01年12月27日 木曜日
更新をさぼっていました。
これにはわけが・・・。福島がちょっと具合が悪く、冬期講習のピンチヒーッターを私がやっているからです。それと年末事務とNPOの助成申請の書類づくりで年末が超ハード状態です。おとといは冬期講習の準備をのりとと二人でやってましたが、子どものいない塾はお通夜状態でした。
いまは冬期講習二日目。とにかく、これをこなすことが一番。
まだ、来年のアウトラインは引けてません。
2001年12月18日 火曜日
渡辺のコラムを読んでいただくとわかりますが、ただいま産みの苦しみの真っ最中です。来期のクラス編成の、その手前の「新しい塾像」を創造しています。こういうクリエイトな作業にはすっきりした新鮮な脳と、尽きることのないタフなエネルギーが必要です。でも、そのどちらもないので困っています。
最近、小さなお子さん連れのお母さんを見かけると「あっ、私もあの頃があったな・・。確かにあったけど、もう遠いな。忘れちゃったな・・・。」「子どもにたくさん元気もらっっていたのに、全然気がつかなかったな」「今なら、もっと子どもと柔らかい、ゆったりした時間を過ごすな・・」と思っています。ただ、もう体がついていかないか・・という気持ちもあります。あのころは必死で元気でした。自転車の前かごとハンドルに買い物をいっぱい積んで、一人の子どもを後部に乗せ、一人を負ぶって移動していました。「すごい力持ち」のお母さんでした。だっこやおんぶで培われた母親の筋力はレスラー並みでした。
1985年の秋に0歳の息子を負ぶって駅前のビルを周り、交渉し、本当にオンブしたまま、契約書にサインし、押印しました。全然平気でした。同じくオンブして引っ越し準備をして、今のサウスタウンビルに移ってきました。
ご存じの方は少なくなってしまいましたが、丹誠塾はその前は古い貸家でやってました。くみ取りトイレで雨の日にはすごく臭い塾でした。でも、不思議な部屋がたくさんあり、近くに児童公園や駄菓子屋さんもあり、こどもたちには最高でした。中2階の部屋の下には地下室がありました。その地下室で渡辺はドラムと出会いました。始めた頃はみんな大学生で毎日が「集い・語り」の日々でした。よくあれだけ、話すことがあったと思うほど、話し込んで「何か」を突き止めようと必死でした。それはある時は「真実」だったり、「正義」だったり、「行き方」だったり、いろいろでした。いつでも語る材料はあり、語り尽くせない思いが、夜通しみんなを集わせていました。
仲間のほとんどが就職活動で地方に散り、塾の核心メンバーだけになった時代、周囲1キロ程度では生徒確保が難しく、駅前に移った時代。山荘・トライ☆アングル・大学受験・科学教室など、新しいことを始める節目節目に異常なエネルギーが湧いてきて、次の丹誠塾を拓いて来ました。それで「今」があります。もう一度それぞれの時期に戻ったら、やっぱり同じことを選んでやってると思います。
2002年の舵取り。再度、欲しいもの・・・。フレッシュな脳と強靱な体力。もう、私たちが拓く時代じゃないのかもしれない・・・。弱気じゃなく、マジで。
2001年12月13日 木曜日
おもしろい本を読みました。
『骨董市で家を買う』という本で、著述業の夫婦が富山県の古民家を品川へ移築する話です。骨董の好きな奥さんがある日、「骨董屋さんから家を買う」と決心し、約1年かけて移築する話ですが、途中の古い民家の解体や木材の洗い磨き、移送、、組み立てなどにずいぶん、手こずって、やっと完成にこぎ着ける流れに思わず引き込まれました。
とうとう念願の新居に入った著者の感想は「風の吹き抜ける家」を楽しんでいるという言葉です。
さらにその奥さんは最後に「この家に欠けてるのは‘品格’なのよ。家の魂というのかな。ひと筆でさっと書いた、けれど力強い線のような。昔の匠が手掛けて、それなりの知恵と合理性がつまった、あたりまえの美しさが、あの家には備わったいたと思うの。だけど、私が、間取りをはじめ、さまざまな部分をせせこましくいじったために、その良さが多分に損なわれてしまった・・・・・。」と述懐します。
この本を読んで俄然私の中に2つの事が起こってきました。
一つは今の我が古屋を大切に使っていこうということと、もし叶うなら、古い民家を田無の地に移築して、そこで多目的に利用できる「館」を作りたい。これは塾であり、寄り合い所であり、ライブハウスであり、隠れ家でもある・・・。そういう空間を作ってみたい。
もちろん、なんのアテもありませんが、その本にもあるように「言葉は言霊であり、発した時から魂が宿る」ので、言ってみなけりゃ始まらないのです。丹誠塾の山荘も然り、15年前の駅前移転も然りです。だから、厳しい財政の中。声を大にして言います。
田無の駅前に土地を確保して、田舎の古い民家をそのまま移築して、多目的の空間を作りた~い。
2001年12月7日 金曜日
今度の日曜日、娘が初めての試合に臨みます。ソフトテニスです。
試合に備えて練習方法を自分で選ぶようで、考えた末、「男子の先輩の下で練習する」のを選びました。選択の基準はよくわかりませんが、張り切っている現れかと思います。親としてはメソメソするより、安心かな・・・。
今朝、朝食のテーブルで我が子たちの意外な面を発見して驚きました。私事ですがここに残します。
兄が尋ねています。
「もう、動きわかった?」
妹:「は?、何の?」
兄:「何って、サーブしてからの動きだよ。すぐ、上がれって言われなかった?」
妹:「だって、これから習うんだもん。何もいわれてないよ。」
兄:「これからって次の日曜日に試合じゃないか、もう、これじゃ、俺たちみたいな輝かしい時代は来ないな・・・。」
妹:「お兄ちゃん、だったら今教えてよ。簡単にね。」
兄:「ええっ!しょうがないな。
とにかく、サーブを決めろ。へぼくてもいいから、確実なサーブを決めろ。今回はそれだけで勝てる。
それから、最初からボーッとした動きをしたら、集中的に狙われるから、まず動いて返していけ。おれなんか、見た目で狙われそうになったけど、バンバン返したから、平気だったよ。強いところはまず、相手をみて、弱いヤツを狙ってくるからな。」
この会話に驚きました。
①兄はリアルタイムに試合の緊張や駆け引きなど家で一切話しませんでした。親に弁当だけ頼んで「見に来い」とは絶対言いませんでした。そのせいで輝かしい戦歴を持つ息子のチームの応援に姿を見せなかった唯一の家庭だったらしい・・・。ヤツもいろいろ考えていたんだ・・・という気持ちです。
②自分の体型を客観的に家族に話すようになっていること。(息子はジャイアントサイズ)
③自分の時は黙りで通したけど、妹には試合のアドバイスを親切にしていること。少々、しゃべりすぎ・・。息子は本当は「教えたがり」なのかも・・・。
④娘は自分の緊張を簡単に人に伝えて、お手軽にアドバイスを求めるタイプ。もっと、慎重派かと思っていた。これも意外。
子どもといえども、個人情報を公開の場に流すのはどうかと思いましたが、あまりに驚いたので、紹介しました。
本当に思春期はあとで出会うことが多いのですね。本人も親も・・・。それくらい息子は自分の情報を出さなかったな・・。ピークは目線さえも拒否して、「俺をみるな。」って感じでした。私の態度はどうだったかな?「さわらぬ息子にたたりなし・・・。」だったような・・・?
