2003年12月9日 火曜日
久しぶりに風邪をひいたようでした。
初めはパソコン仕事の眼性疲労かなと思っていました。背中と腕の筋肉が固まって、関節が痛むのです。自分でもみほぐしたり、娘と息子に背中をマッサージしてもらったりしましたが、気分の悪さは増す一方です。食欲もなく、倦怠感が強くなり、食事後の洗いものがつらくなり、パソコンが開けれなくなり、とうとう何もできなくなっていました。のども痛くないし、咳もでないし・・・・、何だろうと思いながら、ベットに入るとなんと、金曜日の夜から土曜日の朝までコンコンと寝続けました。土曜日もグダグダ過ごしてしまい、とうとう、日曜日の楽しみにしていたオノ・ヨーコ展も欠席となってしまいました。残念でした。日曜日も13時間以上寝続けてやっと、日常生活に戻ってきました。
いろいろ考えますが、やっぱり風邪だったようで、12月始め提出の助成書類づくりの疲れがこういう形で出たのかと思います。「とにかく休め」と緊急指令だったのかもしれません。
この風邪の最終章は昨日の「古代蓮物語」でした。これは行田にある天然温泉です。昨今どこも天然温泉を謳っていますが、ここは本当にかけ流しの源泉が楽しめる温泉でした。ここで岩盤浴という浴衣を着て、暖かい薬石の上に30分寝転がってリラックスするというものを体験しました。思ったほど熱くなく、のぼせることもなく、スッキリした感じで終わりました。平日とくとくプランで入浴+岩盤浴+食事=1000円とは本当にお得です。
帰路に着く頃、私のがちがちの背中はこの岩盤浴で羽が生えたように軽くなっていました。効果はすぐ分かりませんでしたが、後でじっくり聞いてくる岩盤浴効果は素晴らしかったです。
山森も雪を迎え、これからのコラムは各所の源泉お風呂を紹介しようかと思います。
その第一弾埼玉県行田の「古代蓮物語」はイチオシの温泉です。ここをご覧の方は「古代蓮物語」で検索して下さい。公式ホームページもあり、苦情をBBSへ書き込めば即支配人の返事が返ってくるシステムもあります。この温泉の良いところは正直に表示があるところです。スーパー銭湯ばりのジェットバスの浴槽には「加熱循環」と表示してあります。露天は加熱してかけ流してあります。源泉はそれほど臭いもないので油臭の苦手な人は良いかも知れません。短所をあげれば、平日でも混んでいる事かな。オープン一年ということですが、館内案内のパンフが品キレしてコピーで賄うほどの盛況ぶりでした。もう少し、ゆったりした空間があれば、最高でした。
温泉の効果は出たすぐ後より、翌日の目覚めに一番現れます。翌日の朝までホコホコ身体の芯が暖かいのが温泉効果です。その効果をほのかに感じながら一日をスタートするのは気持ちの良いものです。岩盤浴のおかげで今週も良いスタートがきれそうです。
2003年11月30日 日曜日
【草木ダムの流木無料配布】
11月は塾の面談月間でした。夜の面談を終えてかえってきた福島が「今日と明日でダムの流木を無料配布しているけど、明日行って、帰って来て即、塾で授業やるの無理かな?」といいます。。配布場所は群馬県の奥の草木ダム。足尾銅山へ続く「銅山街道」にそって広がる草木湖です。
その時なんだか異常に元気だった私は「行こうよ」と言って、明日のお弁当と洗濯の準備を始めました。
朝6時に起き、3人分のお弁当を作り、洗濯をして、7時に福島が起きてきました。2人で7時30分に家を出て、10時過ぎには草木ダムに到着していました。
配布会場はどこからこんなに人が集まったのかと思うほど、人・人・人・・・・。そして車・車・車・・・・・。途中の銅山街道は閑散としたモノです。でも草木ダムのこの場所だけすごい熱気でした。
入り口のゲート付近で「ここなら駐車してもいいよ。配布会場に直接乗り入れるなら、順番を待ってください」という係りの人の言葉に「はい、ここでいいです。後は手で運びます。」と答えました。
配布会場は流木の山があちこちに積まれていて、人が山にのって検分しています。大きな流木をチェーンソーで切ってもらっている人もいます。クレーンで運ぶ人もいます。配布会場へ直接、乗り入れた人たちは○○造園などと書かれたトラックに乗ってきた業者さんのようです。その他に山野草を寄せ植えする鉢を探す人も多かったです。流木アートを念頭に探す人もいます。そんな中で異様に目立ったのは私と福島の格好です。特に私は純毛のチェックのジャケットを来ていました。決して作業着ではありません。どうも、その格好はずいぶん浮いていたようです。だれも、塾の先生が授業前にここに来ているとは想像しませんよね。
福島はこの流木で「木・根・」の授業を考えていると話していました。流木を見るといろんなイメージが湧いてきます。(今はウチの自転車置き場で雨に当たっています。息子が「酸性雨にあてていいのか?」と心配します。)
約一時間、私が流木を吟味して袋にいれ、福島が20㎏から30㎏の袋をどんどん、車に運び入れる作業が続きました。合計8袋でとうとう、体力が付きました。福島は腕が限界で、帰りの車で紙コップのコーヒーも上手くつかめませんでした。
【おばあさんのイノシシの話】
「このままでは危険!」と、疲れた体を水沼温泉センターで休ませました。ここの内湯でご一緒のおばあさんの話に衝撃を受けました。おばあさんは私を土地の人だと思って話しかけられました。(非常にローカルな場だし、平日だったので)
おばあさんの話はイノシシの話でした。最近この付近で小学生がイノシシに襲われ、内臓が食べられてしまったというのです。「エッ、そんなら、命は?」と聞くと、当然なくなったと言います。
山で一人になってしまった子どもをイノシシが襲って、雑食の空腹のイノシシは子どもの柔らかい内臓を食べてしまったという話で、その話は初耳で「本当に今年の話?」と念をおして尋ねてしまいました。だって新聞にも出た無かったように思えるのです。
おばあさんは話を続けて、「最近はへびもいない。みんなイノシシが食ってしまう。石垣に寝ているヘビを石を壊して食ってしまう。本当にイノシシには困ったことだわ・・・。」
おばあさんの話にたまげて、早々に内湯を立ち去って帰路に着いた私達でした。
塾には3時に到着しました。福島は4時から面談。私は月末事務が待っていました。
綱渡りのような一日でしたが、熱気にあふれる配布会場・おばあさんのイノシシ話に強烈な印象を受けながら、忙しい11月28日は終わりました。
【琥珀イベントも無事終わりました】
これは「虫入り琥珀とパインクラフト」の活動が終わった30日に書いています。
今日のイベントも雨でスタートしたにも関わらず、雨上がりの素晴らしい展望が私達を待っていました。新宿のビルまでうっすら浮かび上がる超幻想的な遠景でした。参加者がチビちゃん達が多かったにも関わらず、整然と運営できたと自負しています。スタッフの技量が上がってきたせいかと思います。
今日はもう1つ仕事が御岳山でありました。来年の春合宿の宿泊を富士山と決めて案を練っています。そのため、春には御岳山に来ないことになり、いつも合宿でお世話になっている嶺雲荘さんへその報告と挨拶にお邪魔してきました。急な訪問の上、残念な内容の報告にも関わらず、丁重に対応していただいて恐縮でした。若奥さんの残念そうな顔が申し訳なかったです。「また、戻って来たらよろしく。」といって帰ってきました。
2003年11月15日 土曜日
高校時代、中間期末考査が近づくとやたら、推理小説が読みたくなり、あとに回せばいいのにまず読み終わってから試験準備をしていることがありました。
