クロスジギンヤンマ』ということです。
せっかくトンボとして登場したのに大空を飛び回るには木枯らしがジャマをすることでしょう。結局、完全な標本として塾内で飾られる運命なのでしょうか?ちょっと可哀相な気もします。
2004年11月8日 月曜日
千葉の川村美術館へ行って来ました。コラムを読んで下さっている方はご存じの通り、新潟の地震で当初の予定の妻有地区のアートを断念した末の決定でした。これは不幸中の幸いで「大当たり」でした。
ピカソはすごい!の一言。
もちろん、川村美術館の常設作品も充実していました。企業として社会に貢献する一つの姿として、頭が下がりました。常設展の見せ方、企画展の見せ方もにくいくらい考えられています。私たちが20名以上なのに個人で入ったことを知ると関係者は精算して団体扱いで帰りに返金してくれたり、誠実さあふれる対応でした。福島はピカソ展にむけて中高生と授業を組んで「コラージュ:人の顔を作る」をやって美術館に持参して、いろいろ関係者に意見をもらったそうです。美術館は親子企画で「子どもから教わるピカソの見方」などを行っていましたが、子どもに表現させることはやってないという話でした。実際はピカソの刺激を受けてから、何かつくったらもっと面白いのではと思いました。
さて、まず常設展。ルノアール、モネ、常設のピカソ、レンプラント・・・・・と有名どこの作品が並びます。その中にシャガールがあり、大学時代から2度ほどみている懐かしい「赤」に再開できて感激していたのも、つかのま、ロスコルームでは完全にやられてしまいました。
薄暗い部屋に入ったとたん、壁の作品の大きさに圧倒されます。ただ、目が慣れないので濃いワインレッドの濃淡の中に四角い形が浮き上がってくるのに時間がかかります。その形はすごい迫力をもってせまってくるただのぶっとい枠です。作品は7つで部屋の4方を締めていますが、その深い圧迫感がだんだん薄らいでゆくにつれ、最後の方の作品の色が変わってみえる瞬間がありました。今まで黒く感じていた枠が急に青く浮き上がってきたのです。一人でみていた私は思わず、「わ、色が変わった!」とビックリして声を発したら、側で座っていた美術館の女性が「はい、目が慣れてきたからです」と事もなげにおっしゃいました。ロスコルームはレストランの壁用につくられたものだそうで、その壁と照明などが空間を見事に作り上げている作品でした。のりとくんと後で「あんなレストランだとお客の回転が悪くてしょうがないだろうね」と話しました。彼も「あの空間にいると動きたくなくなる」と評価していました。福島もロスコルームのハガキセットを購入して、2部購入した私と見せ合い、「かぶったね。でもほしかったから・・・。」と言いあいました。
そして本丸、ピカソです。
美術の知識ゼロに近い私です。ただ、見るのは大好きなのです。説明文もほとんど読まず、作品名も半分くらいしか見てないで回ります。そして、気に入った作品をもう一度見に行きます。だから、きのうは入場口から退場しいました。もちろんそっとです。
ピカソは鉛筆画をみるとその形のおかしさ、巧みさに思わず近づいてしまいます。色は色でこんな色があったのかと発見するような色です。クレーと違うのはどこか「おかしい、うれしそう、弾んでいる」感じを受けてしまうのです。たしかにいろんな顔の表現は最初びっくりしますが、たくさんみていると「そうそうこれは男」「これはたしかに座っている女」とピカソモードが体に形成されて、それがとても心地よいです。ピカソにとって、女性は円で描き、男性は一般の四角形の集合です。女性には必ずといっていいほど、オッパイがあり、男性はひげ・パイプなどが小道具です。私は鼻をでかく緑にされた女性の絵の前で「そんな鼻はないだろう」と一人ツッコミを入れていました。「「男の半身像」の前では「よれよれに酔っぱらったサラリーマン」を連想して笑ってしまいました。ピカソはこんなにたくさんの人を描いて楽しかっただろうな・・・・と作品毎に思いました。自分の溜まった諸々をカンバスにぶつけて、自分はすっきりしているじゃないかと思いました。見ている人はそのエネルギーに圧倒されながらも、同じすっきり感を味わえます。
私が一番気に入ったのは3枚の並んだ作品で、その酔っぱらいのサラリーマンの後ろの壁に並んでいたものです。「座る裸婦」「座る女」「横笛を吹く女」どれも、その色に圧倒されました。この色を覚えておこうと時間をかけて、ただずんで居ました。「よし、どうせ福島は作品リスト集を買うだろうから、あとで見せてもらおう」と楽しみにそこを後にしましたが、いざ見てみると全然色が違って私が魅了された色はどこにもありませんでした。残念。他に「巨大な手をした横たわる女」「赤い背景の接吻」が好きになりました。
鑑賞の仕方いろいろで、一つのエピソード。
常設展の一角に日本画があります。中2のIくんが作品に背をむけて相当長い間たっています。私は先日、琳派展に行ったので金箔ぬりの屏風を見ながら、「コレを箔あしというんだったな・・・」と思い出しているところでした。Iくんはいっこうにその作品に背を向けた姿を変えないので、飽きたのかなと思って近づくと、遠く対面の作品を見ているのです。その作品は大きな2枚の屏風絵で冬の山中に女の子がいるものです。それを全景を一望できるまで後方に下がって見ているIくんでした。背をむけられた作品は可愛そうですが、そんな見方をして鑑賞してもらえる屏風絵の方は嬉しいと思いました。私も彼のマネをして並んでみると全然印象が違うので驚きでした。彼は私に「こうしてみると、いいでしょう」と恥ずかしそうにいいました。私も「たしかにいいね」と答えました。
鑑賞を終えた中高生はピカソのパンチにやられて、めろめろ状態でした。芝生でお弁当にしましたが、体に溜まったピカソのエネルギーがいつまでも抜けず、暖かいような嬉しいような、走り出したいような、叫びたいようなそんな騒がしい体になっていました。やっぱりアートはいい。それも本物を見るのはいい。売店でたくさん買い物をして家計にたくさん借金をした福島も「いや、ピカソが良くて良かった。初めてみるからつまんなかったらどうしようと思ってたよ」と家に帰るまで興奮状態でした。
参考までに。ピカソ展~幻のジャックリーヌ・コレクション~、12月23日(木)まで。月曜休館。大人1,300円。大高生1,100円、中小生500円。9:30~4:30(入館4:00まで)。
千葉県佐倉市坂戸631 TEL0120-498-130 川村美術館。(HP www.dic.co.jp/museum/)
私達は娘をつれて再挑戦します。
2004年11月6日 土曜日
地震の被災地のみなさん、お見舞い申し上げます。このたびの地震は余震がハンパじゃなく、落ち着かない思い、不安な思いを抱いての生活が非常に長期に渡っていると知り、心中深くお察しいたします。
塾の行事への影響は先日の里山ウォーキングの行き先変更以外にも、明日の中高生文化企画に表れました。当初松代や松之山の『大地の芸術祭』を予定していたのですが、交通や諸事情を考えて、千葉の美術館・博物館に行き先を変更しました。事情が落ち着いたら、是非妻有地区のアートには再挑戦したいと思っています。
明日はピカソの妻、ジャックリーヌ所蔵の人物画百数店が展示されるという川村美術館に行き、帰りに佐倉の歴史民俗博物館に寄る予定です。どちらも以前訪れたことがある場所で、きっとアートの空間や歴史的空間に出逢えると思っています。
人間は同じ部分の脳を使いすぎるとダメになるということで、私は忙しい時は特にアートの世界に出かけて行くことに決めています。そうすると作品のもっている力が自分の眠っていた部分を刺激して、その瞬間いままで酷使していた部分を休ませている感じがするのです。日々の生活に疲れたら、緑や源泉を求めて山の方に向かっていましたが、紅葉でそっち方面に行けないときは「アート」の世界で命の洗濯です。
明日はピカソのパワーで脳をゴシゴシしてきます。
2004年10月27日 12:02:56
土曜日の夕方、やっと書類仕事が一段落して夕食の準備をしていました。娘が「お母さん揺れてる・・・」というので、気をつけてみると小さく横揺れしているので「小さいやつだな・・・」と思っているとどんどん加速して横揺れが大きくなりました。二人でキャーキャーいって、右往左往していましたら、福島が車で帰ってきました。彼はラジオで知ったといっていました。
場所は新潟の小千谷市と分かり、その後が大変でした。翌日から里山ウォーキングで訪れる松之山の近隣市なのです。十日町や中里町は隣町です。「どうしよう、17号も陥没しているって・・・。」「行っても、先で活動できないかも・・・。」「関越はどうかな・・・・。」といろいろな話になり、情報を集めて、明日からの活動を決めることにしました。結局、里山ウォーキングの行き先を変更して埼玉県の小川町に行くことにしました。小川も候補の一つとして下見をしてあったので、助かりました。比較的近いので出発も1時間半遅らせて、行きは一般道で行き、関越道の様子を見ることにしました。「よりによって、イベントの前日にこんなことになって・・・。」と最初は思いましたが、よく考えると、地震の周期の前には、今日の夕方と明日の午前中の差なんて、ごくわずかの差に違いない。だから、明日起こらなくて危機一髪だったのかも・・・・も考えるようになっていました。本当にその通りだと思います。
関越道はやはり、月夜野インターから先は通行止めでした。新潟県への電話もつながりませんでした。やはり、行き先を変更してよかったなと思いながら、小川に近づくと、道ばたにやたら、警察官っぽいおじさんたちが立っているのです。「こんなところまで地震の影響かな、まさかな・・・。」と思って、停車した時に「何か事故ですか?」と尋ねると「あと少しするとここは通行止めになるよ。国体のロードレースの会場だからね。」と言われました。ここでも、危機一髪!あとちょっと遅いと、幹線道路が使えず、困っていたところでした。
小川の里山ウォーキングは終日晴天に恵まれ、小学生と思う存分、田舎の風景を楽しみました。ススキや柿が光に照らされて、のどかな景色でした。お弁当は少し登って、見晴らし台という里が全部見渡せる場所で食べました。遠くの山々を眺めていると、遙か北方で激甚な揺れに苛まれている人たちのことがウソのように感じられました。余震が大きいと途中のニュースで耳にしていましたから、命からがら、逃げてホッとしたのもつかの間、余震の恐怖から逃れられないとわかった人々の心境に深く同情してしまいました。
午後も里山ウォーキングは続きましたが、近くの川や沼でも遊びました。川エビやザリガニやヤゴを見つけて、興奮した場面もありました。
こうして、無事里山ウォーキングも3回目を終了しました。今年の野外イベントは11月末の水晶採りでおしまいです。鉱物好きがたくさん集まりそうです。
2004年10月21日 13:04:21
カウンセリングの話。
1993年から2000年まで丸7年、トライ☆アングルという不登校の子供たちが集まって、出かけたり、好きなことを企画したり、勉強する場所を主宰していました。このホームページの「悩めるもの部屋」にその記録などが残っています。そこからたくさんの子供たちが再出発をし、不登校時代の自分を懐かしむようにもなっています。私にとっても、すごくアイデアの湧いてくる時代でもありました。
7年間でこどもたちとつきあうことは全然つらくなかたのですが、一部の家庭のお母さんたちとのつきあいに疲れ、適応疲労を起こしてしまいました。2000年2月のことです。それは急な血圧の上昇というわかりやすい形で私に現れました。眠れない、食べられない、とお医者さんにいくと血圧が230もありました。薬でやっとコントロールして仕事を続けましたが、福島が「一番の負荷はトライ☆アングルだから、今居る子供は塾が面倒みるから、閉じよう」と強く進めました。