でも、もう忘れました。さあ、これから、試合用のゼッケンを書いて縫いつけます。
2001年12月3日 月曜日
もう師走になってしまいましたね。
昨日は人の森のメンバーと合羽橋へ行って来ました。渡辺のりとの案内で「鍋の博物館」を始め、たくさんの食器専門店を回り、ワイワイ言いながら、過ごしました。もちろんのりとのおすすめの「鍋の博物館」は品物も店のスタッフの応対も最高。2度おじゃましましたが、そのたびにテーブルでコーヒーをごちそうになりました。
その他に感激したのは中国・韓国の食材がいとも簡単にそろうスーパーです。1日の土曜日に娘の中学校PTA企画の「キムチ料理会」に出席した私は早速、キムチの材料を購入しました。そして来春のおめでとう企画のために中華ちまきの材料も揃えました。
今回、合羽橋の最大の目的はティラミスの道具を購入することでした。ハンド・ミキサーやミキサーボウルなどです。私はもともと甘いものが苦手で、長い間お菓子づくりを敬遠していました。ところが、娘が料理をするようになると、若い娘は「洋菓子」指向なんです。私はお酒のアテ(肴)中心です。娘が勝手に洋菓子を作るのはいいのですが、料理の道具が全然ないのです。もちろんオーブンも・・・。そこでかねてから、「環境ぐらいは整えてやらないとな・・・。」と考えていました。そこへ、ある方から手作りのティラミスをお土産にいただく機会がありました。あまりの見事さに息子はてっきり有名店から買ってきたものと思っていたくらいです。
私の中に俄然「ティラミス作りたい・・」熱が起こってきてレシピ入手までこぎ着け、そして足りない道具を購入する運びとなったのです。娘は大喜びです。ハンドミキサーやミキサーボウルは夢だったようです。
他におどろいた事は商店街に一軒「骨董屋さん」があったこと。そこの器は私が持っているものと不思議に重なるのです。私の趣味と同じ人がやってるんだ・・・。と感じながら店内を見渡しました。どんな人がやっているのかな・・・と思いましたが、近くには誰もいなかったです。一つ「これっ!」って思う皿があったのですが、「合羽橋まで来て骨董の皿を買うなんて・・」という想いが湧いて自制していました。ちょっと後悔かな。
お昼は「どぜう 飯田」でいただきました。小さい頃の記憶と違って食べやすい「どじょう丼」でした。ずいぶん大きめのどじょうです。それを開いて骨を抜いて蒲焼き風にしたものです。タレがにくいほど旨かったです。周りを見回すとみんなコンロを使って鍋をつついているのです。「あっ、しまった。周りを見て注文するんだった!」と思いましたが遅かったです。うちに帰って福島に話すと「浅草に有名などじょうの店あるけど、そこかな?」といわれました。「こんど、そこへ柳川を食べにいこう」という話になりました。
最後に、今回都心に車を乗り入れた最東記録を更新しました。今までの記録は早稲田までです。自分が運転したことがあるのは中野までです。都心は電車でいくものと決めていつも、歩いていましたが、今回は案内人ののりとに任せてみようと思い、また買い物の量が多いということも予想され、車でいきました。
感想は、『超、新鮮』。東京に住むようになって30年近くなりますが、今までの思い出の場所を車から眺めるという「新鮮な体験」をすることができました。一年ほど前「証明書」を取りに西尾氏の車で大隈会館まで行きました。その時も車から見る早稲田界隈も新鮮でしたが、今回はそれ以上でした。混んでない都心は近かったです。
さあ、これから三浦屋へ生クリームを買いに行きます。作るのはもちろん・・・・です。
2001年11月27日 火曜日
今日のテーマは「楽」。
今、ホームページに『DIGの授業記録』を載せようといろいろ格闘しています。ほとんどの午前中がその仕事になっています。あっと気が付くともうお昼近いのであわてて、解凍してあったカボチャを牛乳にいれスープをつくりました。娘が期末テストでもうすぐ帰ってくるからです。
このカボチャ、2週間ほどまえに蒸して、さんざんいろんな料理に化けたのが残って、ペースト状にして冷凍庫にいれたものです。いつかの「お助け」になると、解凍しやすい形状にしてカチンカチンにしておきました。今朝、ゆうべのメニューの茶碗蒸し・ラスト3つを希望者が食べていきました。そのとき使った蒸し器の余熱を利用してカチンカチンのカボチャを仕事中ずっと入れていました。そして、ちょうどいい具合に解凍され、上々のカボチャスープが30秒でできました。
非常に楽だったので、思い当たりました。この「楽」の陰には2週間ほど前の「手間」とちょっとした「想像力」があるな・・・と。
そういえば、今うちは家族が食事当番を担当して生活しています。息子が水曜日、娘が金曜日です。それぞれの部活などの都合で決まりました。小学生だった娘にいきなり、食事当番は無理と考えて、昨年一年、毎週月曜日に1時間かけて、私が夕方食事を仕込みました。丸一年の「手間」が実って娘は独り立ちして、食事当番が担当できるようになりました。家族全員が料理できるというのが、私の昔からのイメージでした。それぞれが生活人として、だれにも頼らずに生きるのが理想でした。経済的にはもうしばらくは親に依存するでしょうが、「自分のパンツの洗濯や収納」くらいは管理できなくては・・・。