こんなに年を重ねてもその傾向は残っていて、助成書類や会計書類のタイムリミットがドンドンやってきて、足元に火がついてきている中で、10月は連日たくさんの推理モノを読んでいました。ブックオッフで2~3年遅れて推理モノの話題作を読んで、一人「おもしろ~い!」と感動していました。次々と読んで内容を味わう間もなく、次の世界に入っていました。宮部みゆき・原僚・深谷忠記・桐野夏生・乃南アサ・内田康夫・藤原伊織・熊谷達也・高村薫・逢坂剛・・・・ など、みんな100円コーナーです。今は桐野夏生・高村薫に脱帽状態です。(でも、松本清張の次は宮部みゆきと思っていますが・・・。)
そして、次はいよいよパソコンに向かうと思うきや、ミシンに手が向かってしまいました。家にある余り布を使ってポットカバーを作製する手が止まらなくなりました。で、合計7作品を作って、やっとミシンから解放されました。1つ1つ創作するたびに改良が進み、面白くてたまらくなってしまったのです。
冬にお茶を飲むと我が家では必ず、ポットカバーを使っています。ちょっとしたキルティングですごい保温力があるのです。だから、前回のきのこツアーの時、山荘でお茶を入れたとき、あまりの冷え方に閉口したのです。まず山荘用にポットカバーを作ったのが、始まりでした。いろいろ作って、最後は日頃からお世話になっているご家庭に差し上げて、THE・EDNとなりました。もらった人は迷惑かもしれませんが、こうしないと終結しなかった私の創作願望でした。
・・・・そうこうして、もうじたばたできない所まで来たので、会計ソフトや助成書類の世界にもどってきたのでした。助成書類は04年度の申請です。この一年で福島と下見を重ねたフィールドを書類に仕立てて、役所に提出する作業です。イチオシはビーチコウミング・ウミホタル・砂金とりでしょう。これから1ヶ月、ぎっくり腰を気にしつつ、パソコン作業に精を出すことにします。
このコラムもう2年近くなりますね。季節が2回巡ったわけです。更新回数は減りましたが、もう習慣になっています。8年連用の日記の夕食記録も続いています。一度やりだしたら、やめられない性分のようです。
2003年10月30日 木曜日
生まれて初めて旅行積み立てをして温泉に行ってきました。
言いだしたのは卒業生の3人で、それに私と福島が乗った温泉積み立てでした。一年をかけて3万円を積み立て、この10月にやっと、実施にこぎ着けました。本当は去年に行く筈だったのですが、メンバーの親族の健康上の理由などで繰り延べ、繰り延べできた結果です。
選んだ温泉は新潟の松之山温泉。
草津温泉・有馬温泉と並んで日本三大薬湯の1つと言われ、薬となる温泉ということです。
宿は「凌雲閣」という木造三階建ての古い宿でした。この宿には私達のきのこの先生が料理長をなさっていて、このシーズンはその先生が山で収穫した野生キノコがふんだんに食卓に登場するのでした。
思った以上に料理は質も量もすごくて、満足と満腹でその夜は終わりました。
この休日で温泉の力について感じることがありました。
松之山温泉は1000万年以上前の海水が地中に閉じこめれ、高圧・高熱で薬効深い温泉になったものです。地球の中から押されて吹き出す温泉という意味でジオプレッシャー型温泉というそうです。その化石海水温泉の中でも松之山温泉はホウ酸含有量が非常に高く、独特の石油のような臭いがあります。これが苦手な人にはつらい臭いですが、私と福島はこの種の温泉が大好きなのです。最近は内海フォレストパークの帰りに寄った「白砂の湯」もこの種のもので非常に気に入って帰ってきました。他には渋川のスカイテルメ・柏の湯の華もこのての臭いでした。詳しい泉質は分かりませんが、私達は臭いと色でよく温泉を見分けています。
夜11時ごろ温泉に浸かりに行くと先客として女将さんが入浴されていました。「いい温泉ですね。お湯が良ければ、豪華な施設は必要ありませんね。」と私がいうと、「そうですね。そうおっしゃってくださるとうれしいです。限りある資源だから、いつの日か枯れてしまうんじゃないかと心配してますよ。大切に使わないとダメですね・・・。」とおっしゃいました。お湯の前に非常に謙虚な姿が印象に残っています。
あとで福島の蔵書からたくさん、温泉の本を借りて読んでみました。有名な温泉博士の新書や雑誌が面白く、思わずひざをたたくようなシーンがありました。
女将さんと話した内容が非常に興味深く残って、凌雲閣の泉質・湯量などを調べてみました。思った通り、湧出量は少なく、大浴場はお湯の入れ口が2個あり、1つは源泉でもう1つは循環でした。小さい家族風呂のみかけ流しでした。だから、大浴場の湯船を大きくしたり、露天風呂をつくったりすると、湯量が必要になるので、循環風呂の交換日数にも支障を来すということです。凌雲閣は2日~3日に一度必ず、湯を抜いて清掃しているそうです。福島の話だと、出発の朝、専門の清掃業者が大浴場にやってきていたそうです。ほとんどの町営温泉は循環風呂で多くても1週間に一度の交換のようです。天然温泉と謳っても、非道い場合は1ヶ月同じお湯を循環させている場合もあるそうです。東京の奥の温泉に行ったとき、プールにいるような気分になったことがあります。塩素の臭いが堪らず、早々に引き上げた経験があります。循環→塩素殺菌ということになるのなら、あんなに大きな露天風呂や数々の風呂をつくらずに小さな湯船を大切に使えばいいのにと思います。凌雲閣は泉質・温度は申し分なくても、湯量に限界があるので、湯を大切にする姿勢が貫かれているわけでしょう。
このコラムがスタートしたころ、四万温泉のことを書きました。温泉体験のビギナーの時代とはいえ、大きな露天風呂・数々のお湯のバリエイション・かけ流し・湯量豊富を礼賛したことが恥ずかしいです。
今の心境は「限りある資源」を慈しみながら、地中からの贈り物を感謝を持って入らせていただく・・・・・と、謙虚な温泉人でありたいと思っています。
本当に松之山のお湯は指先から脳まで浸り込んでくる・・・、そして「ほこほこした感じ」がずっと持続する温泉でした。同行した若者は各自の人脈できっとリピーターになるでしょうし、私達も近い将来、再び松之山を訪れるはずです。いいお湯は確実にリピーターを増やすと信じています。
2003年10月15日 水曜日
今年のきのこはサッパリです。
この連休は山荘の整備も兼ねて「きのこツアー」を実施しました。講師に三村さんをお願いして、和田小屋付近の紅葉も楽しんできました。でも、残念なことに収穫の方はサッパリだめで、天然きのこオンリーのナベは不可能でした。栽培モノのマイタケなどでかさを増やして、なんとかしのぎました。
三村さん曰く、「今年の8月に秋を感じて動き出した菌が、9月の暑さにやられたんだろう・・・。」ということです。長野はまだ収穫できたらしく、群馬・新潟はひどいねと言っていました。本当になんにも無いのです。毒キノコすら出てないのです。
こうなると、もう腹をくくって、きのこ以外で楽しもうとウルシやモミジなどの赤い色を楽しむことにしました。糸魚川からおみやげに秋鮭をいただいたので、三村さんの指導のもと、まな板を2つ繋いで、鮭をさばきました。それは夜になって「マリネ」になって食卓に登場しました。結果、きのこ鍋、きのこの春巻き、手作り豆腐、いくらの醤油漬けに並んで鮭のマリネはテーブルに彩りを添えました。豪華な夕食になりました。
最終日は渋滞を避けて、早く山荘を出たので、豪雨の去った明るい東京に帰ってくることになりました。
2003年9月16日 火曜日
やっと涼しくなりました。
この夏は暑さが後半に偏り、2学期開始の熱帯夜には困りものでした。
しばらく、ご無沙汰でしたので、まとめて夏の報告をします。こまめに覗いてくださった方には失礼しました。
その1:「東北旅行」
息子の東北地方の大学見学にかこつけて、栃木→福島→山形→宮城→岩手→秋田→新潟を回りました。総勢1540㎞を走破。でも、5人家族で費用は17万ちょっとだったのは、最終宿泊地が山荘だったせいかと思います。
1泊目は山形蔵王のペンション「ぼくのうち」。学生時代から10年通い続けた蔵王スキー場も出産を機に縁遠くなってしまいました。一度夏の蔵王に出かけてみたいと思っていましたので、最初の宿泊地を雪の積もってない蔵王温泉と決めました。