なぜ、そんなに適応疲労を起こしたかを今になると冷静に考えることができました。それは非常に困り果てた人の話を毎日聞いていて、自分と相手との距離の取り方を間違え、心底疲れてしまったせいです。これが7年間で徐々に疲労として溜まったようです。よく、印刷物の校正をするときは中身を読んじゃダメで、字として眺めて、誤字を探すといわれます。それと通じるかは不明ですが、困っている人の話も一緒になって、気持ちを高揚させたり、落ち込んだりして聞いていたら、こっちが参ってしまうと気がつきました。聞いてもらってる人はとにかく、はき出す場所があるだけでOKなので、技術的に聞いても同じなんです。一緒に涙を流すほど同情して聞く必要はないのです。それは仕事として聞く人の心得で、長く仕事を続けるための必須事項なのでした。
そういうことを知らずに、いつも全力で人を話を聞いていた私は一日に4人の方の話を聞いて、『死にたくなった・・』経験があるのは、頷ける話でした。そんなとき、「私には人の話を聞くのは向いてないのじゃないか・・・」と思っていました。でも、話を終えてスッキリ明るいなって帰って行く姿をみると、この仕事のやりがいを感じてしまうのも事実でした。よくのりとが「やってきた時の顔と、帰って行くときの顔が全然ちがうよ。別人になってるよ」と驚いていました。今は自分がそれと同じことをやっているのに、彼は気づいていませんが・・・。
もう、仕事として何件も話を聞く場面はなくなりました。メールでは不登校相談はとぎれずにあります。メールというクッションを置くせいか、淡々と返信でき、負担も少ないです。
そのメール相談から始まった関係なのですが、ある人の心の吐露のメールを受け取って「あなたのメールを読んで泣いてしまいました。つらい気持ちがよくわかりました。これからも友達でいようと思いました。」と返信しました。即座に「私こそ、気持ちをわかってもらえて、うれしかった」と返事が来ました。ネットの世界の虚構性に反発を感じる私ですが、こういう相談形態が双方にいい結果をうんでいることを考えると、ネット世界も有効だなと感じす。もちろん、彼女とは会って、つきあいが深まっている関係だから、書けることなんですが・・・。今気づきましたが、これはカウンセリングではなく、友達の相談にのっている段階だと思います。
結論、私にできることはカウンセリングじゃなく、友人の相談だということです。
2004年10月19日 12:40:43
山に入りました。早朝より出かけてたっぷり3時間半ほど山をうろうろしました。
以前からきのこと天然わさびをもとめていった場所ですが、沢の流れが変化して、わさびが繁殖を妨げられていました。河原の石を組み直して水を導いてやりたいのですが、結構歩いてやっとたどり着くところなので、いつもいつも面倒がみれないと思い、断念して帰ってきました。
久々にたっぷり山歩きをすると、汗も噴き出、服も雑草だらけになります。でも、その爽快感はたまりません。これでまた一週間、がんばれるって感じです。帰ったきてからが、大変です。わさびやウワバミソウを洗って、鍋でゆでます。そしてわさびの根っこを丹念にむいて、すりおろします。この作業で約3時間を要します。わさびの茎は冷蔵庫に寝かせ、ウワバミソウは切って、わさび・しょう油・八海山で味付けしました。
翌日、各所に散ったウワバミソウのわさびしょう油漬の評判はどうでしょう?
明日はわさびの茎を調理しようと考えています。きのこの収穫はいまいちなのでわさびやウワバミソウで楽しむことになりました。
それから、海ホタルは塾に移動されて、今大水槽の下で静かにしています。前の土曜日に人の森のメンバーに発光ショーを見せました。数匹がしばらく、青く光りました。私は「こんなに数が減ってしまって・・・」と、思ってみていましたが、人の森のメンバーは「うあ、きれい!これは本当に現地でみたいね」と感想を言っていました。
どこまで小中学生に発光ショーが見せられるか・・・!
2004年10月14日 12:20:09
我が家の海水の異変の話。
毎晩、かまぼこを切って、海ホタルの水槽に入れてから、真っ暗にして私は就寝します。その後、2~3時間後にふくしまがそのかまぼこを引き上げて就寝するのが、決まりとなっていました。ある晩、「かまぼこの味にも飽きたろうから、魚肉ソーセージを買ってきたよ。今日はこれを入れて・・・。」というので、言われたとおりにしました。そして、翌朝彼が「駄目だよ。魚肉ソーセージは。海ホタルは寄ってこないから、すぐひきあげたんだよ。それで今までもそうしたんだけど、もったいないから、エビにいれたら、エビが死んじゃったよ。」というのです。
二人でいろいろ原因を考えた結果、99円ショップの安い魚肉ソーセージだったので、添加物がひどかったのじゃないかという所に落ち着きました。その他の要素が思い当たりませんでした。それにしても、海ホタルの用心深いこと・・・。そして添加物の恐ろしいこと・・・。
そして今朝、海ホタルの水槽がひどく濁っているので、覗くと海ホタルの死骸らしきものが浮いているのです。ありゃ・・・、魚肉ソーセージのせいかな?と思いながら、急いで水槽の海水換えをしました。おかげで仕事にでるのが遅れてしました。生き残った海ホタルは早く塾に移して「発光ショー」をやることが急務となりました。
エビが死んでしまった添加物の多い魚肉ソーセージから昔の社会科の授業を思い出しました。
数年前に中3社会の授業で「環境ホルモン」をやりました。入試も終わり、テーマ学習の授業をやっていた時です。「環境ホルモン」は水の浄化能力の高い貝類から始まりました。生物の生殖機能に変化をもたらす恐ろしい物質として「環境ホルモン」はみんなの記憶に残りました。そして人の生命には影響なくても、人の精子には影響するというクダリで、「君たちの精子の数とおじいさんの同世代の精子の数だと、絶対的に君たちの方が少なくなっているだって」という私の言葉に、中3の生徒たちが驚いていた記憶があります。「じゃ、子供を作らなくなってるんじゃなくて、子供ができにくくなっているのか・・・」という生徒もいました。
99円ショップと言えども、政府の安全基準を守って食品として販売されているものです。人間が食べても直接の被害はないという基準でしょうが、小さいエビたちは、可愛そうにあの世に行ってしまいました。目の前で死んだエビをみると、恐ろしさを痛感するのですが、それがないと、どうも想像力の乏しい私はピンとこなくなっていました。子供が小さいときは、神経質なくらいに食品添加物や農薬に気をつかっていましたが、「もう、ここまで大きくなったらいいだろう・・・。」と適当に考えるようになっていました。
我が子はもう、自分の口に入るものは自分でコントロールできるまでに成長しました。今後は孫の代まで安全で美味しい食べ物が日本に残るように「食」を監視していかなくちゃと感じました。・・・ほんと偉そうですが、マジで・・・。
2004年10月12日 12:29:41
台風情報に釘付けの土曜日は塾は全面休講でした。
朝から降り続いた雨も昼前後に小康状態になり、その間隙をぬってふくしまがサミットへ買出しに出かけました。帰ってきたとき「いや~、みんな考えることは同じでレジは全開状態だったよ・・・。」といっていました。
私は貧乏性なのか、せっかくの休日をのんびり過ごせばいいのに、明日からのきのこツアーに向けて、コロッケを作り出していました。計50ケをつくり、30ケは明日用に冷蔵庫に寝かせ、残りは家族用にしました。千切りキャベツもたくさんつくりました。
台風はというと、「もう来るな」と思うころ、風が強くなったので覚悟していたら、しばらく吹いただけで大人しくなっていました。天気図をみるとまだまだ影響下にあると思われますが、台風の一番接近したピークは過ぎたようでした。朝から連絡の取れない息子にメールをしてもらうと、なんと千葉に来ているという・・・・。「テニスの試合で千葉にきたけど、台風がすごい。結局試合は今日はなくて、2泊が3泊になっちゃった。」とぼやいています。
そうこうして思いがけない休日をもらったあとにきのこツアーが待っていました。
朝一番に雨の音に驚き、『台風一過だろうに、約束が違うよ・・・』と一人不満げに弁当に取り掛かりました。
雨は群馬に入ったら、よけい激しくなり、マイクロバスのワイパーの間隔も激しくなりました。これでは山に入るのも無理かなと思いながら、三国トンネルを出て、山荘付近に近づくと、なんと湯沢方面が晴れているのです。「わあ、晴れてる!」と叫んでいました。
一番最初にアタックしたのは田代のダムの奥でした。道路際にあるきのこを子供たちが三村さんに持っていって名前を教えてもらっています。道路が切れたら、今度は車の入らない山道になり、みんなきのこを目指してモクモクと歩きました。途中で立ち枯れ、倒木があると近寄って点検します。普通ならナラタケやブナシメジなのがあるのですが、今回はちょっと様子が違います。ヒトヨタケの仲間や白い恐ろしいきのこはたくさんあるのですが、収穫したいものはありません。ひとつ、ひとつ点在するきのこを三村さんが丁寧に名前を教えてくれます。
途中の立ち枯れた巨木にヤマブシタケが3株ついていたのを見て、子供たちは興奮しましたが、なんせてっぺんなので、手も足も出ませでした。結局、きのこはヤマイグチ、クリタケ、キツネノチャブクロなどが少々採れたのみでした。
次に第2のスポット、松手山の鉄塔付近へ行きました。ここも先日のナラタケのピークが終わったのか、坊主に近い状態で山を後にしました。夕暮れと勝負で結構ペースの速い、山歩きとなってしまいました。
そして、翌日、朝の散歩と称して山荘まわりを探検しました。今度はホテイシメジ、クギタケ、ベニタケ、スギヒラタケ、スギエダタケなどたくさんのきのこを確認しました。そして、先日からのきのこと一緒に胞子紋づくりのために黒い紙に並べました。
こうして、きのこを探す2日間は過ぎました。帰りにはふくせんの知り合いのりんご農家によりました。そこでりんごを試食させてもらったり、希望者はりんごを狩ってお土産にして、キズりんごは無料でいただいたりして帰ってきました。
台風情報を聞いているとどうなることかと思われたきのこツアーですが、天候にも本当に恵まれて、無事楽しく終わりました。
2004年10月5日 12:52:17
また、娘とふくしまと3人で新潟へ行きました。結構強行軍でしたが、この雨で道路事情は良かったです。
まず、前回のナラタケスポットを雨の中、攻めました。結果、台風に全部さらわれた感じでした。10日前のナラタケやその他のきのこの姿が消えていました。もう、ナラタケのシーズンは終わったのかと雨の中を3人で歩いていると、沢筋に巨大倒木がありました。娘が登り始めたので、下で見ていると、「お母さん、きもいよ(気持ち悪いの意)・・・。」といいます。「白くて、丸くて、変な格好・・」というので、私も後から登り始めました。「ね、それって、おじいさんのヒゲみたいに丸くたれてる?」と下から、たずねると娘がそうだというので、ヤマブシタケかなと見当をつけて、倒木まで登りました。思ったとおり、真っ白のヤマブシタケで、相当の大きさです。一度に採れないの3つくらいに分けて採りました。一抱えある大きさで雨を吸ってる関係か、2キロはあると感じました。沢なので雨が直接、降りかかるので、私たちはずぶぬれになりながら、ヤマブシタケを収穫しました。この重さに満足して、3人で山荘へ引き返し、その後の計画を考えました。