子育てを思うと、『一人の子どもにかける時間』は絶対量、決まっているように感じます。小さいときに「手間」をかければ、かけるほど、あとで「楽」ができる。
もし、このコラムを読んでくださっている方で、まだ、子どもに寝不足にされている若いお母さんがいらしたら、そう思って今の「手間」を楽しんで下さい。
2001年11月21日 水曜日
今日は古い家について。
我が家はもう40年以上も経っている古い家です。福島が幼稚園より前から住んでいます。
よく、「お宅の瓦はここがダメ!」とか「耐震工事をしませんか」とかのチラシをねらい打ち的にポスティングされます。3年ほど前、実際に耐震診断の無料サービスを受けて、「2階の壁量はOK・1階は南部分が他と比べ壁面が少ないが、全体量はまあまあ合格。土台はしっかり。アリの発生もなし。」と判定されて、やや安心しました。(もちろん有料の本格診断を勧められましたが・・・)
古い家はすきまが多いので、冬は暖房が効きづらく、燃料がかさみます。それに外気と内気がどこかで通じているのでホコリがたまりやすいです。でも、この外気・内気の一貫性のお陰で良いこともあります。寒いけど、乾かないのです。だから、鉄筋コンクリートの塾の教室の乾燥具合が身にしみます。古い家はいいですよ。風邪の時。
旧式のストーブの上にヤカンをのせ、傍らで餅や芋をのせて、出来具合を鼻ではかる冬の生活です。レトロ調でしょう?
また、冬、暖房が大変な分、夏が涼しいです。隣近所がガンガン冷房をしてても1階はエアコンを入れたことがありません。蚊には悩まされますが、網戸で東西南北、とにかく風を通します。
こういうレトロな生活を楽しんでいた我が家も外壁のくすみが目立ち、木目の荒れが気になるようになりました。昨年11月23日を「福島家を助ける日・・・福島エイド・デー」としてペンキぬり要員を募集しましたが、1人も集まらず、今年に至りました。
そして今年こそ、もう限界・・・と、業者を頼むことにしていたのです。ところが、福島が「自分たちで塗ってみようか」と言いだし、私も『けがさえしなければ、いいかな・・出費が身にしみるしな・・』と同意しました。娘と息子は出来る範囲で手伝うという事で、週末を2日と平日の午前中を3日ほどさいて、なんとか玄関・表部分の主要部が塗り終わりました。2階の屋根にも上りました。もちろん、足場は組めません。全部、脚立とはしごです。下で支える私からは、スイスイ2階の屋根に向かって上る福島の身軽さにびっくり。重量級の息子にはこの仕事はだめです。もっぱら自転車でお使いが中心の手伝いです。娘は一人前に塗りました。(足場がなくても素人でも塗れたのは、我が家が総2階建てではなく、2階部分が面積が少なく、1階の屋根での仕事も可能だったからでしょう。)
表部分を終えた福島の感想。「2階の屋根に上ったけど、この家はまだまだ、しっかりしている。いつもチラシを入れていく業者さんは何を根拠にもう、ダメっていうのかな?」でした。
下から見上げる我が家は丁寧に2度塗りされて、ズドンと立っています。
古い家は良いですよ。本当に。立て替えてこれ以上のモノが出来れば、話は別ですが・・・。もちろん、資金もね・・・。
2001年11月15日 木曜日
味噌を作りました。
人の森プロジェクトという丹誠塾卒業生が塾をバックアップしてくれている集まりでの企画です。味噌を作ってどうするかはできあがってから、みんなで決めることにして、とにかく仕上がり9キロの味噌は今塾で寝ています。
味噌仕込みは道具・材料調達からスタート。2週間前にいろいろ仕事を割り振って、仕込みを3日後に控え「糀(こうじ)」が入手困難に・・・。どたばたのあげく、中村橋の「昔みそ」でやっと手に入れました。このクダリは渡辺がコラムに報告している模様です。
前日、渡辺が大豆を浸けて帰宅したあと、14日当日10時から私の仕事が始まりました。水を含んで大きくなった大豆をざるにあげる係です。途中から人の森のメンバーも三々五々集まり、作業に参加します。長い時間をかけて、大豆は静かになべの中で柔らかくなっていきます。ワイワイ、にぎやかな時間が経過し、味噌が無事、樽に収まったのは6時30分ごろでした。
この作業の中で一番感じたことは、「だいずのやわらかさ」とその香り・・・。茹でて、つぶして、かき混ぜる。この作業をしながら、どこかの脳が今、休んでいる・・という感じを味わっていました。使い古されて、もう別の意味すら持ってしまった言葉ですが、「癒し」の作業です。パソコンのキーボードを叩いては決して得られない、柔らかい温かい感覚です。それと大豆特有の香りとふんだんにある湿気かな?なぜか、朝からの長~い工程が苦になりませんでした。
昔の人は寒い土間でこの仕事をして、私たち以上に大豆の温かさを感じていたのだろうかと思いました。
その後は「昔みそ」製のこだわり味噌の料理で、楽しい宴となりました。
昨年、LIVINのこだわりやで亀菱醤油を購入し、「醤油っておいしい」と感じてから、普段の当たり前の食材が気になってきました。味噌もその延長かなと思います。味噌造りは人の森の一人のメンバーが発案して、企画がスタートしたものですが、「やってみよう、おもしろそう」と思って私も一票を投じました。
2000年は温泉と地酒に出会った一年でした。さしずめ、2001年は醤油と味噌の年かな?