緑の中央ロープーウエイ駅は20代のころの印象とは違い、何だか小さい駅でした。10年お世話になった「喜らく」はペンションからホテルに変身していました。ペンションで調べるとリストになかったので、なくなったと思っていたので、とても嬉しかったです。思い出の場所が今も元気で健在というのは嬉しいな、とじみじみ思いました。泊まったペンション「ぼくのうち」は昔は若者であふれるカフェラウンジのようなスポットで、なかなか店内には入れない超売れ筋の店でした。それが、20年後には半分コンビニ、残りはペンションとなって続いていました。こちらは華々しい時代を知っている分、ちょっと複雑でした。
ここで特筆すべきは河原にある「大露天風呂」でした。奥の女湯は河原を流れる水(?)が熱~いのです。熱湯に近いのです。そこから竹の管で上部の露天に注ぎ入れ、大多数のお湯はそのまま流れていきます。その流れをせき止めて四角い熱湯のたまりもありますが、入ることは不可能です。足をつけるのも厳しいです。でも、中にはそのたまりにも平気で浸かる人もいましたが・・・。
上部のお湯から次々と温度が下がって下部のお湯は「ぬるめ」になるます。すべて露天で、硫黄の臭いの中で饅頭のように蒸される感覚です。母と一緒に入りましたが、温泉好きの彼女曰く「ごっつい露天風呂やな、こんなん初めて・・・」。私達はふかふかの肉まんとなって、宿に帰りました。
2日目は七夕準備の山形や仙台を回って、盛岡へ行きました。小岩井牧場で蕎麦を食べ、秋田乳頭温泉入り口の「田沢湖国民休暇村」に到着。さっそく、娘と息子はコートを借りてテニスをし始めました。私と母と福島はもちろん施設内の温泉です。ここは国民休暇村ですが、すばらしい温泉があります。源泉が2種あり、どちらも気に入っています。透明の湯と緑白色の湯です。乳頭温泉は昨年の経験から、四万・白骨に並ぶ私達イチオシのお湯になっています。昨年は鶴の湯・黒湯・妙の湯などいろいろなお湯を巡り、最後に国民休暇村に来ました。公共施設のお湯なんて・・・と思って入りましたが、ココも他に負けず「いいお湯」だったので、驚きました。その時娘が「来年はココに泊まろうよ」と言っていたので、今年は試しに春に予約の電話をいれたのです。
この温泉で若い娘は温泉好きになりました。ことの顛末はこうです。兄とさんざんテニスをした娘は汗が冷えてどうも体調を崩した様子で夕食時に元気がありません。川魚や彼女の好きな生サーモンも手が出ません。トイレに行く回数も多く、どうも本格的にダウンの様子でした。最後にデザートのケーキを食べたくらいで、かわいそうな事でした。食事が終わって、「温泉で暖まってきたら・・」というと、素直にそうすると出ていきました。そして帰ってきた娘は興奮しています。「すごい、すごい、温泉はすごい。ねえ、身体に温泉の力がフワッて、入ってきて、もう、じーんとして、身体が元気になるんだよね。わかる?すごいよ。温泉は・・・。」・・・・『わかるかって、分かってるからいつも温泉いってるんじゃないか・・・。お母さん達は・・・』と内心つぶやいている私でしたが、娘の回復ぶりに驚いてただ、聞いていました。「お母さん、温泉は身体を治す力があるよ。すごいよ。初めて知ったよ。もっと、早く治って夕食ばりばり食べたかった・・。」と言っていました。
3日目には秋田大学に行き、併設の鉱物博物館を見学しました。研究者のつくった博物館って言う感じで面白かったのですが、富士山の「奇石博物館」を知っている娘・息子たちは「あっちのほうが面白い」と一言で片づけられていました。
その後はひたすら、日本海の海岸線を新潟に向かって旅をしました。もちろん、途中の笹川流れでは「きれいな砂」を採取しました。また、タコを干している家で干した物を分けてもらったり、ひまわりの迷路のある道の駅で休んだり・・・、道々楽しんで新潟の山荘に夜つきました。
その後2日間は山荘でプレイパークの片づけをしたり、テニスをしたりして過ごしました。
もう、家族で旅行する機会はないだろうという見込みで、計画した東北旅行でした。息子に残った物は携帯に記録した各大学の農学部校舎とテニスコートの画像です。娘に残った物は「温泉は身体に効く」という実感でした。
その2「館山のビーチ・コウミング」
海岸を歩いて波打ち際に打ち上げられた物をひろって楽しむことをビーチ・コウミング」といいます。コウムは櫛のことのようです。それに一番適しているのが千葉の館山だと聞いて、いつか出かけてみたいと思っていました。
東北旅行を終えて、娘は大の温泉好きになって、出かける機会をねらっています。そしてなりより、福島が国民休暇村のファンになっていました。専門の雑誌を買って、調べていると「国民休暇村が館山にある」ということを知りました。試しに電話して予約状況を聞くと、満室という答えでした。ところが、ちょうどそのころは8月なのに超低温でした。台風が去った後の関東地方はブルッとふるえたくるほど温度が下がって、海水浴っていう感じではありません。可能性はあるのでは・・・と福島は電話を2度・3度とかけてみました。そうしたら、運良くひと部屋キャンセルがあり、娘を誘って出かけることになりました。
館山は黒潮が先を流れ、江戸時代は航路がありました。また、水が非常にきれいな場所です。館山国民休暇村に泊まって初めて分かりましたが、その宿にはプラネタリウムがが併設されているのです。天体観察にも適しているのです。なんと、泊まったその日はそのプラネタリウムで「海ホタルの発行実験」がありました。たくさんの子どもたちや親が参加して大盛況でした。私達ももちろん、参加しました。
海ホタルは神秘でした。採集した海ホタルを大きめのワイングラスに入れ、ステージに置きます。電気を消して電極を入れ、軽くショックを与えます。すると、今まで真っ暗だったステージがワイングラスの形に発光してきます。電気で危険を察知した海ホタルから光る物質が放出された瞬間でした。光るブルーの力はだんだん弱くなってまた、暗闇に戻りますが、体験した人はみんな海ホタルの美しさに未了させていました。
偶然、発光実験をしきって下さった方がびーち・コウミングの第一人者でもあるA氏で、福島は発光実験のあと、少しビーチ・コウミングの話を伺うことができました。本当にラッキーな宿泊場所でした。
翌日は申し込んでおいた観光協会の主催で館山の浜辺を歩き、採集・考察するビーチ・コウミングに参加しました。陶器のカケラもおおく、大多数は近年の作ですが、前夜のA氏のように古伊万里のやきものも拾う可能性もあるので、やきもの好きの私は懸命に探しました。なぜ館山に古伊万里が流れ着くのかと尋ねると、江戸時代、沖で難破した船から古伊万里などのお宝が波に漂って打ち上げられるからだという答でした。
また、同じ講習会の参加者は「いるかの耳骨」を懸命に探している人が多かったです。幸せになれるそうです。でも、数が非常に少なくて、なかなか見つからないものだそうです。館山の沖にはイルカもたくさんいたことがわかります。黒潮のダイナミックな動きは地球規模で想像しないとわからないものでした。
その3「金山博物館」
9月に入ってからですが、これも前々から計画していた「砂金採り」を実現させるために、山梨県の「湯の奥金山博物館」に行って来ました。砂金採りは多摩川・秋川でもできるそうですが、まず金山の歴史から・・・ということで博物館へ出かけました。ココには体験コーナーもあるそうなので。