娘はこの際、足を伸ばして松之山へ行きたいといいます。私もふくしまもひとつの目論見があるので、すんなりOKして、山荘を後にしました。
その目論見とはK池というため池で昨年スジエビがたくさんいるのを見て、捕ろうとしたのですが、なにも道具がなく、あきらめて岐路についたいきさつがあったのです。K池スジエビ・リベンジです。娘も捕り物は大好きで、3人のコンビネーションで大きめのスジエビを100匹以上採りました。タンクに入れ、エアポンプを使って帰ってきました。今も全員ピチピチ元気です。
先日エビの本を買いました。
エビにはヌマエビとテナガエビがあり、そのテナガエビの中にスジエビが属していることがわかりました。スジエビをみると、今まで私たちが捕ってきたヌマエビとは手の感じが違います。ヌマエビよりスジエビの方が手がスマートで長いです。ヌマエビは短い毛のような感じです。スジエビは目が飛び出てひょうきんな顔です。このエビも見ていて飽きません。
明日は塾でもうひとつの水槽をしつらえて、このスジエビを放す予定です。
2004年10月1日 金曜日
化石体験に行って来ました。いつもながら、「何でこんなに面白いのか・・」と思う体験でした。
場所は群馬県の鏑川の河原。発掘の合間にお弁当を河原で広げました。空を見上げると、2羽のカラスに1羽のトンビのような鳥が一緒に飛んでいます。初めはカラスがトンビをいじめているのかと、みんなでワイワイいっていました。こどもたちは「お~い、いじめんなよ~。」と口々に叫びます。それは異常に接近してくっついて飛んだり、離れたり・・・。まるで黒いカラスが茶っぽい他の鳥を追いかけ回しているように見えました。
そんな光景をみんなで見ていると、どんどん点が小さくなっていき、ずいぶん遠くまで、高度をあげてしまいました。最後にはフクセンには確認できないくらいになってしまいました。よくみると、今度は3羽より一回り大きそうな猛禽類(?)が加わって、4羽の小さい点が何かの状況をで空で起こしていました。今度はもう、遠すぎて、もめているのか、仲良くしているのかサッパリ分からなくなりました。
子どもたちや参加したスタッフたちはこの光景をお弁当を食べながら、ずっと追い続けました。
また、お弁当前にはクチバシが黄色く、体が白と茶色の鳥が大群で飛んでいく様を見ました。みんな、すごく興奮したのは、隊列の形がドンドン変わって、大群でひとつの形にみえたからです。このショーはほんの一瞬でしたが、みんな目の前の化石を忘れてしまったほどでした。こどもの一人が「スイミーみたい・・・!」と叫んでいました。そうね、でもスイミーになるには『目』になる鳥が必要かな・・・、と思いつつ、魚のかたちになった大群をみていた私でした。
実はこの1週間の間に私の目に異常が起こり、ちょっと心配していた時でした。火曜日の夜、メガネをかけて食堂テーブルを見ると、遠くも近くも何もかもぼんやりして、ピントが合わなかったのです。ビックリした私はメガネをはずして、目を閉じてなぜだか、トイレに入りました。そしてトイレでそっと目を開けてみて、自分の手許がハッキリ見えるのを確認してホッとため息をもらした夜でした。日月の書類づくりの後遺症でしょうか。
そんなことがあったので、遠くの鳥を見ながら、何だか、目をケアをしている実感があった今日でした。家に帰ってからはいつもより台所が明るくなってる気がして、気分がいいです。フィールドに出た効果でしょうか。
さて、化石の成果は上々で、下見の際のスポットは台風後の増水はあるものの、予想以上の場所でした。参加した子どもたちは残らず、化石をゲットして帰りました。
指導の福嶋さんの話で体験はスタートしました。「みなさん、ここは1000万年前は海の底でした。深さは約100から200メートルくらいです。東京タワーの展望室より下と思ってい下さい。その時の生き物がドンドン積み重なっています。サメの歯はキラリと光ります。何でも出た物は持ってきてください。」
私も時間を忘れてコンコンしました。『タガネを入れてハンマーをおろす→はがれた面を慎重に見る・・・』これを30回繰り返すと、必ず、ハンマー跡でもない、生き物のの跡を見つけることができます。亀裂を二つに分ける瞬間、現在の空気に触れる1000万年前の生き物だったものたち・・・。私はこの瞬間が堪らなく、好きです。次の瞬間を予言してか、化石がある場合は開く瞬間に何かキラッと脳にひらめくのです。わたし的に今日の最高の収穫は『ちょっと大きめのサメの歯』と『光る物質がまぶされたヤスリツノガイの化石』でした。(先日の発見ものは正式にヤスリツノガイと福嶋さんが判定して下さいました。)
あまり、うれしいので今更新しています。明日は朝一で化石をクリーニングし、保存コーティングをする予定です。今、娘とふくしまがルーペでパイライト(金みたいに光る)でコーティングされたヤスリツノガイを見ています。
2004年9月28日 12:30:35
エビに凝っています。
毎晩見るだけでは飽き足らず、毎週土曜日にふくしまが子供たちと捕ってくるエビたちを管理しています。近隣の上水にはたくさんの種類のエビたちがいて、劣悪な環境でも行き続けられるエビやちょっとのダメージで死んでしまうエビ、様々なエビたちがいます。色もブルー、ブラック、透明などなどです。スジの様子も本当に個性的で、エビ図鑑を購入することを考えています。
100円ショップのビンの中に砂利や用土を入れて、水草を育てて、適正な規模のエビを入れています。塾や家で安定させたら、子供や知り合いにあげています。もらった私の友人は、『本当にエビの動きが可愛い。こんな動きを見ていると自殺を考えている人はきっと思いとどまると思う。こんなに小さくてもけなげに生きてる姿はそういう人に是非みてもらいたい・・・』というはがきを送ってくれました。自殺志願者に有効かどうかはわかりませんが、彼女がエビの動きで和んでいることがわかってうれしかったです。
夜な夜な、ふくしまは様々な容器に入ったエビたちを見ながら、時間をすごしています。彼の部屋にはイモリ・カエル・そのえさのこおろぎ・ザリガニが同居しています。一部は塾に移動しましたが、いつも何かごそごそ音がします。
娘とエビの世話をしている時、彼女が「私たちエビのブリーダーだね。」といいました。本当にどんどん我が家の水槽でちびエビが誕生するので、本当に繁殖させている感じです。今度はちびエビたちを上水にもどすのもいいかなと考えています。
続いて海ホタルの話。
エビの水槽の隣の海水には2年半飼ったスズメダイの姿はありませんが、館山から持ち帰った海ホタルがいます。海ホタルの観察のあと、これを今回参加できなかった子供たちに見せてあげられないものかと思い、安藤さんに相談したら、「スズメダイを2年も飼っていたくらいなら、海水の生き物について分かっているだろうから、持ち帰って子供たちに見せてあげたら・・・」といわれました。安藤さんたちが大切に保護し、繁殖も尽力しているのに、持ち帰るのは申し訳ないと思いましたが、いい環境だと半年は生きるといわれ、「大切にしますから。」と約束をしてスズメダイを入れてきてタンクで持ち帰りました。携帯用のブクブクもあったので道中は心配なく帰ってこれました。
さて、問題はこの海ホタルをどういう形で発光観察させるかです。安藤さんたちは軽い電流をワイングラスに流して海ホタルを脅かす方法を採っていましたが、科学教室担当の者にたずねると「海水の中で電流は流れすぎるし、電極に銅を使うとその毒で死んでしまうだろう。電極の方法は最後にして、まずもっと、刺激の少ない方法から、ためしたらどうか・・・」というので、いろいろ考えてもらい、「海水を氷にして入れ、急に水槽の温度を下げたら、発光するんじゃないか」というアドバイスをもらいました。
昨晩、凍らせた海水を入れたところ、温度の変化より網にすくわれた刺激で発光していました。もしかしたら、網ですくうだけの発光観察会になるかもしれません。それで十分きれいです。海ホタルは一度ひかると2週間ほど休ませるということなので、もうしばらくしたら、塾で夜企画「海ホタルの光を観る会」を開く予定です。お楽しみに・・・。
2004年9月24日 13:05:10
きのこのシーズンは確実に始まっていました。
きのう苗場へ娘と福島と3人で行ってきました。正確には水曜の夜から泊まって、早朝より山荘の周りを探し、最後のスギヒラを採って、地元の人に教えてもらった松手山のスポットへ挑戦しました。
山道をそのまま進むと静かな雑木林からブナ林になります。途中、倒木や立ち枯れに目をやると、雨上がりの後にヌメヌメ光るナラタケがあちこちに育っていました。痛んでないものを選んで採っても相当な量になり、リュックにいれて両手をあけて行動しました。
道から急に落ちて込んでいる谷の方に大きな立ち枯れがあったので、福島が降下にアタック。彼には珍しく、ずり落ちていく感じなので、急坂なのが分かります。立ち枯れに到着した福島が興奮して私たちを呼ぶので、娘と一緒に降りて行きました。
すごい坂で足元もユルユルにぬかるんで頼りになる木もあまりありません。クマザサをつかみながら降りていくと、急に目の前に空と自分の足が移りました。どうも頭が下になった状態が一瞬あったようで、左の腕で近くの小枝をバキッと折った音がします。娘にもぶつかったらしく、私の転倒を助けようとした娘も持っていた木に力をいれたとたん、その木が折れたようで、同時にバキッと音がしました。急なブッシュの坂で転げた私は一回転して、枝につかまって止まったようです。「Mちゃんごめん。お母さん一回転しちゃったよ。」というと、娘が「わあ、見たかったな、転んだ後しか見れなかったよ。」と残念がります。
急なブッシュで一回転した甲斐あり、ナラタケの大収穫を手に山を下りました。
また、ひとついいスポットが増えました。帰りに山の蕗を採って帰り、自宅についてからは、きのこの処理・蕗の処理は深夜まで続きました。
2004年9月21日 13:05:22
きのう遊学会のイベント「ビーチコーミングと海ホタルの観察」が終わりました。幼児から大人まで19名がマイクロで千葉の館山へ行きました。 最初は申し込みの出足が悪く、フクセンが「今年イチオシの企画なのに・・・。」と心配していましたが、申し込み間際で参加者が増えて、一安心しました。せっかく遠いところまで面白いことをしにでかけるので、一人でも多くの子供たちに体験してほしいと思っていたからです。
千葉の館山は黒潮が沖を流れ、潮の関係か漂流物が多く、水がとてもきれいです。本当にびっくりするくらいです。海岸を歩きながら、いろいろなものを観察し、夜は海ホタルをビンにとって、観察するという企画でした。
朝7時30分に西東京を出発したバスは一般道を南下して9時過ぎには浮島に到着、東京湾アクアラインを強風でひやひやしながら、通過し一路館山に向かいました。海ホタルパーキングは込みこみで停車をあきらめ、開店前のヤマダ電機や海辺の公園でトイレ休憩をとりました。
参ったのは鋸南でお祭りがあり約1時間道路で閉じ込められたことです。前にいたバイクの集団は痺れをきらせて、別の道をとったくらいです。途中の道の駅でお弁当をひろげ、指導の安藤さんの待つ場所へ急ぎました。
館山の坂田海岸がその日のフィールドで安藤さんのタカラガイの標本から、ビーチコーミングはスタートしました。