あと、苦手な蕎麦と親しくなった年でもあるかな?
2001年11月12日 月曜日
今朝がたの夢は怖い夢でした。内容は時間を経るごとに不鮮明になるのですが、逆に怖さが倍増していきます。記憶に一番鮮明なのはガラス瓶を洗って牛乳を注ぎ製品にしていく工場のラインです。それを私がずっと見ているのですが、その支配しているモードは「世界がとんでもないことになる」という恐怖です。その恐怖の中、次次と生産されていく牛乳を見ている私はなぜがあきらめの気分・・・。
寝覚めの悪いことはいうまでもなく、非常に憂鬱な気分で息子の弁当を作りました。息子も虫の居所が悪いらしく、妹に「夕食の材料を使いキレ」とか、私に「こんな風にズボンを修理するなら、やらない方がマシ」などと当たっていました。トイレにかけ込んでいるのをみるとどうも体調が下降気味のよう・・。普段穏和なヤツが当たっているのはそれが原因。普通なら、文句あるなら、もう修理しない!と荒い言葉を投げつけるはずの母は夢見のせいで、超ブルーです。返す言葉もなく、息子も当たりがいなし。
人の夢の話ほど、他人が聞いてつまらないものはないと思いますが、今日のはダメージが大きいので、書き記すことにしました。
夢というと分析の対象になって、その人の心の中をのぞく一つの手段となっています。この私の心の中にどんなことが起きているのか?テレビを見ながらボーと考えていると、その原因はたくさんテレビにありました。
①炭素菌のくにゃくにゃのヒモみたいな映像
②ビンラディンが核兵器をもっていると会見している映像
③○○で火事・・・(先週、幼い子どもが犠牲になった火事がヤカンの消し忘れと聞いて人ごとでなく、怖かった)
④性懲りもなく流す9/11の映像
⑤空爆の映像
⑥日本もテロの標的となると英国紙がいっている
私が「こんな映像をいつも見てたら、世界中が憂鬱になるね。」と言うと、福島が「だから、テレビをもう見ない人がいるよ。恐怖になるからね。」そういえば、あの9/11のアメリカのテロからずっと、憂鬱になって体調が悪いと言っていた人を思い出しました。彼女の感受性の強さに驚き、鈍い私がやっと2ヶ月にして「憂鬱状態」に達していることの深刻さに気づきました。
人の心は何層にもなっていて、今起きている事はその一番上に乗っているものです。次から次に起こることに追われて、人はたくさんのことを忘れて生活していきます。でも忘れたのではなく、その層の下に重ねてきているのです。重ねながら薄く薄くなって「今」を乗せているのです。でも、テレビの映像が毎日必要以上にその薄くなってるはずの「恐怖」という層を引きづり出すのです。「恐怖」は薄い膜にならず、コリコリに固い層となって人の心に沈殿していきます。
じゃ、どうすればいいのか・・。
とにかく今の憂鬱状態からぬけれるよう、時間を過ごそう・・・。「この状態」は心が凝ってる状態です。肩凝りのように心も凝るのです。つまり、一部の心を酷使したため、心が「他も使って・・」といっているサインです。他の部分とは今の「恐怖・不安」の対極にある場所の事です。それは「楽しい・気持ちいい・面白い」です。そこにどうやっていくかは、ここからが山下の独断です。
①すぐには対極にはいけないので、ニュートラルに戻す意味で「なんにもしない」
②「なんにもしない」ことに意味を求めない
③「なんにもしない」ことにあきたら、「好きなこと」をする
④この「好きなこと」をするにも特別な意味を求めない、やりたいからやる。
今、私は大菩薩の沢のわさびガーデンに気持ちは飛んでいます。ちろちろ清流に洗われながら、小さなハッパを育てていた根っこ。そして次は苗場の水源地の上のなめこパークです。遙か17号を眺めながら、大木にしがみついてなめこを採った場所です。
気功を教えてくれた友人が言っていました。「人はその場所を思うだけで、体の一部はそこに行っている」と。
もうしばらく、このお気に入りの場所にいるつもりです。
2001年11月7日 水曜日
今日はホームページ更新のお話。
丹誠塾の野外活動から発展して誕生したNPO遊学会という会があります。この会は「子供に自然体験を企画したり、地域で子育てトークなどを開いて子育て支援をする」会です。NPOとは特定非営利活動法人の頭文字をとって短く呼んでいるわけです。長引く不況の中、自然体験に家庭から支出できる金額に限りがあり、年々活動参加者が減ってきているので、各方面の援助を・・・と期待していろいろ申請しました。幸い、NHK綜合センターの「子どもの夢基金」から、助成をいただき、比較的安くスキー・雪遊びができるようになりました。
そういうことを報告がてら、遊学会のHPも更新することになったのです。
代表の西尾氏は立教大学の大学生。当然、仕事量が限られるので、西東京事務局の山下が中心にならざるを得ません。でも、このコラムを更新するのと訳が違います。
西尾氏が連載しつづけた「哲学者西尾のページ」も2つしか紹介してなかったのでバックナンバーを探して27回全部掲載しようとしました。でも、保存しているはずの彼の言葉。「MOが途中で故障して一部なくしちゃった・・・。」あっちゃ!、
しかたなく、塾通信に掲載した実物からスキャナーで読むつもりです・・・。この仕事を残してどうにか、ある文のみで体裁を整えて、私の仕事は今日一段落しました。
こう仕事のおかげで「素材屋さん」というありがたい存在を知りました。このホームページを新しくしてくれた彼女は「座布団に座ってお茶を飲んでいる」イメージで丹誠塾を捉えてくれていたようで、(それは間違いないのです)使った素材が『和』に徹しています。いいセンスだと思います。何も知らない私はホームページとは日本人が作るとこうなる・・・と思っていたくらいで、今回いろんな素材屋さんを見て「いろいろあるもんだ~。」と感心しました。感心したことは他にもあり、じつに細かい仕事をみなさん楽しそうにやっていらっしゃる・・・、ということです。それにリンクさえ、すれば無料で使わせてくれるとは・・・。ありがたい・・。
実際は遊学会のHPは以前西尾氏が作成したところは「明るいブルーの空・深い海」のイメージ。新しく私が加えた部分は「シックな和」。なんとも一貫性のない、ちぐはぐなホ-ムーページが出来上がりました。まぁ、どっ素人の超初心者だからね。
これだけ書いたら、どんなホームページが一度覗いてみたくなったでしょ。はい、そういう方はこちらをどうぞ。 でも、UPするのは西尾なので2~3日かかるかな?