行って驚いたのは金山博物館の建物・視聴覚室のしゃれたこと。金山のビデオを見ながら、「私の次の目標は塾でコレくらいの小ホールを持つこと」と決めていました。ビデオで分かったことは湯の奥金山を運営していたグループは金の鉱石から純粋に近い金を取り出す技術を持っていたこと。その技術は大変な重労働と巧みな技術で成り立っており、当時為政者に熱く保護されていたこと。当時の日本の金は世界でも貴重で、戦国大名は鉄砲を手に入れる手段として金を使い、外国に日本の金が流出したこと・・・・。などなど、思わず金の歴史、戦国時代の歴史の世界に引っ張り込まれてしましました。「だから、ジパングか・・・・。」とひとり納得したりしていました。
最後に砂金採り体験ルームにも行って、砂金を採りました。遠心力で比重の重いものを沈ませて、最後砂鉄と砂金のみにして、砂金を取り出す方法は2度3度繰り返して、修得することができました。これも非常に面白い体験です。私は22個採って、番付に載せてもらえることになりました。残念ながら、福島は10個も取れないで、一般参加者となりました。帰りに砂金採りグッズを購入し、多摩川で実際に採ってみようと話しました。
その後、9月14日に多摩川「沢井付近」を目指して吉野街道を走っていましたが、あまりの渋滞に断念し、五日市に抜け、「秋川」に場所を変えて、砂金採りをしました。福島と私、おかしなひらべったい洗面器様の道具を水に付けながら、何やら探す様子は、さすがにバーベキューの人々の目を引かないわけがなく、あちこちから「何とってんの?」と声がかかります。私は少し、間をおいて、声を潜めて「金」というと、対外の人は喜んで、「ええーっ」と言います。そのリアクションが面白くて面白くて、どんどん芝居かがっていく私でした。「キャー、こんな所でも金が取れるの?」「わあ~すごい~」・・・・。砂金採りは周りのリアクションも最高の企画となりそうです。
参考までに秋川での収穫は「微妙な粒」が5粒ほどでした。体験コーナーってわけには行かなかったです。また、平日の空いた日に多摩川にも挑戦してみるつもりです。
以上がこの夏報告です。
2003年8月11日 月曜日
ひさびさの更新です。今はどこもお盆休みの真っ最中でしょう。私は冷房のない塾で会計や事務仕事に精を出しています。
夏休みの毎日のことですが、受験生2人をかかえた母親としては昼ご飯が憂うつです。食べることが一番楽しみの受験生は、お昼も一応のものを要求するのです。朝は7時に起きると決めた我が家の2人は『昼を抜く』という発想がありません。だから、ざるうどんでも、冷やし中華でもなんでもいいから、メニューを聞きたがります。明日は山梨でかってきた『ほうとう』を作って、汗をダラダラかかせてやろうかと思っています。
ちょっとした、夏休みの途中報告でした。
あ~、これがあと3週間続くのか・・・。他人の子どもを預かって勉強させている方がなんぼか楽・・・。
2003年7月1日 火曜日
29日の夕方、ホタルを待つ夕暮れという企画が終了しました。昨年と違い、ヘイケボタル・ゲンジボタルの両方が群れ飛ぶのを見ることができました。
活動場所となった「横沢入」はJR東日本が所有管理している場所です。東京都では珍しく、貴重な自然が残る場所で、夕暮れからたくさんの人が集まりホタルを楽しむスポットとなっています。武蔵増戸の駅から歩く途中でも地元の方に「どこいくの?ホタル?」と声をかけていただきました。気の早い参加者が虫取り網を持っているのを見て、「ホタルは取らないで見るだけだよ。」と庭先から注意される方もいました。このあたりの人たちが一体になってホタルの環境を守っているんだなと実感するひとこまでした。
徒歩約20分で目的の谷戸田に到着しました。ホタルが飛ぶにはまだ、早いので湿地の生物の観察や林の虫たちの観察をしながら、時間を待ちました。防空壕らしい穴もありました。先に山の方に歩いていたので、沢の上部から降りてホタルのフィールドに近づくことになりました。初めは沢の上部を探していたのですが光るものは見あたりません。参加者のMちゃんが「あそこ光ってる、青いの、木と木の間・・・。」という声に何人かが反応し、「ああ~、光ってる光ってる・・・。」もう、見たい見たいという気持ちが光るものを生み出しているのでしょうか?私には全然見えません。生物指導の上村氏も「見えないな、木と木の間の空じゃないの・・・」と懐疑です。
そのやりとりも沢を下って景色の開けたあたりでおしまいとなりました。なぜかって。本当のホタルが飛んでいたからです。「あ~あ、いた~。」「飛んでる飛んでる~」「うわ~きれい~。」口々に発せられるホタルへの賛辞の言葉です。
ホタルはふわりふわり、遠方を渡るもの、点滅を激しく繰り返して小さく光ってこちらに向かうもの・・・。たまたま点滅の周期があって、急に点火されたような気分になるときもありました。さながら、夕暮れの光のシンフォニーです。私は幼いときに川べりで見たホタルを思い出しました。
あちこち約2時間半、歩き回って、観察は終了しました。最後はみんなくたくたでした。「歩くのは20分ときいていたのに・・・。」と途中恨まれるシーンもありましたが、私は「駅からフィールドまでが20分という意味です」と苦しく言い訳していました。
田無の駅にはきっちり午後10時に到着しました。こんなに遅い企画は珍しいです。東京都にもホタルの飛ぶ場所があり、その自然を懸命に守っている地元の方の存在を知り、本当に感謝して帰ってきました。また、福島は以前「麦わら」をいただいた農家に寄って、実際のホタルカゴを届けて帰ってきました。農家の方は「また、あげますよ」といってくださったそうです。この企画はたぶん来年も何かの形で引き継がれそうです。
最後に、ホタルの光を体験することは、ほんものの暗闇を体験することでもありました。そのあたりは電柱が一本もなく、まったくの暗闇が存在する谷戸田だったのです。意識して残すのが自然なんだなと実感しました。
2003年6月10日 火曜日
この数ヶ月、あるものを探していました。
それは、ワラです。麦のワラです。
田舎の母がウチにやってきたとき、「新しく郷土資料館ができたので、見に行ったら、昔よく作って遊んだホタルカゴが展示してあって、なつかしい~と友達と話していると、その係りの人がやってきて、『ホタルカゴ編めますか』とたずねてきたのよ。友達は全員編み方を忘れていたけど、私は自信があったから、『はい。』と答えたら、麦のワラをひと束、持ってきて『すみません、これで編んで下さい。今展示されている物がボロボロになったら、編める人は誰もいないのです。』と渡されたんよ。後日、母はそのワラでホタルカゴを7つほど作ってその郷土資料館へ届けたといいます。今は新しくなったホタルカゴが展示されているということです・・・・・・・。
この話を聞いて私は俄然ホタルカゴの編み方を習いたくなり、台所のストローをつないで、編み方を習いました。その後、近郊へ出かけるたびに麦を作っている場所を気にしていました。
『麦は最近あまり作らないな・・・』という答えが良く返ってきます。秋に群馬・栃木の田園風景の中にきつね色に光る麦がよく見られます。でも、なかなか知り合いがいないので、方々手を尽くして探していました。
ところが、先日「ホタルを待つ夕暮れ」の企画でフィールドに選んだ「武蔵増戸」へ下見に行った際、農家でひと畝だけ作られている麦を見つけました。幸い、その家の方が畑仕事をしていたので、声をかけました。「ホタルカゴを編みたいので麦ワラを分けて下さいませんか?」
そのご婦人は大変親切な方で、「今日刈り取ったのは脱穀前なので、昨年のをあげましょう。」と、納屋からひと束下さいました。私は心より感謝して押し頂いて帰ってきました。ずっと、手を尽くして探していたものが、いとも簡単にそれも東京都で手に入ってしまったのです。ラッキーとしか言いようがありませんでした。
帰ってから、母のレクチャーを思い出し、記憶をたどりたどり麦ワラを細工してみました。
十文字に組んで一本足して、左に倒して倒して、螺旋状に連続していく作業です。でも、途中でポキポキ折れてしまいます。曲げるとき、節がくると即アウトです。「う~ん・・・。」と1作品目は途中で断念し、母にSOSの電話をしました。母のアドバイスは『まず、水で湿らせること。ワラを継ぎ足す時はどこで角がくるかを考えること。』