さっそく、海岸をあるくとまず、鯨の骨を発見。ぞくぞくと見つかるお宝に安藤さんが名前を告げていきます。タカラガイだけでも20種ほど出てきます。そうそう、いい忘れるところでした。海岸歩きに先立って、福島家に2年半飼っていたスズメダイを海に返しました。2年前の磯の生物企画で捕獲し、水槽で飼っていたスズメダイです。性格が獰猛なのでたった一匹になってしまっていたので、海に返すことにしたのです。タンクからどぼどぼを水を出していくと、最後の方に「ポン!」と弾んでスズメダイが海にジャンプしました。それで終わりでした。長年つきあったのに「挨拶なしかよ・・」という感じでした。
その夜は夕食後近くの海岸へ海ホタルの観察に行きました。南東に三日月が美しく、遠い陸地のシルエットも浮き上がって見える夜景でした。ビンを沈めて待つこと10分。桟橋に風があたるので、ちょっとこわごわ歩く感じで、泣き出す幼児もいましたが、ビンを引き上げてバケツに放し、青白く光るものを見たとたん、泣き声は歓声に変わっていました。
ビデオをとっていた私もおもわず、レンズをはずして直接、光を見ていました。陸のホタルとは違う、蛍光の青です。陸のはどちらかというと黄緑っぽい光ですが、こちらは青白です。そしてよくみると光が微妙に動くのです。小さく渦を巻くさまは宇宙空間をも連想させます。
海ホタルの興奮にもかかわらず、海岸を歩き回った疲れか、いつもより静かに子供たちは眠りにつきました。
そして、翌日は沖ノ島という海上自衛隊の奥の無人島に行きました。蹉跌の海岸あり、地震の際の断層ありで、飽きることがありません。もちろん水はきれいだし、磯もありで、約3時間で島を一周した私たちは名残惜しい思いで、安藤さんにさよならをいいました。
お昼は三芳の道の駅でたっぷり休憩をとりながら、いただきました。これから長旅を考えると気持ちは急ぐのですが、千葉の田んぼ風景を堪能しました。工夫のある面白い道の駅でした。
一般道の込みに辟易しながらも、バスの中はにぎやかに楽しみながらの道中でした。運転ののりとくんを寝かさないようバカな話をしていましたが、3回ほど意識が遠のくのを必死で隠していた山下でした。そんな時は後部座席の参加者が助っ人で話しかけてくれて超助かりました。
無人島の存在を知ってしまった私たちは多分、もう一度あの地を訪れる可能性大となりました。きのこのシーズンでも、気になって仕方ない場所になってしまいました。本当に館山は最高でした。指導の安藤さんも。
2004年9月14日 火曜日
苗場の山荘利用者協議会で大きな問題が出てきています。それは谷川連峰最終地の平標山の山小屋の改修に伴い、トイレを整備する際、大きな合併浄化槽を二居川の源流に設置するというものです。平標山山の家は群馬県、二居川は新潟県湯沢町の管轄です。群馬側では国からの予算もついて着工を待つばかりですが、近隣住民の理解を得るという段階が一つ残されているので、山荘脇を流れる関係上、利用者協議会で説明をする運びとなりました。ただ、山荘関係者はみんな常時住んでいる人はまれで、いわゆる別荘地、なのです。本当の近隣住民とはその二居川の水と一緒に暮らしている地もとの人だと思うのですが・・・。
会合に出席した西尾は「環境に対する影響などの数値を出さない限り、保留です」と表明して帰ってきたそうです。場の雰囲気は「自分たちの飲んでる水に直接影響なければ、近くの源流が富栄養化しようとしかたない・・。」という感じだったそうです。西尾は地元の方に話を聞くと、「しがらみが多すぎて、運動できない」ということだそうで、また、合併浄化槽じゃなくて、循環型の地下浸透法という対案もあるという話なのですが・・・。西尾曰く、「もう少し勉強してみて、やっぱり源流にトイレの排水を流すという決定について、すんなり住民が合意したなんて記録には残したくない。きちんと反対を表明したい。群馬県の言うように法律さえ守っていれば、自然に何をやっても良いっていうのは許せない・・。でも、役人はよく準備しているから、その場ではなかなか切り崩せないな・・・。」とこれからも追求していくつもりのようです。
そして、きのう、あまり気になるので、その二居川を見に行ってきました。平標山から音をたてて流れてくるその清流はやはりこのまま残していきたいと実感しました。春の山菜を採りに言ったとき休憩する場所の水も絶品です。「やっぱ、水あっての山だなあ」と思いました。登山者のためにトイレを整備することも必要です。でもその汚水を直接管で500m程落とし、合併浄化槽である程度浄化し、源流に垂れ流すなんて、想像するだけでも、ぞっとします。現場をみて強く思いました。
本当に、他にいい方法がないものかと思います。
西尾曰く、「大きな工事だから、地元の業者も潤うし、結局『利益』なんだよね。だから、そういう利害のない東京の人が反対しなくちゃいけないのかも・・・。工事して川が汚れてからじゃ遅いからね。」。
シビアな話になりました。ここできのこ情報。
今年のきのこは2週間早いと地元の人は言っています。山荘周りはスギヒラの最盛期です。杉木立の薄暗い中で真っ白に光るスギヒラダケはしびれるように美しいです。採りながらゴミをはずし、丁寧に持ち帰り、熱湯中でピン詰めしました。これで1年は保存できます。いま我が家の冷蔵庫で眠っています。
これから、「ベニテングダケ」を持って、事務所へ行きます。きのこと縁のない人から「一度毒きのこを見たい」と頼まれていたからです。
二居川のことも心配だけど、きのこの育ちも心配です。この秋は苗場の日帰りが、増えそうです。
2004年9月4日 土曜日
家族ネタで恐縮。できれば山森ネタで清涼な情報を提供したいのですが・・・。暑苦しくてすみません。
我が家の大学生が宇都宮へ明日帰ります。約9日間の滞在でした。ソフトテニスが月曜から練習開始でそれに合わせて帰るということです。さっき、食事のあと、果物でもむこうかと思い、4人分のガラスの器を前に、ナイフを使っていると、桃・リンゴ・・・・といつになく、盛りだくさんに切り分けている自分に気が付きました。明日、一人暮らしに戻る息子に「あれも、これも・・・」とフルーツをサービスしようとしている母親がいました。そして、40余年前の私の母の姿をなんとなく思い出しました。
時はたぶん、春。私は幼稚園で、すぐ下の妹が初めて登園する日のことです。自分の幼稚園生活がやっと適応というはんこをもらえるくらいの、心許ない姉は妹の初登園が心配で心配で・・・。
母もなんとなく他人に馴染まない妹の幼稚園デビューに不安な様子でした。妹のスカートの右側にビスケットを押し込みます(母はサウスポー・・・)。その日は私も妹もお揃いのえび茶色のスカートをはいていました。母は誰にいうともなしに、「トキちゃんが来ることを先生が忘れとって、おやつがなかったら、可愛そやからな・・・。」といいながら、もう一つのポケットにもビスケットをドンドン突っ込みます。子供心に『そんな!もし、おやつがなかったら、私のをあげるのに・・・。』と思いながら、母の日頃にない妹へのサービス過剰ぶりを見ていました。
それからの記憶は薄れてハッキリしません。でも、幼稚園のおやつももらい、なおかつポケット一杯のビスケットを自由自在に楽しめる妹の得意の笑顔は覚えています。彼女は一つもそのビスケットを姉に分け与えようとは思わないで、滑り台の横、ブランコの横で楽しそうに食べていました。
きっと、そのことを妹や母にいっても、「あんた!ようそんな細かいこと覚えてんな!!」といわれることでしょう。まあ、私も40余年ぶりにフルーツをむきながら思い出したことですから・・・。
息子は確実に一回り大きくなって帰ってきました。そして再び、帰っていきます。なかなかバランス感覚のある息子で、今の自分の滞在期間は9日間が適性とはじき出したのでしょうか。このへんが絶妙です。これ以上いられるとお互いの日常に入ってきます。母としては仕事もあるので、あと1単位(あと1週間)ほどいれば、美味しいものを作ってあげれるのに残念・・・というタイミングです。
ですから、今日の午前中は、料理の仕込みと教材準備に追いまくられました。今冷蔵庫にはキンピラやマリネが眠っています。宇都宮へ一緒に明日帰還予定です。
先日、私から「揚げ物」のノウハウを習った息子は私の15年使っている棒状料理温度計を携えて、自活生活に戻ります。「もう、これで、鳥の唐揚げや軟骨揚げができる!!」と興奮していました。「揚げ物」ノウハウを携えて、息子は2学期からの一人生活をもっとエンジョイすることと思います。
2004年8月24日 火曜日
娘と福島と小魚リベンジで奥多摩を越えて山梨の方面にでかけました。
この日曜のことです。やはり早朝出かけて、山梨のフカサワ温泉には10時についていました。ついでながら、この温泉は泡つきがすごくて、地下から出てきた温泉がすぐ注がれていることが一目瞭然です。もちろん、源泉かけ流し、高温ですが、入浴後は不思議とサラッとした感じが残ります。甲府昭和IC近くです。一度経験する価値有りです。その近くの玉川温泉もまたすぐれものです。ここは少し温度が低いですが、豊富な湯量で質も秀逸です。(おっと、寄り道しました。)
温泉を楽しんだあと、お昼より、笛吹川に注ぐ間際の「日川」で小魚チャレンジをしました。その場所はたまたま車から見ていて、「いい川だな、魚がいそうだな・・」と思ったらから降りた場所でした。上流が勝沼なので、桃がどんぶらこ、どんぶらことマジで流れてきます。さっそく、3人で網をかまえました。
見ると、ふくしまが夢中になって空中に網をふるっているのに気が付きました。よく、見ると、見たことのない蝶です。なんとか捕獲して持ち帰り、調べると「ホソオチョウ」ということでした。1978年にはじめて確認された外来種のチョウでロシアからやってきたようです。日本のジャコウアゲハと食べるものが同じなので急激に増えると在来種を脅かすと危惧されたようですが、そういうこともなく、今では珍しいチョウとされているらしいと分かりました。ふくしまはそのシルエット・模様の美しさに魅せられて、大切に三角紙に入れて展翅板に寝かせています。
それから、このコラム前述の化石の報告です。
私と娘の見つけた化石はやはり獣化石、鮫の背鰭の一部でした。そして、ふくしまが結晶していると興奮していたのはツノガイの中に方解石が結晶した化石でした。前者は化石指導のF嶋徹さんが後者は群馬県立自然史博物館の学芸員の方が判定して下さいました。両者とも大切に保管するように指摘されました。
小魚リベンジは大成功をおさめて、塾の大水槽では、日川の稚魚が見事に泳ぎ回っています。100匹以上はいます。 数を取ったのは私で、一番大きなものを取ったのは娘でした。ふくしまは地元の人と世間話プラス情報収集班でした。河原横の畳工場の奥さんが車を駐車させてくださいました。
夏休みがわずかになった娘が「あ~あ、またあの川へいきたいな。魚とるのが一番面白い」・・だそうです。
2004年8月16日 月曜日
今日はぶらっと緑の中に出かけました。ずっと何か仕事がらみの日々を過ごしていたので、初休日かもしれません。(でも、周りから、いつも遊んでいるといわれる)
場所は奥多摩です。奥多摩湖を過ぎてくねくね道の沢付近にクサキの花が可愛く咲いていました。そこへ目を奪われるような美しい蝶。アゲハの一種に違いないけど、なにかゾクッとする美しさ。ハンドルを握った福島はすかさず、停車。左右を確認して走り出します。その後ろ姿へ後部座席の娘がいち早く、捕虫網をセットして、渡します。父、つつがなく捕獲し、娘の手を経て蝶は私が差し出す三角紙に無事、収納・・・。めでたし、めでたし。