2001年10月31日 水曜日
今日で10月も終わりです。
よく山に入りました。山の話を書くためにこのコラムを設けたのですが、これからは里の話中心になってしまします。山の話ほど長くならないのでお気楽におつきあい下さい。
最後の山の報告でしょうか?先週の土曜日にまた、奥多摩方面に行って来ました。歩いたのは大菩薩登山口から適当に・・・・。
紅葉の始まりという感じで、落ち葉がまだきれいな状態で道にあります。カエデやモミジの差も若い頃は気にならなかったのに、今はその色の一つ一つが気持ちに入ってきます。「何で?」という感じです。「何でこんなにきれいなの?」「どうしてこんな色になるの?」という感じ・・。
登山道を歩いたり、山道に入ったり、気ままに歩きながら、最後のきのこを収穫し、紅葉のハッパを採集し、そしてとうとう例の遭難現場までたどり着きました。いってみれば何の事はない、普通の沢です。なんでこんなところで決死の覚悟で帰ってきたのか笑ってしまいます。台風の後の山の荒れ方のすごさに肝を冷やしていた心理的な影響もあると思いました。とにかくあのときは怖かった。
今回もすこしわさびをいただいて帰りました。ちょうど食べ頃の若いハッパで、可愛くてすぐ、わさびとわかります。野生なので乱獲すると無くなってしまうので今回はほんの少しにしました。野生のものは根っこも小さいです。でも味は香り高く上品です。独特の粘りがあるように思えます。
さて、きのこですが、クリタケ、チャナメツムタケ、ムキタケ、ブナハリタケを収穫しました。晩秋のきのこです。もう落ち葉に隠れるようにして存在しているので見つけにくいです。これからもきのこは出るでしょうが、出かけるのは日程的に難しいので、シーズン最後の山歩きと言い聞かせて、歩きました。今年はきのこ不作の年といってもいいでしょう。夏の暑さが早いうちに終わって、きのこも出るには出たのですが、十分な条件を満たす前に終わったという感じです。残念。来年も今年同様9月・10月山に入れれば、うれしいのですが・・・。
とってきたきのこはもちろん我が家の食卓で消費。紅葉のハッパは今日の科学教室DIGで教材となります。里では採集できないキレイな紅葉した葉です。葉脈だけになったものもあります。葉脈ってきれいですよね。私は小学校5年生のとき理科クラブで葉脈の実験をした記憶があります。私はたくさんの種類の葉脈を見たかったので先生が一人一枚と限定してとてもかっがりした覚えがあります。
DIGでは葉脈の実験もするようですが、なによりも紅葉した葉っぱを並べるのが授業の中心のようです。最近の子は「わあ、きれい!」とか「本当にきれいだね・・・。」という瞬間がなかなかもてません。周りの環境や時間の過ごし方のせいでしょう。
先日福島がいっていました。「小1の○○くんは一緒に読んだ本のことをよく覚えているよ。△△カエデという名前がすんなり入って自分でカエデの種類を見分けるよ。本で見た時、そういえば、『わぁ、キレイっ』ていってたからなぁ・・・。あのとき入っちゃったんだ。」と。本でも体験は体験。実物なら、なお良し。
塾の玄関でもディスプレイして、楽しもうかと思っています。
子供ができて毎年やってたことは紅葉した葉っぱを固い色紙のうえに置いてフィルムルックスを張り、詩織などにすることでした。今も昔の色が残っています。若干くすみますが、10年近く前のものです。子どもと一緒に「わぁ、キレイっ」って作った日々が懐かしいです。できのいいものは友人に郵送しました。そのリアクションがそれぞれで面白かったです。一切返事の無い人もいましたがほとんどの人は何か帰してくれます。ほとんどがはがきや電話ですが、中には自分も作って送ってくれる人がいます。アメリカの友人が「何かの実」を紙にはさんで詩織にして送ってきたときは驚きました。アメリカの実はあまり美しくなかったです。でも、現地で、季節を感じるものだったのでしょうね。
たった今、灯油の販売車がやってきました。もう、ストーブの季節になるんですね。
今日は久々に紅葉の詩織を作ってみようかな・・・、と思います。
2001年10月25日 木曜日
昨日は塾通信の発行日でした。いつもながら、仕事が押せ押せになり、編集もぎりぎりでやってます。両面印刷は片面を印刷して一日おいてから裏を印刷するとキレイに仕上がることは分かっているのですが、ココ最近の印刷はこんな理想は言ってられません。原稿もギリギリにそろい、画像もまだ決まってないし、レイアウト枠だけの状態で放置してあります。こんな状態で月曜日は過ぎ、火曜を迎えました。
そこへ塾の旧パソコンのストライキです。処理も遅いし、画像の編集がどうもうまくいかないので、新パソコンでいちいち編集します。印刷に適したプリンターは旧パソコンにつないであるので、これもいちいちプリントアウトします。いい加減、イライラしていたところへ、ガロアの西尾から画像入りの重たい原稿が届きます。旧パソコンで開くと、どんどん時間を浪費します。
どうやら、24ページ分の原稿が揃い、水曜日を迎えると・・・。今度は印刷機のトラブル。紙送りが不全で印刷位置が狂うのです。ご家庭にお届けした塾通信が今回メッチャ出来が悪いのは印刷機の故障のためです。サービスマンの努力でなんとか水曜日に印刷は出来たのですが、仕上がりもに仕上がり枚数も最低になってしまいました。読みづらい通信が行ったら、ごめんなさい。
そして今朝の目覚めは最悪。連日のあわて仕事で首や肩がコリコリに。ここは家事を全部放置して「テルメる」しかないと判断。小平の天然温泉「テルメ小川」へ福島と行ってまいりました。