2作品目は無事完成。でも、2カ所ほどワラが絡んでない場所があり、3作品目に挑戦。今度は巧くいきました。夜もふけて11時になっていましたが、あまりに面白いので4作品目に挑戦しました。今度は底面を大きくして大作に挑みました。でも、大きいのは大変でした。とうとう半分編んだ段階で限界がきました。翌日の楽しみに取っておこうと決め、休みました。
今夜も夜の楽しみが待っています。編めば編むほど上達し、ワラの渋い色と光沢は「自然の感触」そのものです。螺旋状に編みあがっていくデザインはチョット目には構造が分かりません。素晴らしい、手作業の世界です。 親たちの農作業の傍ら、子どもがワラを渡されて遊んでいた・・・と母は言います。そして、ホタルを捕まえてかごに入れ、そのあと、底面にホタル草を敷き詰めて逃げないようにすると、「ポッ・・」と明かりが点って美しいといいます。
出来上がったホタルカゴを娘や息子が見ていいます。「お母さん、その隙間から、ホタルが逃げるよ。もっと緻密に編まなきゃだめじゃないの・・・。」
はい、見てて下さい。夜な夜なの手仕事でスキルが上がり、母と同じようなホタルカゴがすぐできるから・・。
2003年6月2日 月曜日
この土曜・日曜は山菜ツアーでした。10代から40代まで総勢10名が2台の乗用車で山荘に向かいました。
天気は台風4号を南ににらみ、北陸で到着を待つ感じでした。行きの高速ではほとんど山菜採りは諦めていました。途中、子持村で農産物や雑貨を買い、蕎麦を食べ、上越クリスタルに寄り、真沢の施設を下見し・・・・、と早く到着する必要のない気楽さで、寄り道につぐ、寄り道をしました。
苗場山荘で私達を待っていたのは、10年近くお世話になった管理棟の管理人渡辺さんの退職の話。6月5日が最後とかで、ひとめでも会えて今までのお礼が言えたのが、せめてもの慰めでした。10年ほど前、彼は森の教室のカレーバトルの審査員を快く引き受けて下さり、夕方スーツに着替えて私達のところにやってきてくれました。そして一生懸命、各班のカレーを審査してくれました。最後に「カレーばかり食べてたら、味がよく分からなくなっちゃったよ。」とすまなさそうに言っていました。私達のお楽しみの企画に「まじめに」参加してくれたその姿が今も申し訳なく、思い出されます。60名近くの参加者の見守る中、汗をかきながら6種類のカレーの感想を一生懸命考える渡辺さんを見て、もう来年はこれをさせちゃ悪いなと感じた私でした。
また、森のプレイ・パークのそうめん流しではいつも快く道具を貸してくれました。パトロールの際に立ち寄って、ちょっと話をするのも楽しい時間でした。子どもたちの遊ぶ様を目を細めて眺めていた人でした。
今回の山菜ツアーは風と雨のため、山荘周りだけを回りました。雨具に長靴スタイルで山ウド・わらび・タラの芽などを収穫し、途中シイタケも採りました。(これは菌を打って置いておいたもの。)下半身は濡れた藪の中を歩くので、すぐびしょびしょになりました。5月末の山は去年よりうんと春の進みが早く、ウドは成長しきって、タラの芽は食用のモノを探すのに苦労しました。去年好評のコシアブラは成長しすぎ、ヤマブドウは立派な葉っぱが出ていました。結局、夕食材料は柔らかい部分の山ウド中心となりました。
夕食はウドときのこのパスタ・鶏肉のカリカリ焼きクリームソースかけ・山菜の天ぷらとなりました。ふくしまが途中で買った蒸し鶏の手羽もサラダに添えられました。
翌朝の朝ご飯は若手が担当。みそ汁・ベーコンエッグ・ほうれん草・白菜サラダ・納豆などなど・・。みんなで準備して、楽しく食べて、みんなで片づけて、と山荘の生活は進みました。山荘の整備作業も短時間で終わり、帰りは久々の遊神館で汗を流しました。そして高い雲を見ながら、渋滞なしの関越をスイスイ帰ってきました。関越での話「この天気が一日前に欲しかった・・・。」
運転なし、朝ご飯準備なしの生活は私達40代には快適そのものでした。ちょっとずつ若手にシフトを変えていっている企てを彼らは気付いているだろうか・・・。完成形は「お客様状態」です。
2003年5月13日 火曜日
5月の連休が明けて塾では通常の生活が戻ってきました。
先日、2月についで、ポスティング第2弾が行われました。高校生や卒業生が協力してくれて、塾の案内ハガキを配りました。もちろん講師の福島も嶋田くんも走りました。ポスティングから帰ってきた福島が「良い公園が途中にあってね、ちょっと休んでいたら、○○に逢ったよ。5才の息子を連れて遊ばせていたよ。」と言いました。
話をきくとその公園はいわゆる土・木・池のシンプルな構成で、狭いけど居心地の良い場所のようです。特別地面をオシャレにしたり、遊具をおいてあるわけじゃないけど、自分が子どもを遊ばせるなら選ぶような公園だといいます。「○○の自宅はそのあたりじゃないけど、息子が何かの機会にその場所で遊んで、それから気にいってわざわざ連れて来ているそうだよ。同じような感覚だな、昔の俺等と・・・。」といっていました。
ここに登場する○○さんは、塾の卒業生で、そのお父さんやお母さんともつき合いが深く、いろんなことを教わりました。私達の子どもが保育園の頃は「早期教育」がまだ主流で、「子どもの頃の早い刺激が脳を活発にする・・・」なんて、まともに信じてる親がたくさんいたように記憶しています。そんな中、○○さんのお父さんは「子どもには子ども時代を十分生きさせることが大事。何よりも情緒、情緒が安定していることが一番。小さい頃は知識より体験。その体験の中からいろんなものをつかみ取るよ・・・。」とこともなげにおっしゃる人でした。非常に博学でどんなジャンルの本も読んでいました。私達は彼から、教育・心理学・哲学・フェミニズム・建築・詩・・・・など、本当にいろんなことを学びました。彼の娘さんを塾で預かりながら、逆に彼の書斎から「私達の子育て感覚の裏付けになる部分」を学んでいたような気がします。絵本もたくさん紹介されました。
今でこそ、公教育が、「子どもには体験を」という時代ですが、当時は、お腹の赤ちゃんにいち早く「ひらなが」や「英語」を教えてようとしていた時代です。私達は彼の子育ての裏にあるものに非常に共感し、その中味を知ろうとした時代でした。
彼の発言で、「わたしは子どもが夢中になっている姿が好きです。だから、子どもが夢中になっている時に外からの力でやめさせてはいけません。」というものがあります。これは私達の子育ての原点です。事実、子どもを育ててみて実感したことですが、子どもはどの年齢でも夢中になるものがあります。今はもう、記憶も薄れましたが、わが息子の歴史をざっと振り返ると・・・。NHKのお母さんといっしょのキャラクター・アンパンマ時代→戦隊ものキャラクター(ターボレンジャーから参加)→牛乳キャップ集め→ドラゴンボールのカード→カンダムのプラモデル→ミニ四駆→マジック・ザ・ギャザリング→もちろんファイナルファンタジーなどのゲーム→ディア・ブロ→麻雀・・・・。 今も麻雀は継続中です。我が家の狭い庭に友人の自転車をきつきつに並べて、音をたてずに日がな一日やっています。
忘れもしません。ドラコンボールのカードを手に息子が発した言葉、「あ~あ、なんでこんなカードのためにオ
レのおこづかいをつぎ込んだんだろう?もったいないことをした・・・。あれだけの金があれば、ガンダムのプラモが相当買えたのに・・・!」。夢中の対象がドラコンボールのカードからガンダムのプラモに移った瞬間でした。その日からカードは卒業し、プラモづくりの世界に突入していきました。どの時代にも、夢中になる対象はあり、卒業があるのでした。今のところソフトテニス・ミスチル・麻雀は卒業がないようですが・・・。