そして、帰りに多摩川のスポットで小魚を探しました。すくった獲物はエアを入れながら持ち帰り、塾の大水槽に泳がせようと考えていました。でも、ダムより上部は冷たくて小魚の影がありません。釣り人のじゃまをしないよう、下流を目指しました。今度は親子連れでにぎわう河原で小魚を探しました。でも、水量が多くて思うように網にかかりません。しかたないので、引き上げようとして、駐車場へいくと、そこを管理していたおじさんに会いました。わがシャリオのお隣の車がずっと駐車しているので張り紙が張られています。おじさんに訪ねると「事件があって、わけありの車でね・・・。」と教えてくれました。福島はいいチャンスだと思ったのか、「おじさん、玉虫見ない?」と尋ねました。唐突な質問にも関わらず、おじさんは機嫌良く答えてくれました。「そうさな、オレの小さいころは、玉虫なんざ、わんさかいたさ、毎年、たくさん玉虫とったよ。でも最近見ないね、一年に1~2匹飛んでる所を見るくらいかな?」
福島が「なぜ、いなくなったのかな?」とたずねると、おじさんは「山が死んだからだろう。みてみろよ。杉ばっかりだろう。」といいます。お見受けするとおじさんは70才台中盤。戦争前は小学生。その辺りの山は戦争を通して自然林が姿を消し、杉の植林が盛んだったようです。この近くで、「おやまの杉の子」という歌の発祥地の碑があったような記憶があります。
おじさんはつづけます。「こんな山だから、虫もいなくなったよ。オレが小さいときはミヤマクワガタがたくさん捕れた、それで遊んでいたよ。玉虫も見ないし、ミヤマクワガタも見なくなった。」おじさんの話はとぎれなく、昔の遊びを伝えていました。
ここ最近、福島がある本の話をします。書名は「木の教え」。(草思者:塩野米松著)
宮大工の口伝から始まって、いかに木を生かすか、いかに木と生きるかがイラストをまじえ、書かれています。あまり、福島が絶賛するので、手許に取ってみました。
「木を買わず、山を買え」「木は生育のままに使え」・・・「まげわっぱとかんじき」「「雑木を作るのに100年かかる」「山と海のつながり」「植林の話」「木の自殺」の章では、思わず、ふんふんと納得してしまいました。人の営みや成長とだぶること大だったからです。
興味のある方は書店で探してみて下さい。いろんな要素が地下鉱脈で繋がる感じがあります。
2004年8月14日 土曜日
久しぶりにフィールドに出かけました。休みでヒマしている娘も乗せて、きのう早朝3人で出かけました。
お盆の帰省と重なって、関越道は所沢から高坂までずっと繋がっていたので、初めから一般道で行きました。ラジオで渋滞情報を聞いていて、嵐山小川から関越に乗りました。
そして目指すは榛名山の麓にある小学校です。そこで化石指導のF嶋徹さんと待ち合わせをしていました。待っている間にその小学校で発掘した化石を見せてもらおうと訪ねましたが、校長先生の転勤で残念ながら化石が移動していました。説明が遅れましたが、榛名山の麓の小学生たちが山を歩いていて、化石を見つけたのが2~3年前のことです。当時の新聞でそれを知った福島が化石指導のF嶋徹さんに機会があったら、榛名山麓のフィールドを教えて欲しいと頼んでいたものでした。今回はその榛名山麓とK川あたりのフィールドの実踏を目的に待ち合わせをしていたのです。
道に迷って恐縮して現れたF嶋徹さんは早速、榛名山麓のフィールドへ案内してくれましたが、藪になっていて露頭にまでたどり着けません。「ここはもっと寒くなって雪前に来ましょう」ということになり、次はK川に向かいました。川の状態を見ること5箇所。露頭が出ているところ・・・。車で近づける場所・・・。川に降りられる場所。そして増水の状態・・・・。いろいろな条件を見て回って、一つのフィールドを見つけました。試しに河原の石を割ってみると、少々固めですが、「調査してみましょう」のF嶋徹さんの一言で私達も発掘道具を運び出しました。
一番最初に見つけたのはF嶋徹さんで「サメの歯のようです」の言葉にみんなが駆け寄ると、細身に黒く光るサメの歯を取り出している所でした。彼曰く「ココは海の底の方でサメの歯の他にいろいろ出るかも知れませんね・・・。」
福島はと見ると露頭の層が走っている場所にタガネを入れて、大きめの母岩を取り出そうとしています。巧くいくと相当の塊が転がってきます。サメの歯が入っていた岩があった辺りの層を探そうとしています。
このあと、娘が巻き貝ではない、マテ貝でもない、不思議な筒状の化石を発見し、F嶋さんに持ち帰ってもらうことにしました。彼曰く「何か獣化石の一種じゃないかな?分からないから調べてみます」
そして私も娘と同じ獣化石の一種と思われるものを発掘し、娘は貝の化石も見つけました。
母岩を元だしすることにやっきになっていた福島も自分の収穫が欲しいので、コンコン割り始めました。すると、石を割ったとたん「わっ、なんじゃこれ!」と叫んでいます。見ると白い鉱物のような断面が出ているのです。内に向かって水晶が結晶しているような・・・。F嶋さんは例の獣化石の断面じゃないかという判定です。
福島は家に帰ってから、その化石をずっとながめて、本をひっくり返して調べて、「どうも獣化石じゃないみたい」「キチンと鑑定してもらいたい」と言い出しました。ルーペで見ると、本当に美しい水晶結晶状の鉱物のようです。
今朝、群馬県立自然史博物館に電話して、事情を話していました。今薬局に脱脂綿を買いにいっている様子なので、箱につめて化石を送るらしいです。さて、どういう鑑定がでますやら・・・。
そう、このフィールイドは10月1日(都民の日)の化石発掘体験の活動場所に決定しました。小学生には少々固い石質ですが、石の目を読めば割れるし、本格的なモノが出そうなのと、まだ未踏のフィールドという点でこの川に決めました。
これを読んで参加したくなった方はホームセンターで大きめのタガネとハンマーを用意することをお勧めします。化石発掘は定番となっていますので、この機会にマイタガネを購入するのも得策かと思います。
たった今、娘はきのう持ち帰った母岩を縁側に持ち出し、コツコツ割る作業を始めました。ここからサメの歯でも出たら、盛り上がるだろうな・・・。
2004年8月5日 木曜日
涼しい苗場より、帰還しました。
森のプレイ・パークは5日間一人の怪我人・病人も出さずに、楽しく終了しました。今回から新しくハヤシライスというメニューが登場し、キャベツの千切り・ベーコンドレッシングとともに大好評をいただきました。牛丼と並んで大鍋がお玉1~2杯を残して完食でした。トマトベースのハヤシライスは子ども用メニューとして、これからも定番となりそうです。
今回の大番狂わせは富士ロックのため、テロ警戒中で「例の場所」が閉鎖されていたことです。「例の場所」とはクワガタやカブトの宝庫スポットです。西東京の虫好きが集まった観のある今回のメンバー構成ですが、みんな捕る気マンマンでやって来ています。持ってくる網が違うし、虫を追いかけ振る速度が違います。
夜お風呂も済んだ後、小さな虫博士たちと「例の場所」へ行ったフクセンががっかりして帰ってきました。聞くと「テロ警戒中で閉鎖」されて係りの人が見張っていたということです。網を持った小学生のテロを警戒するよりやることがあると思うのですが、朝の8時まで見張り番を置いているのです。
しかたなく、富士ロックが終わった翌々日に再挑戦しました。到着して虫捕りの諸注意をのりと君がしているところにワゴン車が4台到着したそうです。出てきたのはやはり網を持ったたくさんの小学生たち。宿の人が送迎して様子です。
宿の小学生たちがいちもくさんに走って光のある方へ行くと、ふくせんが「のりと、もう注意はそれくらいにして、捕ろうよ」と声をかけたとたん、わが構成員たちもわっと走り出しました。諸注意の内容は「暗いので走らず、落ち着いて探そう・・・」という内容だったそうです。最初に見つけたのは小学4年生のN君です。彼は今回初めての参加で、非常に虫取りのセンスのある子です。コクワガタを2匹さっと見つけたそうです。
全員難なく見つけられると思っていましたが、半数の子が計十数匹のクワガタを見つけて夜の探検は終わりました。スタッフのY君は最後に大きなミヤマのオスを見つけて、思わず大声で叫んでいたといいます。彼はその夜のスタッフミーティングの後も再挑戦してたくさん捕獲して帰ってきました。
のりと君曰く、「例の場所でこんなに少ない訳がない。閉鎖解除後に他のグループがすでに入っている」感じだそうです。彼も無類の虫好き少年出身で、自分ならこういうところを探すというノウハウを持っている大人です。その彼が先人にやられたというのならそうでしょう。本当にやっかいな富士ロックでした。風むきの関係で山荘まで音楽が届いてきます。みんな苦々しい思いでロックのサウンドを聴いていました。(でも、シマちゃんは帰りにチャッカリ給油所の従業員から、富士ロックののぼりをいただいていましたが・・・)
それからフクセンに面白いことをききました。
クワガタは満月の夜に月に向かって飛んで交尾するそうです。月のない新月の夜は人工の光に集まって来ることになります。つまり、月がない時の方が捕獲しやすいということです。そういえば、今回我が構成員が苦労した日はきっちり満月でした。こういう事情も少し影響しているのかなと思いました。
私の感想 : 「へえ~山にも海と同じリズムがあるのか・・・・月が作るリズムが。」
森のプレイパークに参加した子どもたちに感想や絵を描いてもらいました。夏中に編集してまとめたいと思います。ご希望の方は2学期に声をかけて下さい。
2004年7月21日 水曜日
きのうはすごい記録を作りました。もちろん最高気温です。都心で39,5度とは狂気のさたです。
でも、私はその記録も知らず、一日冷房の効いた事務所で仕事をしていました。もうご存じの方も多いと思いますが、友人の介護事務所の助っ人として週1で通いだしたのが昨年の暮れでした。始めは週1程度のつもりが今は週3回となって、すっかり構成員意識も高くなっています。塾はと言えば、若手2人、中堅1人、年寄り1人が切り盛りしています。もちろん中3の社会や事務一般は山下の仕事ですが、少し塾を外からながめる機会が持てるようになりました。出産で休んだ意外では初めてのことです。
今仕事をしている介護事務所の若い人も塾に興味を持ってくれて、時々イベントに参加しています。その中の1人が「私も若いうちに丹誠塾と出会えば良かった」と言います。今でも充分若いですが、まんざらお世辞で言ってるとも思えないその言葉に「私も生徒として丹誠塾に通いたかった」と返事している私です。
あり得ないことですが、丹誠塾を学生時代に作った一人としては生徒として通うことは不可能です。でも、もし実現していたら、どんなことがおこったかと想像すると面白いです。
まず、大学時代なら、「何かやりたい・・・就職いやだ・・仲間で塾をやろう」という道すじはなかったと思います。大学時代に今の丹誠塾の人脈と繋がっていたら、「何かやりたい」という言う前に「やりたいこと」をきっちり見つけている私があったように思います。「就職いやだ」みたいなかっこわるいモラトリアム的気分で塾を開くことはなかったと思います。
でも、そういう環境になかったので、1977年の春、もやもやした感じで仲間と開業し、すごい長い時間をかけて「塾を生業」とする姿勢を作ってきたこの30年でした。
今、塾のメンバーはポスティングの最中です。22才も50才も配り歩きます。今後の活路を開くためにどこまで、丹誠塾が必要とされるかポスティングで広告しているのです。この酷暑の中、厳しい仕事ではありますが、ずっと30年近くやってきた日常です。塾の生業とは姿勢を知らしめることから始まり、言行が一致してるかと周りから検証されることで終わります。(福島は配りで1.5キロ減量したと喜んでいます。)