効きました。最高でした。。久々のテルメ小川は平日で空き空き・・・。「寝湯」と称するねっころんでブクブク泡に包まれる湯で無我の境地に浸ってまいりました。私はここでいろいろ塾のアイデアを考えるのです。男湯は「窯風呂」という浴衣で入る部屋があり、そこは砂の上のござに寝っ転がって高温で蒸される所です。福島は2回ここへ挑戦したそうです。湯から上がった彼のサッパリの顔。
そして今塾に来てこれを打ってます。
今日も夜10時までの仕事ですが、午前中の極楽体験でどうにか持ちそうです。
2001年10月18日 木曜日
このコラムの更新はホームページを作ってくれた人に比較的早いうちに教わりました。自分の文章だから、気は楽だし別に難しい手順ではありません。ところがこのたび「塾生の部屋」の写真更新に挑戦しました。いろいろ失敗を繰り返し、やっと「アクアマリンふくしま」の一部は独力で更新できました。この勉強をやって、初めて「画像の挿入」や「リンク」の意味がわかりました。調子に乗って渡辺のコラムの長尺版を再編集しました。みごとに失敗。彼の書きためた部分も消えるし、本当に迷惑をかけてしまいました。今日、やっとやり直し、すっきり長尺版も読んでいただけるようになりました。
そうなんです。丹誠塾のHPは私たちが独力で作ったモノではなく、以前の地味なHPを見たある方が見るに見かねて、新しく作り直してくれたモノなのです。今やっとその仕組みが分かりかけています。こんな複雑な迷路のような構造のものを頭の中で築きあげ、整然と並べていく作業だったのですね。それにかけた情熱に頭が下がります。実際には彼女の若い頭では造作もないことなのでしょうが、私にとっては尊敬ものです。
さて、HPに掲示板が3つあります。子供用と大人用と人の森用です。人の森用は実名で書き込んで、一日にカウンターが20~30以上増え、書き込み率も非常に高いです。限定の場所なので必ず何か残す規まりになっているからでしょう。私はこれをチェックするのが毎日の楽しみになっています。
問題は、不特定多数のやってくる子供用と大人用の掲示板のことです。カウンターはどんどん増えていくのに、書いていく人がほとんどいないのです。どんなモンでしょう?これってこのままでいいのでしょうか?どこの掲示板もこんなモンでしょうか?せっかWEB制作者の方が作ってくれた交流の場です。私たちの運営の仕方が悪いのか、それとも本来、丹誠塾のHPには必要のないモノなのか考えてしまいます。
前者なら、いろいろ改良してみたいと思っています。何かご意見があったら、送って下さい。
2001年10月15日 月曜日
山森話も佳境に・・・。
土曜日は大源太・日曜日は松之山のきのこ講習会に行って来ました。
13日の朝6時前に家を出発。大源太には9時過ぎに到着。大源太とは湖の周りに遊歩道やキャンプ場を作って、野外活動を提供する施設がある公園です。そばに大源太山がそびえています。この登山道を少し登ってきのこ講習会は行われました。
登山道をそれた沢スジに指導員が我々を導きます。「はは~ん、すでに辺りをつけているな」とは思いましたが、次の瞬間目を疑うナラタケの群生・・・。1つの巨木が沢のほとんどを埋め尽くし、縦に谷に向かって倒れています。そこにびっしりナラタケです。見たこともない量です。参加者30名の袋が一気にずっしり重くなりました。一番最後に着いていた私や福島もあぶれることなく、収穫できました。
きのこ採りはその後、キノコ汁をいただいて散会。今年よく分かったことですが、湯沢や三国・新治の人たちは「木から生えるキノコ」を好んで採るようです。「土から生えるキノコ」は名前をつける興味もあまりなく、「それは食べないよ」でおしまい。じつに潔いです。今回の大源太の指導員の先生も一本モノのの土から生えるキノコはまず、きのこ採りの対象としていませんでした。
反対に前回ご紹介した「きのこ料理」の女将は「土から生えるキノコ」しか興味がない人です。人それぞれ、きのことのつきあい方が違うのだなと感じました。私たちはまだ、ほんの駆け出しなので傾向はなんとも言えません。
きのこ講習会終了のあと、急いで山荘に帰りました。すぐ近くの水源地の上をアタックするためです。午前中のきのこ採りの疲れもなんのその、3時にはいつもの水源地への道を歩いていました。今回は前回よりもっと、奥へ行きたいのです。前回ヌメリスギタケを採った木にはまた、大きなヌリメスギタケがそしてムキタケが出ていました。それをホクホク採りながら、奥へ奥へと目指しました。
前回最終点となった、国道17号が見晴らせる地点まできました。ここで一息。本当に絶景で、絶壁なのです。ここを「サルノコシカケ公園」と命名し、次に行きます。高度は1300ぐらい。ブナやナラの大木の多い斜面を足と手で進みます。今回私は腰の籠もなし。なぜかというとじゃまだし、前回転んでキノコが飛び出たからです。
次の眺望のある場所まで来ました。そこにも大きな倒木が見晴らし台のように横たわっています。そして、風にサラされてない面を覗くとびっしり可愛いナメコが・・・。福島と小躍りして喜びました。私は2度目の天然ナメコ。福島は初めてです。あまりサイズが可愛いので採ったのはほんの一部ですが、それでも満足。ここを「なめこパーク」と命名しました。来年もココに可愛いなめこが出ますようにと願いをこめて・・・。
足取りも軽く下山し、その夜は8時過ぎに就寝しました。2人分の夕食は子どもたちのために作ったビーフシチューをタッパで少々。それと2合の米です。朝食用にトースト3枚、いつもの紅茶缶を持参。残ったご飯はおにぎりに。ゴミもでないし、とにかく楽です。2人分の食料なんてしれています。