我が家の子育て感覚のバックグラウンドとなった○○家も次の世代に子育てが移っています。先日の「○○もきっとオレたちと同じような感覚で子どもを育てているよ。その証拠に同じような公園を選ぶだろう?」という話は私達にとって、安心感を伴うものなのでした。
2003年4月25日 金曜日
田舎の母が大きな手術を受けました。腹部動脈瘤の人工血管置き換え手術です。
昨夜遅く帰宅するまで、4泊5日の帰郷生活を送りました。
母の兄弟は7人で一人を除いて健在です。その兄弟姉妹5人(配偶者を入れると8人)が手術の日に集まり、私達娘3人と、家族待機室に控えていました。手術は5時間にわたり、窮屈な長椅子に座り続けました。話題に事欠かないものの、同窓会ではありません。「手術のゆくえ」という気がかりを抱えて、みんな口には出さないまま、あたりさわりのない話をしています。一番印象に残っているのが、男性陣が話していた『トンカツ』談義です。昔の旨いトンカツの話。現在うけているトンカツ屋の話。母の兄が「最近うまいトンカツがない。昔の姫路の○○筋の○○のトンカツは旨かった・・・・、今もあるかな・・・」
聞くともなく聞いていた私は翌日、ICUの面会時間の空き時間に姫路駅に出たとき、フラッと「トンカツ・むさし」に入ってしまいました。店の前を通ったとき、やたら「トンカツが食べたい」と思ってしまったのです。不思議なもので昨日の控え室でトンカツ談義を聞いていたときはそんなことを全然思ってなかったのに、さも当然のようにトンカツを選んでいました。これはみごとに暗示にかかってしまった結果のようです。
さて、術後の母は順調に回復し、独力でトイレにも行けるようになり、大部屋で友人もできて、健やかに過ごせるようになりました。ICUから出てきた直後は「目をつむると食べ物の映像ばかりが浮かんでくる。夢を見ても食べている最中に目が覚める・・・・。おかしいな。食べ物ばっかりよ・・。」と言っていました。三分粥からスタートした母の胃袋はいろんな料理を夢見て母を駆り立てているようでした。
美味しいものを楽しく食べて、食べる幸せをこれからも実感して生きていってほしいと思いました。
食べ物報告ついでに、今回帰郷して食べた美味しいものリスト
*松葉・・・・・ヤキトリ屋さんのメニューで、V字の骨に淡泊な鶏肉が香ばしく焼かれている。このヤキトリ屋さんは非常に工夫のある店。帰ったら一度は行きたい店。
*牛スジのお好み焼き・・・・・キャベツの量を抑え、マッシュのジャガイモやお餅をいれていろんなバリエーションで食べさせる、一番の特徴は薄味と柔らかさ。
*豆腐料理・・・・・時間があいたので友人に連絡をとったら、病院に現れ、お昼に連れて行ってくれたお店。黒豆のざる豆腐、ユズ味噌の和え物、揚げ出し豆腐が美味しかった。
*リンゴジャム・・・・・毎朝リンゴを食べている母が入院を前に冷蔵庫の整理をした際、あぶれて持ってきたリンゴを妹がスライスしてジャムにしたところ、フルーティーな絶品ができた。
ええっ、山森話じゃなくて、美味いもん話になってるって?
2003年4月11日 金曜日
新学期が始まりました。いつもながら、1つ学年が増えた子どもを見て「なんだか、心もとないな、変だな・・・」という感じが否めません。5月ごろになってやっと、進級した学年に合っていくことになります。
我が家も中3と高3の受験生が誕生。部屋の模様替えをして、雀卓を片づけてデスクを復活させたり、本棚を移動したり、春休みはもっぱら「勉強への環境整備」に時間を費やした彼らです。中3の娘は父に似て、逃げて逃げてよけいなことをして、追いつめられることを楽しむタイプ。高3の息子は私に似て、追いつめられながらタイムスケジュールを立てているタイプ。前者は休み休みの長距離ランナー。後者は短期決戦。さて、どんな一年になりますことやら。
NPOの活動で助成書類を作ることも7日で完了し、やっと塾の仕事に目が向いてきました。塾通信が一番の急務です。5月の連休までにはなんとか発行の予定。塾生のご家庭には予定などの告知が遅れて本当に昨年度は迷惑をかけてしまいました。
さて、梅は終わり、ソメイヨシノも散りはじめ、これからは八重桜やハナミズキの出番です。
また、山の桜はこれからです。山菜も、もうぼちぼちですね。塾では5月31日の土日に整備を兼ねて「山菜ツアー」を企画しています。家族ツアーとなりますので、子どもたちの参加は限られますが、春の山に興味のある方は是非、挑戦してみて下さい。山ウドは必ず待ってくれています。
山森話も始動です。今年度もよろしくお願いします。
2003年3月6日 木曜日
苗場の山荘を使ってスキーなしの冬の企画が終わりました。山荘から出かけずに過ごした2日間でした。
参加した子どもたちは小学低学年と中学生。明るいウチは中学生がつくったソリのコースを小さな小学生が何度も挑戦する姿がリビングの窓から見えました。
夜になるとブルーシートを敷いたリビングで「竹」の加工がスタートしました。なたで竹をまっすぐ裂き、節を削り、寒じきの骨格を作る作業です。ここまでは主に大人や中学生の出番です。小学生たちは大人達の力強い作業に魅入っています。竹を切るのも、縦に裂くのも初めて見るものです。その後一本ずつ渡されて、曲げる作業が待っています。ろうそくの炎で竹をまんべんなく、熱して、だんだん曲げていくのです。なかなか竹は曲がりません。何度も何度も熱して、曲げて熱して曲げて・・・。その繰り返しです。山荘の暖炉とろうそくの炎の前はやわらかいオレンジの空間です。そこで、子どもたちは延々と竹を曲げる作業を続けるのです。記録をしていたのりとくんが「日本人のDNKだよな・・・、何にも教わらないので手や足を使っって、なんとか工夫して、曲げるモンね・・。」と感心しています。子どもたちはその単調な作業に言葉少なく、それぞれ集中して職人していました。
私もそれを見て『ココに同数の外国の子どもたちを置いて、ろうそくの炎と竹を与えて同じように「曲げましょう」と指示したら、彼らはどんな行動をとるのかな?中にはぶん投げる子もいるかな?』と想像してしまいました。寒じきづくりに参加した子どもたちは竹への力のいれ具合、炎にかざす距離や塩梅を自分で探りながら、とにかく曲げて行きます。大変であればあるほど、楽しい作業になります。
最後に大人の力で穴をあけ、針金で頑丈にとめられる寒じきの骨格ですが、曲げないことには骨格になりません。寒じきづくりの作業は当初思っていたほど容易なものではありませんでした。その夜に作り上げて翌日歩き回ろうという目論見は子どもたちの竹曲げの作業を見ていたら、もろくも崩れ去りました。「とにかく明日もつくろう・・」ということになり、その夜の作業は終わりました。「ねえ、朝早く起きたら、一人で曲げていい?」という子どももいました。
結局は寒じきで翌日に完成を見たのは1組でした。歩く時間が無くなるので、すでに調達した寒じきでネイチャーウォッチングを開始しました。また、寒じきの装着も一仕事なのです。かかとを合わせ、靴を固定し、歩く際にはずれないように調整します。今の時期は固い雪です。もぐる程度は少ないですが、雪の抵抗は大きいです。
寒じきは山荘の備品となって冬に常備され、今後の活動に使用されることになりました。まだ未完成のモノは折りを見て、仕上げることになりました。子どもたちは自分たちが作業した寒じきを持ち帰れなくて残念がりましたが、未完成のもあるし、東京でなにに使うかという話になりました。
今回の企画はとてもマイナーな企画です。スキーなら、スポーツとして成立して、値段と相談して参加者が集まります。でも今回、寒じきを作って歩くだけの企画に参加させた家庭はどんなことを思って子どもを参加させたのでしょうか?いろいろな顔を想像すると、答えは「なんだか面白そう、他では体験出来ないから、雪の中の体験をさせたい・・」と、こんな所でしょうか?