私はといえば、この30年に身に付いてしまった「教えたがり」が顔を出しています。介護事務所でも時々、先生をやらせてもらっています。簿記の勉強を有志でやっているのです。介護も混じる忙しい合間に簿記の勉強を入れるのは厳しい毎日ですが、向上心に富む3人の若者が私の生徒です。
2004年7月12日 月曜日
山荘滞在の最短記録を作りました。約2時間半でした。
参議院選挙のきのう、期日前に早々と投票をすませた私達は早朝より苗場に向かって出発しました。目的は水道・洗い場の取り付け・テントの整備・草刈りなどのプレイ・パークの準備でした。乾物の搬入もあります。
おば・しま・のり・ふく・私の5名がシャリオに多量の荷物と共に乗り込んで、整備ツアーは始まりました。車中の話題はもっぱら、前日のjamライブ。中高生と打ち上げをして表面には出ない静かな興奮を静めあったジョナサンだったとか・・・。お客さんも盛況だったし、友人・家族・知り合いの協力的な雰囲気も話題になりました。
晴天の東京を離れると苗場は寒風・・・。本当に「もう一枚着てきた方が・・・・」と悔やまれる涼しい(寒い)風でした。
山荘内でキャンプ用の備品を確認してから、私は「一人草刈り隊」を結成して、外へ出ました。
地下部分では、ふくせんとのりと君がすでにテントの整備にかかっていました。今回は記録のためにのりと君がテント係に参戦。毎年記録をしないで当日を迎えてしまう不安感を払拭してくれるはずです。(記録ができないのはふくせん・・・)
おばとしまちゃんは水道・洗い場の復元。雪のまえに撤収した施設を再び設置し、水をつつがなく通すという仕事です。この仕事が一番の重要課題で、出来次第ひきあげるという予定です。夕方までかかる可能性ありでした。
私は階段部分の草刈りから始めました。足元が見えないくらいの草の量なので、根本からバッサリバッサリ刈っていきます。とくにクマザサは根本からやらないと、引っかかって危険です。山ウドは散髪程度に刈って、ヤマブドウも一応保全して・・・、と。階段部分が終わった辺りで私がやりだした事は山ブキの収穫です。毎年草刈りをしながら、「このフキを煮たらうまいだろうな・・・。」と思っていたので、今回は挑戦してみることにしました。一抱えの量を収穫しました。右手の指先はあくで黒ずみましたが、平気です。
おばとしまちゃんの仕事が予想に反して早く済み、テントの整備も終わり、山荘をあとにする事になりました。私の草刈りはまた、プレイ・パークの当日でも出来ることです。わずか約2時間半の滞在でした。お茶も飲まずに山荘をあとにしました。最短記録でした。
管理棟で八海山を購入して、遊神館へ向かいました。そこでゆっくり食事と汗を流して、4時には帰路に着きました。帰りの車中では投票率の低調なこと、西日本の梅雨明け、大相撲の取り直しの実況中継などがラジオから流れていました。
プレイ・パークの参加メンバーも確定し、水道施設も修復され、乾物の買い出しをすませ・・・・、と着々と7月31日に向けて準備が進んでいます。23日は最終のプレイ・リーダー会議です。
私の仕事は草木染めのTシャツの調達です。希望者が多くてうれしいです。ふくせんが、テント整備の合間に桜の枝を切ってくれました。それを今、地下部分で乾燥させているので、細かくして染めるつもりです。他に矢車(やしゃ)も拾いました。草木染め以外の染料も用意しています。
さあ、今から大量の山ふきを料理します。「穂先たけのこ」と煮てみようかと考えています。
2004年6月28日 月曜日
夕べのホタルは美しかったです。初めての人は特に感激していました。ホタル観察に先駆けて土曜日の夜に「ホタル籠を編む会」を開催しました。8名の子どもや大人が参加し、全員みごとに編み上げました。夕べのホタル観察の会に自作のホタル籠を持参した人もいて、籠の中でほんのり灯る光も美しかったです。
今日のテーマは「文房具屋さんが消える」です。
ホタル籠を編んだ土曜日の出来事です。
娘と一緒に久しぶりに新宿へ買い物に出かけました。いつもは吉祥寺ですませる買い物ですが、「文房具を買いたい」というので、「じゃ、たくさんのバリエーションのある店にいこう。」と新宿に出かけることにしました。
あまり時間的に余裕がないので、西武新宿のPePeの最上階あたりがいいと思って出かけました。たぶん7Fか8Fのはず。ところが、「ガガ~ン」。文房具屋さんの影がないのです。本屋さんは小さいながら営業していますが、最上階を締めているのはCャンドウ。Cャンドウは前からありましたが、その時は文房具屋さんもあった記憶があります。
もうがっかりして、娘に「紀伊国屋のウラのビルに行こう。ちょっと歩くけどね。」と言い、西武新宿から靖国通りを5分ほど歩いて紀伊国屋のウラに着きました。そのAビルでも「ガガ~ン」。私の慣れ親しんだ文房具屋さんがここでも消えていたのです。スポーツ関係のショップが入っていて文房具の「文」の字も見あたりません。
悪い夢をみている気分でとぼとぼとアルタ方面に行き、JR新宿駅のMY CITYに行って、そこで本屋と文房具屋の健在な姿に感激すら覚えました。「あった、あった、ここはあった・・・。」
娘はそこの文房具屋で40分ほどアレコレ商品を見て、テスト勉強用のレポート用紙やルーズリーフなどを買いました。私も携帯のアドレス帳を1つ買いました。こういうものは10年以上使うので皮の感じや装丁が大切です。手にフィットする小さないい感じなものを見つけました。(家でパソコンから住所録一覧をプリントアウトしてそのアドレス帳に手書きしていて思いました。不思議な作業だなと・・・・。最後はアナログねと。)
娘が最後に20ポケットのクリアファイルを探しているので「キャンドウでも20ポケットならあるよ」というと、「まず、それを見てから考えよう・・・。」ということになり、再びPePeの最上階へ行くことになりました。
100円均一という売り方は一種の魔法を消費者にかける売り方です。昔々、小学生の頃、テレビでみた『信吾十番勝負』という番組のシーンをいつも思い出します。敵に囲まれた主人公の信吾という武芸者が敵に翻弄され、自分の位置や存在さえ見失うシーンがあります。信吾はその戦いの中、自らの刀を打ちならして音を出し、その音から「我はココにいる」「我と敵の区別をする」というモードに戻り、敵にうち勝つ・・・、という話です。
なぜ、100円均一の売り場でこのシーンが蘇るのか・・・。それは私が妖術に負けようとしている証拠なのでしょう。「100円なら、買っておこう」という妖術です。いけない、いけない・・・。消費のための消費。必要だから買うのではなく、買いたいから買う。長引く不況の中、日本人はこの衝動を100円均一で思いっきり発散する国民になってしまったのです。100円の商品用にすべて生産工程が再編されたら、残るのは「安物しか作れない工場」なんじゃないかと心配になります。一生懸命良いものを良心的な価格で・・・という商いの良心が「100円にしたてりゃ、売れる」という妖術の前に滅んでいく感じがします。「100円なんかで作らせちゃいけないモノがある」、「だから、100円なんかで買っちゃいけないのだ・・・」と私の内部で信吾十番勝負が起こっているのです。
PPの最上階で娘は100円の20ポケットクリアファイルを見て、「私的(わたしてき)に、これはイラナイ」とひとこと。あとは他の商品をみる気もなく、電車のりばに行こうとしました。あっぱれ、あっぱれ・・・。我が娘あっぱれ~。
母はといえば、妖術に負けまいと必死こいて娘の後を追いました。
今、福島は山を歩いてこうぞ・みつまたを採取して紙をつくろうと、人やノウハウを集めています。来年実現させるのが夢です。私は森のプレイ・パークで提案した草木染めの材料に頭を悩ませています。
紙づくりや草木染めはどれも今お手軽に体験させてくれる場所がありますが、それじゃ面白くない、自分の手で一からやりたいというのが、福島のねらいです。こういう世界は「職人の世界」です。今一番成立しにくい生き方となっています。この世界は「お手軽」「便利」「コストダウン」「すぐできる」という言葉と対立した世界です。「職人の世界」や「専門店」がなくなる現象はこれからも続くと思います。こんな流れの中、いつも自らの刀を打ちならしながら生きていかなければならないのか、と暗澹たる思いで、帰宅した土曜日でした。
(ひさびさの更新ちょっと理屈ぽいです。すみません。)
2004年6月9日 水曜日ペペ
最近、夜ゆっくり水槽をながめることが多くなっています。
昨年の春に知り合いのお米屋さんよりシロメダカを7匹いただきました。初めは外のバケツに入れていたのですが、秋口に室内の水槽に入れて、水草も奮発しました。結局生き続けたのは4匹で、その後メンバーは減っていません。シロメダカは暑い日に見ると涼しげです。黒っぽい石を敷いた水槽の中で、泳ぐ様を見ていると「あ~メダカになりてぇ~」と思います。
その水槽に息子は大切にしていた「ヤマトヌマエビ」を10匹ほどいれて、宇都宮に行きました。彼曰く「シロメダカとヤマトヌマエビは共存できるから、よろしく。」です。新しい生活に水槽まで持参する覚悟がなかったようで、しかたなく私はマイ水槽にヤマトヌマエビを引き取りました。そしてメダカもエビも仲良く暮らしていました。
そんな4月の末に平和な水槽にちょっと異変が・・・。
福島は土曜日にプレイパーク「宝島」というクラスをやっており、毎週、どこかへ出かけています。先週は花小金井公園の養蜂家にお邪魔して、ハチミツをごちそうになってきました。4月の末は水辺遊びの解禁時だったのか、玉川上水で川エビを捕ってきました。塾には予備水槽の装置がなかったので、しかたなく家に持ち帰りました。福島曰く「見ると、山下水槽のエビと捕ってきた川エビが良く似ていた」らしく、「迷わずココに入れよう」と思ったそうです。そして急にマイ水槽の世帯人数がふくれあがってしまったわけです。玉川上水の川エビは約20匹はいました。それが、その後水槽の中で出産を繰り返し、チビエビ・極チビエビ・極極チビエビくらいのランクでアチコチ動き回っているのです。極極チビエビの前くらいの大きさのときが、シロメダカの親分から粛正をうけているようです。ある程度のチビエビ状態になると市民権を得るみたいです。
極極チビエビの可愛さに思わず、ラム酒をチビチビ飲みながら、夜のふけるのも忘れて見とれています。
隣の水槽は海水で、2年前に私が捕ったスズメダイが一人住まいしています。先日水槽の内側のコケを掃除しようと用具を海水にいれたら、とがった歯で攻撃してきました。獰猛な性格で他人と一緒に暮らしていけないスズメダイです。今まで、同胞2人とお別れしています。追い回して神経衰弱にしてしまうのです。2年前私は小さなスズメダイを3匹網で捕って、参加した小学生の羨望の的になりました。ハンターとしての資質はそこらの小学生には負けません。昔はメダカの体長より大きな目の網で、メダカをバンバン捕っていました。気合いで捕るのです。(当時の「磯の生物企画」や「田んぼの学校企画」ではそんな自慢話をしていました)
その後の2年間で一人住まいになってしまった獰猛性格のスズメダイは隣のエビたちの大所帯にも感心なく、悠々と海水を泳いでいます。
今度、我が家にいらした方は是非、この獰猛スズメダイとチビエビ達をご鑑賞ください。
それから、チビエビを飼ってみたい方、差し上げますからメール下さい。水槽と安いブクブクがあればOKです。
2004年5月20日 木曜日
おもしろい本を見つけました。といっても福島が持ってきたものですが・・・。
それは日本各地の土を集めたもの。
18才の時東京に来たとき、びっくりしたのが、うどん汁の黒さと土の黒さ。兵庫県のうどんはダシ汁の色。そして土もどちらかというと薄い茶色です。住み着いて30年。うどんにも土にも慣れましたが、ダメなのは貝の味です。まあ、貝の味は後日に譲り、本の話に移ります。