翌日は4時に目覚め、エネルギー全快。11月始めの山荘利用者用に一部水抜き用の準備をし、冬のヒーター・コンセントを繋いで山荘のメンテナンスはOK。そして前回「きのこ体験」で持ち帰れなかった荷物を車に入れます。
7時前に準備OKで、松之山に向け出発。途中、清津峡付近の風景、棚田の美しさに魅せられながら、2時間足らずで大源寺公園に到着。
ここのきのこ講習会の特徴は「すべてのきのこ」を判別できる先生がいることです。昨年もたくさんのきのこを教わりました。きのこの先生は料理をする人で、近くの旅館の料理長です。人柄が本当によく、「どれ、どれ、良いキノコ採ってきたね・・・。」といって鑑定してくれるのです。今回もそうでした。開口一番「いいキノコ採ってきたね。カノシタだね。これはブナシメジ、・・・・・」彼に分からないキノコはありません。いつも疑問のものは噛んで判定します。必ず、裏のひだを中心に見ます。彼によるとほとんどのキノコは食べられます。美味しいかどうかは別として・・・。彼の料理法や貯蔵法は実際の体験に基づいたモノで山下のベースになっています。
私は先日「なめこパーク」で見つけたカタハでなく軸のあるツキヨ茸を持参していました。そのツキヨ茸は割っても黒いシミがないのです。これなら、初心者は間違ってしまうのでは、と思い確信はありましたが、先生に見てもらおうと持参しました。先生は「これは珍しいツキヨだね。こういうのが以前椎茸の原木に出て困ったことがあるよ。危ないね。」私が、「先生、このツキヨ茸を割ってみてもシミが無いんです。」といって実際割ってみました。一見シミはありません。でも、先生は軸の根本を指さします。軸の中心にほんのわずか薄茶色いところがあります。上部だけ見ると真っ白です。先生が「本当危ないね。よく知ってるとツキヨ茸って分かるけど、これは危ない。サンプルに下さい。」とおっしゃって、陳列台に持って行かれました。
連日のきのこ遊びに充分満足した私たちは帰りの渋滞のこともあり、その後の昼食・講演を失礼して帰路に着きました。2週続けて子どもたちだけにしているので、できたら日曜の夕食を一緒に食べたいと思い、講習会の昼食用のきのこ釜飯をお土産にして、一路練馬へと向かいました。
今朝、弁当のおかずに鶏肉とヌメリスギタケを炒めて入れました。我が家の食卓は秋はへんてこなキノコが出現します。もう、山きのこの味噌汁は当たり前になっていますが、弁当にクセのある山きのこを入れるのは初めて・・・。お弁当を開けて息子は「やられた!」と思うかも知れません。
2001年10月11日 木曜日
すごい店を発見。
もうこれから、山にも行かないのに「山きのこ」が味わえます。場所は塾のすぐ近く。
前々から福島と一度覗いてみようと言っていた店です。昨夜、人の森が終わって、ちょっと寄ってみました。店を入った時から店の女将は「この2人は何かあって、やってきた。たぶん、きのこ・・・。」と感じたといいます。
ここでいろんなことを教わりました。
まず、はじめて見るきのこの多いこと・・・。きのこ歴5年の山下はせいぜい1300メートルまでで採っています。店にはシモフリシメジを始めとして山下が確認したことのない「きのこの山」がありました。女将は2000メートルぐらいの山へ行くという・・・。土日・祭日は毎週、山へ出かけていると・・・。
カウンターのショーケースにはお寿司のネタのごとく「山きのこ」が並べられています。1つ1つの名前を教わって、知らないモノは実際ケースから出して眺めさせてもらいました。私はこれがしたかったのです。一番驚いたことはどのきのこもきれいなのです。痛みの無い良い状態のものを選んで陳列しているという事情もありますが、それより何より女将の採取の仕方です。
「きれいに採っていらっしゃるのですね?」と私がいうと、女将は「そうよ、山のものは大切に採って、土や菌糸はその場に返して帰ってこなくちゃ・・・。」というのです。
私は料理をするモノとしてその場でキッチンばさみで下ごしらえをして帰ってきていました。時々はそのままチョキンとやっているときもありました。女将は「根を残すのはだめ、手で丁寧につまんで引き抜いて、その後丁寧に下の部分を落として持って帰るのよ。菌ごとすべて東京に持ち帰って、ごみに捨てる必要もないし、山にとっても落として帰るべき・・。」
私はこの女将のきのこ採取の姿勢に深く頷きました。『わたしもこれからはそうやって採るぞ。』
話は料理法や貯蔵法へと移ります。私がやっていた虫を出して、かるく熱湯をくずらす方法はイグチには良いが他のきのこにはもったいない。特にナラタケにやると「ダシ」がでてしまう・・・。ナラタケなどを採って保存する場合や料理の方法を教わりました。ひとつひとつの話が目から鱗状態です。
そして目的のきのこ料理を味わいます。けんちん汁と土瓶蒸しです。けんちん汁にはナラタケを始め雑きのこがたくさん。里芋・ゴボウはやはりきのこを生かします。土瓶蒸しはさっきのシモフリシメジ。これが絶品・・・。もう、言葉では言えません。今までの私のきのこ料理は何だったのだ・・・・・・。ががっ~ん。
貴重なきのこを大切に持ち帰り、いい状態で料理する。これが最高。
隣にいたおじさんが「風邪を引きそうになると、ココへ来るよ。きのこ料理を食べると治っているよ。」と言います。そうです。良い料理とは風邪をも治すものなのです。食イコール薬なのですね。
一時間を限度に寄っていたので楽しい時間はあっという間に過ぎました。女将は「採ってきたら、見てあげるので持ってらっしゃい。」と言ってくれました。ありがたい!