やってみて、分かったことですが、予想以上に面白かったのは、ずばり「竹」でした。加工して生活に生かして来た日本人のDNAが「竹」を前に騒いでしまうのを知りました。
福島と相談して山荘の竹を一本(2m弱)を持ち帰りました。贅沢をいえば、竹林が1つ欲しくなりました。*山荘の竹は寒じき指導の伊藤さんの寄付です。
偶然ですが、春合宿の選択メニューにバンブークッキングがあります。これもブレイクしそうです。なぜかって、「竹」を前にDNAが騒ぐからです。
2003年2月27日 木曜日
ビブス制作中です。小学生サイズを2つ・中学生サイズを4つとし、オレンジとグリーンの二色で合計12枚のビブス制作です。最初の試作品の時は縫っていく順番が自己流かつ非合理的で、手間がかかり、見栄えも悪いものでした。次からは全行程を見通してその工程をいくつかに分けて同じ作業を繰り返していき、最後に作品が一度にできあがるというシステムをつくりました。だから、今は制作中の途中なのです。
やっていて驚いたことは「何度も同じ事をやると上手になる」ということです。最初ほど集中しなくてもある程度の完成度があるのです。合理的なやり方が身に付いていくことは楽しいことです。これが長い時間があいて、その都度ひとつひとつ仕上げていっていると、こんなに完成度が高かったかどうか・・・。
昨日都立の発表がありました。全員合格は残念ながら達成出来ませんでしたが、みんなそれぞれ頑張ったと思います。私の担当した社会に関していうと1年間決めた整理用のテキストと教科書だけ。これを何回も繰り返し、繰り返しやることを中心に置きました。同じ道を何度も何度も歩き、いつの間にか最初ほど集中しなくても楽に歩けるようになっていることが目標でした。
ある目的を持った勉強、つまり受験勉強というのはどれだけ自己評価ができてるかということがポイントだと思います。繰り返し繰り返しやってると、もうここは繰り返さなくてもよい・・・と自分に命じる声がしてきます。大昔の私の大学受験勉強時代のことです。教科書(300ページ)を何度も繰り返して、頭にいれていたら、読み返すスピードがドンドンアップしてきて、2~3時間で最後は読み返していました。頭に入った信号が点滅したからです。英単語の入れ方も1日目を入れた後、2日目は昨日の分の確認と2日目のノルマを入れます。3日目は1日目と2日目の確認と3日目のノルマです。これを延々と繰り返します。ずっと1ページから毎日確認するのです。忘れるヒマがないのです。そうして最終まで行き着くと英単語をいれる作業はさながら記憶が流れないよう「土留め」の作業のようになります。こうして若い頭に最高時は5000語の英単語がつまっていました。当時は世界史の300ページの教科書と5000語の英語辞書を持って持ち込み状態でテストを受けていたようです。今はこんな時代おくれの勉強法をすすめる人はいませんが、もし私がまた目的を持った勉強をやるなら、同じ方法しか採れないと思います。
ビブスの話から飛躍しました。
2003年2月17日 月曜日
春合宿の会議が始まりました。
参加するスタッフがそれぞれの担当を確認し、必要な準備を考えることがスタートしたのです。いつもよりグッと着手が速い2003年春となりそうです。
というわけで、私も昨年より課題となっていたフットサルのビズスを作ることになりました。昨年は卒業生の協力でなんとかなりましたが、小学2年生に大人のビブスは肩がずり落ちて動きづらそうだったので、次は自作しようと考えていました。ビブスとはスッポリかぶるベスト状のゼッケンのことです。試合の時の必需品です。
月曜でも「ユザワヤ」は人がたくさんでした。コットン素材はビブスには不向きなので、コスチュームなどの特殊な素材のコーナーで布を探していました。1メートルあたり330円から5000円までの布の中でビブスに適して、かつ低価格のものを探していました。いろいろ折り目を付けたり、縫うことを想定して重ねたり、一人であれこれやっていると、子どもの泣き声がドンドン大きくなってきて思考が妨げられるようになりました。見るとだたをこねている子どもがお母さんに「ダメよ。そう、勝手にしなさい・・」と捨て置かれている状態だったのです。そのお母さんは3才くらいの男の子に大人に対するような態度で「あ、そう、・・・・・」と言ってから自分の捜し物をしています。子どもはなぜダメなのか、わけが分からず、ドンドン癇癪をおこして、鳴き声が号泣状態になります。この声と同じフロアにいるのは耐え難い業です。なんとか神経をビブス作成に集中しようとするのですが、結局ダメで、私の方が声の聞こえない他のフロアへ移動しました。「他の小物を探してから・・・また、ココに戻ろう」と思ってのことです。広いフロア一杯に子どもの泣き声がひびくのにお母さんは全然気にならないのか不思議でした。子どもはお母さんがプツンとチャンネルを切ってしまったことに泣いているのでした。昔なら人の手前、もう少し子どもにかまうと思いますが、見事に子どもを無視していたお母さんでした。
無事、布を買ってサンロードを北に歩いていると、信号で両脇に2才~4才の子どもをつれたお母さんに行き違いました。2才くらいの子がつまづいてお母さんに手を引っ張られて、転ぶことは免れました。あまり容赦なく引っ張るので、腕が抜けないかと心配したので注意を引いたのです。そのすれ違った一瞬の言葉です。「おら、ちゃんと前見て、トットと歩けよ・・このっ!・・・」と2才の子に巻き舌で言ってるのです。2才児は大人の速度に合わせて着いていくだけで必死で、ぽかんとしている感じです。そのお母さんが大人と同じように幼児と接しているのに驚きでした。
最後は年輩のご婦人です。後ろからすごい勢いで私を自転車で追い越す方がいました。追い越してからその方から「○○・・・・・・○○・・・・」とすごい怒りの言葉が聞こえてきたのです。内容は不明ですが。言葉はすぐ聞こえなくなりましたが、すごい大きな声での怒りの放出でったので驚きました。黒い上着にひき茶色のスカートをエレガントに着こなしたご婦人でした。
ものの、30分くらいの間の出来事です。いや~、今日の報告は何なんでしょう?
月曜日は女の人を非情にし、怒りっぽくするのでしょうか?
2003年2月12日 水曜日
先日、水戸の偕楽園へ行って来ました。北茨城の病院にいる友人を見舞うのに一度高速を水戸で降りて、立ち寄ってみました。
偕楽園は話には聞いていたのですが、行くのは初めて。この22日あたりから「梅まつり」の開催に向け、公園施設の準備中でした。梅は八重寒紅という紅梅が咲き始めている感じで他の種類のはまだ、固い蕾状態でした。たまに白梅で5~6輪咲いている木もありました。鼻を近づけるとほのかな梅の香がただよい、幸せ感が広がります。グリーンがかった白梅は「月影」という名前がついているようで、ネーミングに参ってしまいました。
公園は年に一度のかきいれどきを前に散策道の整備に余念がありません。でも柵に塗った腐り止めの塗料の臭いがきつく、ほのかに芳る梅の香をけちらしてしましっていました。梅まつりまで、あの臭いは退散してくれるのでしょうか?少々心配して歩いていました。
梅の数・3000本とガイドには書いてありました。これだけの梅が咲けば、本当に見事な景観と梅の香だなあと想像していました。日本3園の1つと言われるだけあると思います。
私と福島は梅が好きです。季節的にはまだ寒いのですが、春を告げる一番の香りとして梅のほころびが気になって仕方がありません。我が家の白梅もひとつ咲きました。寒い中でちょっとした寒気のゆるみを反映してほころぶ梅はまさしく春の使者です。
マスクをして偕楽園を散策する人の姿も目立ちます。春の到来は花粉の季節の到来でもあるようです。幸い花粉の憂鬱さを知らない私達ですので、この次はどの梅を観るか相談の最中です。
一度も行ってないのは小田原です。曽我梅林はシーズンを逃してしまいがちで、いつも吉野か近くの小金井公園へいって観梅してます。いちど越生にも行きました。
先週の土曜、新年度の継続書類が出そろい、今年度の私達の通信簿が出た感じです。今回はほとんど読み通り、継続・退塾の予想外な返事を持ってくる生徒はいませんでした。「迷っている」と表現した家庭には後者をとってもらいました。根拠なく続けるにはハードな関係を求め合う塾だから一年持たないと伝えます。
さあ、本格的に今週から新規募集のスタートです。梅の香りを背景に頑張りたいと思います。
2003年2月3日 月曜日
昨日久しぶりに山へ行きました。
「チャートと火おこし」の企画で御岳山へ行って来ました。予定では山歩きの後ロックガーデンという山の上の河原でチャートを探すはずだったのですが、前日からの積雪で凍結して危険という状態でした。予定を変更して麓の多摩川の河原でチャートを採取してから、御岳ビジターセンターへ行きました。あまりの寒さにビジターセンターのコンロを借りてトン汁を作らせてもらいました。寒中のトン汁の美味いこと、美味いこと・・・。
たくさんのスタッフの努力の結果、無事火打ち石から火がおこり、火おこしは成功しました。
一年で一番寒い時期に野外の活動を組むのが無謀というものです。3人の子どもがインフルエンザでキャンセルということになり、可愛そうなことをしました。でも、今年度、出した企画が多かったのでこんな日程で消化するしかなかったのです。本当はもっと気候のいい時期にチャートを企画してあげたかったのですが・・・。なんせ季節限定モノの活動を優先していたら、年間を通じて実施可能なイベントが残ってしまったのです。(冬にトンボやセミの企画はできないでしょう?)