この本は各地で土を一握り採取し、新聞で乾かし、そのへんの石で細かくつぶして、ビンに詰めたものをあつめた本です。同種の容器に各地の土がグラデーションのように並んでいます。本当に美しい土の色です。そのバリエーションに思わず、見とれてしまいました。もうわしづかみ状態になって本を最後まで読破しました。
福島はこの30年間、世界の砂を集めてきました。自分では外国に行かないので、知人の海外旅行にチャッカリ乗っかってコレクションを増やしてきました。日本各地の砂もたくさんあります。
変わったもので鎌倉稲村ヶ崎の鉄の粉のような砂。(小さなリュックに入れても担げませんよ。比重が重くて) 新潟の笹川流れの白い砂。水槽の必需品です。粒の大きいのも小さいのもあります。
そうそう、南紀白浜の砂は外国産ですってね。それも持っています。
小名浜の鳴き砂も採りましたが、汚れが激しくて鳴きません。
このコレクションに土のコレクションが仲間入りすることになりました。どうか、みなさん、この夏どこかに出かけたら、私達に一握りの土をお土産にお願いします。出来たら、○○県○○市と明記していただけるとうれしいです。もちろん、福島には砂も・・・・。
2004年5月4日 火曜日
連休も後半になりました。
前半は家の片づけ・塾通信の編集・助成書類の作成に費やし、日曜日には2年ぶりに骨董市へ出かけました。1日の早朝には宇都宮から息子が帰ってきて、たくさん食べて3日午後に去っていきました。
約4週間ぶりの息子は日焼けしてなんとなく精悍な感じになっていました。ソフトテニスの部活に入り、広々としたコートで実に贅沢にテニスをしている様子です。たくさんコートがあるので、地域の人に開放しても楽々に部活ができるという話でした。
また、農学部なので農学実習があり、トラクターの授業があったこと、とてつもなく広い農業に延々と種を蒔く作業をやっていること、○○先生は説明が非道いこと、この4週間一度も外食をしてなくて、昼も学食が混むので自室に帰ってチャーハンを作っていること、スーパーの特売の周期を発見したこと・・・・・、などなど話はつきませんでした。
1日夕食は片づけ疲れの父を労って「とんかつ」にしました。2日夕食は隣の母が孫に敬意を表して「ブリのあら煮」「ふきとタケノコの煮物」「鰹のたたきとトロ鰹」を差し入れてくれました。全部息子の好物です。宇都宮では魚屋さんが見つからないとこぼしている息子でしたので、ばあちゃんの味に感激でした。
私は昔からよく美味しかったものの種をとっておいて、庭に埋めています。時には芽がでて楽しいです。2日に私が食べた後のグレープフルーツの種を蒔こうとしていたら、息子が「種は横に寝かせるんだよ」と指導します。
早く息子の育てた農産物を食べてみたいな、・・・と思いました。
2004年4月26日 月曜日
日・月と「早春の場所」へタイムスリップして来ました。
日は「棚田を歩く」の活動で新潟県松之山へ。そして今日はふくしまと源泉巡り「究極バージョン・・・万座」へ行って来ました。松之山は化石海水温泉、いわゆるジオプレッシャー型温泉の油臭の心地良い温泉。日本3大薬湯の1つです。万座は草津のお隣に位置し、温泉通に根強い人気のある硫黄泉の代表です。途中の草津白根山は土曜日の積雪のため、チェーン携帯が呼びかけられ、見るとまだまだ冬山でした。
まず、日曜日の報告。温泉巡りではなく、自然科学体験の活動日でした。
雨それも現地は雪が心配される予報でしたが、幸い風が強いくらいで、あっさりと松之山は晴れてくれました。新潟県松之山は私の「きのこの先生」がいる縁深い場所なので、途中の清津峡付近と並んで、「住むならココ・・・。」と密かに思っている場所です。関越で北に進むほど、春がタイムマシーンで蘇ってきます。半袖を着ていた東京から、ツツジ→八重桜→山桜→ハナミズキ→ソメイヨシノ→芽吹き前の薄緑の枝→冬枯れの山・・・・・と時間がどんどん前に戻ります。関越トンネルを越えると雪山でした。
途中、国道付近の風景は「いわゆる里山風景」でした。アートなカカシに驚きながら、清津川にそって一路松之山に向かう途中にもたくさんの美しい「棚田」を見ることができました。一番のスポットは天水越と言われていますが、途中の里山もしっとりした風情があり、なかなか美しいものでした。ちょうど、田んぼの作業が始まる頃であちこちに人の影がうかがえます。春真っ盛りの新潟をマイクロバスは軽快に走っていきました。
現地に到着すると、前日からすっかり、雨バージョン体制に入っていた私達は、連絡していた、森の学校「キョロロ」に行きました。そこでお弁当を食べる部屋を借りていたのです。この部屋は有り難かったです。雨雪こそ免れましたが残雪があちこちに残る松之山では外でお弁当を広げるのはキツイことでしたから・・・。キョロロは野鳥の鳴き声から命名したいうことで、至る所に自然と触れ、地域と交流する工夫にあふれた場所でした。本物の「棚田」を体験した子どもたちは次は水場にドンドン生まれてきた生き物を観察する作業に移りました。ヒルも混じる水生昆虫がガサガサの結果どんどん網に入ります。(ガサガサとは水草などの茂みに検討をつけて、網を差し込み獲物を捕ることを言います)
東北地方独特のシマヒキガエルもいます。アカハラのイモリを捕まえた子もいます。水辺には大きな白い球があります。説明ではクロサンショウウオの卵だということです。最初は小さかったけど育ってきたそうです。その他、マツモムシ・オオコウリムシなどもたくさん網に入りました。
途中、思いがけない事故渋滞で予定より1時間半も遅れて到着しましたが、みんな満足な顔で帰っていきました。
さて、「究極バージョン・・・万座」ですが、やっと念願かなって、本日訪れることができました。今年中にどうしても行っておきたい一番のスポットだったのです。キツイ硫黄泉が私達の希望だったのです。
家を6時半に出発。4時間かけて「万座温泉ホテル」に着きました。写真で見た、露天の極楽風呂を皮切りに内湯の6つの風呂・・・、そして気が遠くなるほど階段を下りてやっと到着する「鉄湯」で〆となりました。昼食は予め予約して置いたので、宿の夕食と同じ会席風料理が私達を待っていました。私は昼食もそこそこに湯巡りに復帰しましたが、福島は昼食のあと、専用個室でグーグー寝ていたようです。日帰り客にも部屋を提供してくれるシステムはすごいと思います。料金も内湯改装中なので2割減でした。ラッキーです。宿の方が「今度はお泊まりでどうぞ・・・。」と送り出してくれたとき、「はは~、上手いやり方だな・・・」と感心しました。温泉にも料理にも自信があるからできるこのサービスなんだなと思いました。
帰りは白根山経由で帰りました。土曜日に降った雪のためにチェーン携帯を道中呼びかけられていましたが、道路は乾いているので安心しました。
白根山は本当に高い山でした。つい最近まで人を寄せ付けなかった厳しい冬山でした。そこへたくさんの大型バスが観光客を運んで、火口付近を見せていました。なんだか不思議な感じでした。山の大きさに圧倒されながら、迫り来る睡魔と戦って「草津温泉」に着きました。草津温泉は通過点ですので、湯畑なんて目もくれずに、娘の待つ我が家へ帰ってきました。
今日で一番緑の濃かったスポットは吾妻峡でした。吾妻川はエメラルドグリーンで、周りの渓谷は新緑そのものでした。途中では「ダムに沈む温泉」と謳った川原湯温泉の看板が目を引きました。
2004年4月8日 木曜日
3月下旬からの記憶が遠くなっています。
4月2日~4日は春合宿で富士山へ、4月6日と7日は宇都宮で息子の新生活の手伝い・・・、と日頃にない長距離移動や多忙生活でした。
今年は二十数年お世話になっていた嶺雲荘ではなく、朝霧高原の野外活動センターを舞台に春合宿は行われました。センターの施設は使いやすく、遊具もふんだんにあり、ベッドルームは暖かくホコリが少なく、喘息もでませんでした。子どもたちにはいい環境だったようです。ただ、嶺雲荘のあの、宿全体で混ざり合う感覚とはほど遠く、「一長一短あるな・・・」と実感しました。
選択授業はバスケット、縄跳び、音楽jam、ペットボトルロケット、カメラ隊の5つで、子どもたちはそれぞれの活動を楽しんで3日間は過ぎました。下は5歳から上はフクセンの49歳まで、仲良く60名が寝食を共にし、快晴の富士山、雪の山梨を経験して帰ってきました。今、ビデオを編集していますが、あまりすべてのカットが面白いので3倍にして全部収録しています。明日から貸し出します。希望者は声をかけて下さい。写真もCDにして貸し出す予定です。
さて、昨日までの息子の引っ越しはひたすら、新居のものを買う仕事です。午前中は不動産や大学にいろいろ用事がありましたが、2日とも午後は夕方までひたすら、買いまくりました。
予め、中古を含め値段を調べて置いてから、ほとんどのものは宇都宮で買いました。電気屋さんで買いながら、昔のテレビ番組「がっちり買いましょう!」を思い出していました。
息子の希望はとにかくシンプルなもの。かくして昨日の夕方のは地味な1Kの部屋が出来上がりました。ダンボールやハッポウスチロールの束をシャリオに積んで、私達は10時前に帰宅しました。
今朝、息子が電話で「トイレのドアボタンを押したまま締めたら、もうトイレが使えない・・・。どうしよう。」と慌てていました。「ドア中央部の溝に10円玉を入れて、左右に回すとドアが開くよ。」と教えました。そしたら、10秒後に「開いた、開いた」と電話があり、一件落着しました。
今は宇都宮に知人が一人もいない息子です。真っ白から人間関係を作る貴重なタイミングです。せいぜい、自分と対話して欲しいと思います。
それにしても、子育て最終章は福沢諭吉さんが飛んでいくモンですね。
2004年3月19日 金曜日
セレモニーが苦手な私が、娘のたっての希望で、卒業式に出てきました。今、帰って来ました。そして話す人もいないので、ここに書いています。
3年ぶりです。3年前の息子の中学校の卒業式はこんなに寒かったかなと思いました。みっちり2時間、寒い体育館でじっと座っていました。君が代の時も着席していたのは保護者席では私ともう一人くらいでした。
当然のごとく壇上に輝く日の丸があり、ことある毎にそれに礼をするのは3年前より、巧みに誘導される感じがしました。強制というより当たり前という感じです。大きな声で「礼!」と言われて頭をたれる習慣がないので、ぽかんとしているのは保護者の方で、子どもたちは練習の成果かタイミングがそろっていました。
式全体への感想は「なんだか、3年前よりもっとウソくさい・・・・・」。というものです。
学校はそんなに楽しかったのか、先輩はそんなに優しく導いてくれたのか、人生の相談にそんなに先生が親身になってくれたのか、そんなに将来は明るいのか・・・・・・。本当か?という気持ちがわんさか湧いてしまいました。
泣きながら退場する女子を見て、もらい泣き得意な私も思わず、涙が出そうになります。(バラ珍では必ず泣いていました)が、今日はウソくささが強すぎて、涙も止まってしまいました。
本当は、我が子らの成長を学校で出会った地域の人たちともっと、楽しく祝えないのかと思います。そこは国家に対して忠誠を誓う場所にしてはいけないんじゃないかと痛感します。本来の目的である「子どもの成長を祝うこと」が中心にないので、それを隠すために「ウソくさい演出」が必要になるのでしょうか。それとも、日本人はセレモニーに関して先例に縛られたり、タプーを作ることはあっても、みんなで新しく演出する事の出来ない国民性を持っているのでしょうか?
今、娘が帰ってきました。
開口一番、「なぜ、みんなあんなに泣けるんだろう?教頭先生カミ過ぎ!」でした。
思い出します。あ~あ、9年前の保育園の卒園式は泣けたな・・・。2歳から6歳の成長を共有してくれた保育士さんや職員さんに心から感謝して泣けてしまいました。
2004年3月10日 水曜日
やっと、受験生の母、終了しました。
息子は春より大学生として一人暮らしが始まり、娘は携帯電話を持つ高校生になります。物いりなこの時期にもう一つの物いり話です。
我が家の勝手口の土が2年ほど前から陥没を始めました。一度土を入れて、解決を見たと思って放置していたら、先日また、がぼっと陥没しました。「これじゃ、家が傾く~」と子どもや隣家の母が騒ぐので、区役所に相談しました。早速、下水道のチームがやって来てくれて、いろいろ調べてくれました。
結論は下水道管の不具合のための宅地内陥没という状況だそうで、業者さんを紹介されました。どうも、勝手口に生えている竹の根が地下で下水管をどうにかしたのだということでした。下水管というのは地下に埋まっているので当然、掘り返して工事します。「こりゃ、だいぶかかるかな・・・」と覚悟して工事を頼みました。
業者さんはやって来て、下水管を掘り返してみて、「こりゃ珍しい、土管だね・・・。」といいながら、工事の日程を約束して帰っていきました。
そしてこの火曜日に工事の日はやってきました。その業者さんはちょうど息子が春から生活する宇都宮の近隣市「鹿沼」の出身の方で、気さくに世間話を福島としてから、一人でせっせと工事を進めました。午前中にお茶を出して、私は家で書類仕事をしていました。
午後になって、工事がほぼ終わったあたりに呼ばれて、塩ビ管を覗きました。下水がマスに集まって、道路の大きな管に入っていく様子がよく分かります。おじさんはその水の音に聞き入っています。
「あ~、イイ音だね~。」
まるで、水琴くつにでも聞き入っているような風情です。
下水の工事をする人にとって、地下を流れる下水管をつつがなく埋め終わった時はこんな風にして音を楽しむんだなと感心しました。職人さんの世界にも通じるのかなと一人で思っていました。
工事費は計35,000円に消費税で、この時期目にしみる出費でした。
でも、一人で満足そうに音に聞き入るおじさんの姿は良いものでした。
2004年2月24日 火曜日
ぎっくり腰になりました。先週の木曜日2月20日のことです。
部位は腰と肩胛骨の間の、左の背中です。
いろいろ思い当たるのですが、原因は運動不足と書類仕事でしょう。
出先でギックリやったので、電話で福島に「やっちまったよ」と告げると、彼は「迎えにいくよ。今から百観音に行こう。」と即座にいいます。その日はおとなしく家で体操をして過ごして、翌日と3日後にその百観音に行きました。
百観音とは鷲宮にある化石海水温泉で、毎分2,250リットルものお湯が自噴している源泉です。
平日でも実に混んでる温泉で、身体の不調を覚える人がたくさん来ています。以前に一度娘と3人で訪れていたのです。その時「何か不調があったら、ココで治療しよう」と考えていました。
場所は東北自動車道「久喜」ICから5分程度の3号線沿いです。近くにくると「自噴、自噴」と看板があります。人の森のK君がこの辺りに住んでいますが、あまりの看板の激しさに敬遠していたといいます。
さて、ギックリ腰のその後ですが、温泉治療の甲斐あって日常生活にほとんど支障はなくなりました。でも、再発の予感がいつもあるので、そろそろ動いています。(参考までに、温泉治療の後は絶対身体の冷えない環境に置くことが大切だそうです。温泉でゆるんだあと普通の生活をすると急激に冷えることになり、逆効果になると指摘する方がいます。)
今日は都立一般入試。明日は国立大学の二次試験です。
この一年、受験生の母として「ご飯づくり」役に徹してきました。こういうストレスもギックリ腰発作に繋がっていないでしょうかね。
2004年2月10日 火曜日
源泉めぐりは続いています。あまり回りの人に言うと「この時期にノンキな・・・」とあきれられそうなので、静かにめぐっています。
最近は那須塩原に通っています。「湯めぐり手形」を購入して、源泉を1つ1つ訪ねています。先日は目指すお湯にたどり着くまでに路面の凍結という厳しい現実と直面し、ノーマルタイヤのシャリオは涙をのんで撤退しました。道路状態の良いお湯に切り替えて、たどり着いた硫化水素系の硫黄泉はお湯が強烈で、満足!満足!で帰路につきました。
80度近い源泉は湯船に溜まると白濁して強烈な臭いを発しています。大きな窓で喚起しながら、白濁の湯を心ゆくまで楽しみました。那須塩原は硫黄泉の他にたくさんのタイプの源泉を持つ、古い温泉地です。日光・会津などへのアクセスもよく、月曜日でもたくさんの人が訪れ、根強い人気を持つ温泉地だと分かります。
タオルや下着などにかすかに残る硫黄臭を元気の元として一週間生活して、また次の月曜日に塩原に気持ちが向かっているのです。
今のイチオシは新湯(あらゆ)温泉の「湯荘白樺」です。この辺りは標高950位の高さにありますが、徐々に登っているのでわかりません。そしてこの湯の裏に噴火の爆裂火口跡があり、今も白い噴煙をあげています。景色からも「温泉~!」を楽しめます。
経費節減でお昼はお弁当にし、片道は一般道と決めて、湯めぐりを続けています。運転は福島で私はナビ役です。穏やかな晴天のなか、昨日は日光の山々がきれいに見渡せました。那須塩原が一回りしたら、次は日光・鬼怒川と決めています。
2004年1月28日 水曜日
駆け込みで新規募集要項の更新をしました。
04年度からは丹誠塾のクラスが構成を変えて、登場します。
Ⅰメソッドクラス・・・・・・今までの小中高クラスにあたります。丹誠塾の根幹をなす、授業を売りとするとクラスです。DIGもこれに属します。
Ⅱ土曜クラス・・・・・・土曜に設定されているというだけで、各クラスの内容はいろいろです。漢字・計算演習のベイシックと遊び中心のプレイ・パーク、音楽のjamとバエラエティーに富んでいます。
Ⅲパーソナルクラス・・・・旧「土曜クリニック」の完全マンスーマンクラスです。その子の理解に合わせて、ペースも一人一人違います。土曜だけでなく、平日にも設定し、リニューアルしました。曜日と担当の希望を出して、申し込みます。
新規書類の作成進行が、やっとホームページまでたどり着きました。
今年の目標、もう少しまめにホームページを更新したいと思います。
明日は都立の推薦入試です。そして宣伝ポスティング作業もスタートです。今年のカードは非常にアートしています。お知り合いに手渡しして下されば、幸いです。いつでもお手許にお届けします。
2004年1月1日 木曜日
あけましておめでとうございます。
今年もヨロシクお願いします。元旦からパソコンを開くと今年一年こんな年になると思いつつ、更新しています。
今年の年賀状には同級生から「50になります」というセリフが踊っています。福島は今年で50、私は2月生まれなのでまだまだ(?)・・・・です。
元旦は読書三昧でした。その本の中に1930年代が出てきます。私の亡くなった父が1930年生まれなので中高時代、1930年代の出来事を「お父ちゃんが2歳の時、お父ちゃんが3歳の時・・・」と覚えていました。くせになってしまったので、今日も本を読みながら、1933年・・・・お父ちゃんが3歳の時だなと考えていました。そしてフッと浮かんだ事があります。
父は1930年から1986年まで生きました。でも同い年の親戚の叔父さんは今も健在です。「この差は大きいな」ということです。人生の長さは同級生の中でも人それぞれだということに気がついたのです。
今はまだ50を前に同じように年を重ねる実感を年賀状で共有できる段階ですが、それぞれの寿命は共有できないと感じました。
それが・・・何か?と言われそうですが、「人生の長さは人それぞれ・・・」という話でした。2004年まで生きていて、21世紀を父に見せたかったし、孫がこんなに大きくなった姿も見せたかったなと思いました。