あとはカニの巣穴・水生昆虫・寒じきづくり・残雪体験を残すだけとなりました。2月にはイベントはやめて、すべて3月に回しました。だから、3月は毎週野外活動があることになりました。
寒中の活動で意外な発見。極寒の御岳はバードウォッチングに最適ということです。葉っぱを落とした木々に冬でお腹を空かせた野鳥達がやってきます。4月には想像もつかないくらいの飛来の量です。ヤマガラ・シジュウカラ・キビタキ・カケスが殻を振りまいて実を食べていました。見ていると時がたつのを忘れる感じです。特に羽を動かして飛ぶ際に内部の羽の色が目にしみます。強烈な美しさです。
この時期の御岳は一見の価値有り。
2003年1月28日 火曜日
友人が昨年の11月に脳出血で倒れました。ヨットの企画でいつも現地でバックアップしてくれている昔の仲間です。大学時代から丹誠塾を手伝ってくれていた彼は20台の半ば、両親の住む福島県へ帰っていきました。福島ではウィンドサーフィンのお店を開き、若い人を相手に講習や販売をして、かの地で新しいマリンスポーツを紹介した草分けの一人となりました。10年ほどまえから、丹誠塾のヨットの企画がうまい具合に実現したのは彼の献身的な協力があってのことです。
発作はウィンドサーフィンの講習のために鮫川の河口に到着した時、起こりました。
その日から彼は半身がマヒした身体とつき合いながら、生きていくことになりました。
私達は昨年に3回、今年になって1回見舞いに行きました。合うたびに元気になっていく彼を見ると、人間の快復力に驚きます。最初の時は昔の話ばかりしました。なくなった私の父に聞いた父の発作の時の模様を思い出した様子で「山下さんのお父さんが言ってたのと同じだよ。」と繰り返していました。次のお見舞いの時はもう、リハビリが始まっていて、福島のマッサージを気持ちよさそうに受けながら、自分の身体の状態を詳しく説明してくれました。一番最近のお見舞いの時、動かない方の足が角度でいうと30度くらい持ち上がったことを話してくれました。ひとつひとつの発見がうれしく、発作前の身体には戻れないという覚悟とこれからを生き抜く覚悟が徐々に彼の中に生まれていくような気持ちがしてました。
現地でヨットの指導を彼といっしょにいつも助けてくれるO氏が言いました。「快気祝いクルージングをやるからな。おまえ専用の椅子も作ってやるから、リハビリがんばれ。」
彼が今度海に出るのはずいぶん先のことになると思いますが、きっとそのイメージを胸に毎日リハビリに励んでいることと思います。半身マヒになって、出来ないことが多くなったけど、その身体で何ができるか、何をしたいか・・・・、たくさんの時間が彼にそんな機会をあたえてくれることを友人として祈って見守っています。
すごく個人的で共通の知人でもない読者を前にここに報告するのも・・・といつもためらっていましたが、今日「徹子の部屋」で真屋順子さんを見て、書きたくなりました。彼女も同じ病気と闘い、見事舞台に復帰するようになった女優さんです。彼女の話で、「こんな身体になったけど、こんな身体になった私にどんな事ができるか挑戦しています。」という言葉を聞いたとき、一年後には私の友人がこういって海に出ているのを想像してしまいました。
来年の今頃の彼の姿を想って、ココに書いて応援のメッセージを残したいと思いました。
2003年1月28日 火曜日
友人が昨年の11月に脳出血で倒れました。ヨットの企画でいつも現地でバックアップしてくれている昔の仲間です。大学時代から丹誠塾を手伝ってくれていた彼は20台の半ば、両親の住む福島県へ帰っていきました。福島ではウィンドサーフィンのお店を開き、若い人を相手に講習や販売をして、かの地で新しいマリンスポーツを紹介した草分けの一人となりました。10年ほどまえから、丹誠塾のヨットの企画がうまい具合に実現したのは彼の献身的な協力があってのことです。
発作はウィンドサーフィンの講習のために鮫川の河口に到着した時、起こりました。
その日から彼は半身がマヒした身体とつき合いながら、生きていくことになりました。
私達は昨年に3回、今年になって1回見舞いに行きました。合うたびに元気になっていく彼を見ると、人間の快復力に驚きます。最初の時は昔の話ばかりしました。なくなった私の父に聞いた父の発作の時の模様を思い出した様子で「山下さんのお父さんが言ってたのと同じだよ。」と繰り返していました。次のお見舞いの時はもう、リハビリが始まっていて、福島のマッサージを気持ちよさそうに受けながら、自分の身体の状態を詳しく説明してくれました。一番最近のお見舞いの時、動かない方の足が角度でいうと30度くらい持ち上がったことを話してくれました。ひとつひとつの発見がうれしく、発作前の身体には戻れないという覚悟とこれからを生き抜く覚悟が徐々に彼の中に生まれていくような気持ちがしてました。
現地でヨットの指導を彼といっしょにいつも助けてくれるO氏が言いました。「快気祝いクルージングをやるからな。おまえ専用の椅子も作ってやるから、リハビリがんばれ。」
彼が今度海に出るのはずいぶん先のことになると思いますが、きっとそのイメージを胸に毎日リハビリに励んでいることと思います。半身マヒになって、出来ないことが多くなったけど、その身体で何ができるか、何をしたいか・・・・、たくさんの時間が彼にそんな機会をあたえてくれることを友人として祈って見守っています。
すごく個人的で共通の知人でもない読者を前にここに報告するのも・・・といつもためらっていましたが、今日「徹子の部屋」で真屋順子さんを見て、書きたくなりました。彼女も同じ病気と闘い、見事舞台に復帰するようになった女優さんです。彼女の話で、「こんな身体になったけど、こんな身体になった私にどんな事ができるか挑戦しています。」という言葉を聞いたとき、一年後には私の友人がこういって海に出ているのを想像してしまいました。
来年の今頃の彼の姿を想って、ココに書いて応援のメッセージを残したいと思いました。
2003年1月19日 日曜日
2003年があっという間に20日を過ぎようとしています。こんな風に早足で今年も過ぎていくのでしょうか?
2003年度の塾のテーマは「SLOW STUDY(スロー スタディー)」です。昨年より福島がよく使っている言葉です。深夜のニュースでもよく取り上げられている言葉でもあります。これはスローフードの教育バージョンです。
スローフードはもちろんファーストフードの反対概念として登場した言葉です。カンタンにいうとお手軽な食べ物ではなく、安全や美味しさにこだわった食のあり方をいったものです。
さて、その教育バージョンとなると、どんな教育の反対概念か考えました。
①競争させて点数獲得のみに目標をおく教育
②子育てを親以外の第三者にお手軽に任せてしまおうとする態度
③子どもから出発したものでなく、大人がしかけて子どもをその型にはめようとする教育
・・・・・・どんどん、わかりづらくなってしましました。
スロースタディーとはゆっくり確実に必要なことを身につけていく。それも子ども自身の興味に従って、子ども自身の選択のもと、子ども自身の幸せのために。なんだか、当たり前のことのようなのでが、この辺のところが今一番抜けているポイントなのだと感じます。そして親の手抜きを厳しく指摘しそうな感じです。
塾の日常は21日から在塾生の来年度の動向をたずねる、継続確認書のスタートです。一番ナーバスな時期です。今年度の塾の生活を振り返ってもらって来年度一年のつき合い方を家庭に尋ねる儀式です。
そして、新規の募集がスタートします。その時までスロースタディーの説明を熟考するつもりです。