これで、東京のきのこの師匠誕生。料理法にも貯蔵法にも詳しい女将。「山を守る」視点を持つ素敵な女性でした。もちろん、きのこ同様クセは強そうですよ。でも、私はお近づきになれて良かったです。
2001年10月9日 火曜日
「きのこ体験」無事終わりました。いろんな事がありすぎの3日間でした。だから、コラムも長いです。
【わらしべ長者風・・・沼田体験記】
田無を8時過ぎに出発。途中いつになく混んでる一般道。やっと9時過ぎに関越に乗りました。
車は2台。私が乗ったのはシャリオの7人乗りに4人で。運転手は一番の若手のY君。いつもなら福島が運転するのですが、例の腰痛でなるべくなら楽に行きたいという希望でそうなりました。
今回は沼田で高速をおりて昼食・買い物全般をおこなうという計画。事前にBOOK OFFで仕入れた「るるぶ」で「ケ○○○○○○○○」というテーマパーク(?)を知り、オリジナル発泡酒や自家製ソーセージ、ドイツパンが食べられる・・・と期待して行きました。近づくと少し高い場所に周りの景色を壊しているペンキ塗りの家型が見えてきます。『まさか?あの関越から見える趣味を疑う建物が目的の場所ではないよね・・』とみんな口々に不安を言います。でも・・・・、そうだったのです。
大きな駐車場に車をとめた瞬間、みんなの胸に「ここで引き返そう・・・」という雰囲気が漂いましたが、福島の「見るだけ見てみようよ・・・」と言う言葉に一同、動き出しました。一同とは「人の森」関係の若い衆4名と福島・渡辺・山下の7人です。
「ケ○○○○○○○○」は半死の状態でした。人を迎える姿勢がすでに無くなっているようでした。ライフュン通り商店街と称する町並みは開けてる店が一軒もなし。外のトイレも鍵が掛かっています。観光用に作ったのに観光客の居場所が無いのです。一同が唖然としていると、福島が「あの建物は立派そうだよ・・・。」と言うので中に入ってみました。ドアを開けると古い油の焦げる臭い・・・。この料理はどうも違うぞ・・・と思いつつ、レストランをさけて土産物コーナーへ。そこで自由に飲めるお茶がありました。名前は唐辛子梅茶。このお茶に最後の希望を見つけようと、飲んだら・・・、これが「激烈にまずい」シロモノでした。沼田のみなさんごめんなさい・・・。悪口ばかり書いて・・・。でも、これからいいところも紹介しますので・・・。
たくさんの挿話をつくってくれた「あの建物」を後にして、同じく「るるぶ」で紹介している「とんかつトミタ」で昼食をとりました。ここは可もなく不可もなく、平均的なドライブインでした。ただ一つ、不明のメニュー「ノンアルコール・ゲ○○○って何ですか?」と尋ねると、係りの女性が即答で「気の抜けたビールよ!」と教えてくれた時には一同爆笑・・・。
その後、簡単にスーパーを探して、買い出し→山荘着の予定だったのですが、「近くに蜂蜜を売ってる店があるみたいだから、行ってみたい・・」とのりとが言いだし、時間も余裕があったのでいってみることにしました。
ここからがわらしべ長者的沼田発掘の旅です。
「花 蜜蜂館」これがその蜂蜜屋さんの名前。車から降りて入り口へ歩いていこうとする私たちに「お~い、今蜂来たよ。」と声が掛かります。見ると捕虫網を持ったおじさんがいます。「今ね、スズメバチをとったよ。ヤツらは肉食だから、蜜蜂をネラって来るんだよね。」というと目の前で大きなスズメバチや黄色スズメバチの浸かったビンを見せます。蜜蜂の巣箱をそうやって守っているのです。巣箱を覗くとたくさんの蜜蜂が動いています。帰ってきた蜂は胸が花粉で黄色です。
そこから、おじさんのパーフォーマンスが始まりました。大きなスズメバチがやって来たのです。おじさんはひるむことなく、キティちゃん柄の捕虫網を一振り。確実に一度で捕獲します。それを器用にびんにいれて蓋をします。中では焼酎が待っていてスズメバチエキスの焼酎ができあがります。一ビン5000円程度で予約が一杯状態だそうです。
おじさんは私たちにもスズメバチを捕獲しろとそそのかしますが、さすがのお調子乗り集団もシリゴミしました。そのおじさんからは「なぜ、同じ種類の蜂蜜が集まるのか」を丁寧に教わりました。いろんな花のある場所に巣を設定したら、まず蜂は一回目は何種類かの蜜を持って帰ってきます。その時蜂達は収穫量ナンバー1の花を特定して、その後はその花の蜜しか集めない・・・という仕組みがあるというのです。なんと合理的じゃないですか。1回目のトライで収穫量の多い花が一番その近くで集めやすい花ということになり、全員でその信号を共有し単一の蜂蜜になっていくプロセスです。おじさんは立ち話でいろいろな話をしてくれました。なにより素手で大きなスズメバチと闘う姿は「尊敬に値します」。だから、説得力があるのです。
もちろん、蜂蜜の製品も素晴らしく、たくさんのお土産をそこで買いました。おじさんに地域情報をもらおうと思い、「どこで買い出しをしたらいいか・・・」と尋ねると、すぐ先の農産物直売所を教えてもらいました。「白沢・道の駅」の隣の建物らしいです。全く初めての土地は「道の駅」が有り難いです。
「白沢・道の駅」の農産物直売所は大盛況でした。車が一杯です。近くで野外クラッシックコンサートをやっているらしく「調べ」が聞こえてきます。
時間が押してるのが感じられる山下は買い物かごを持った若い衆を3人従えて、ボンボン野菜を入れていきます。カボチャときのこを合わせてサラダにする予定なので、外からみてカボチャを選びます。大勢の人、多くの種類のカボチャの中で、私の目はカボチャの中味を透視しようと懸命です。でも、よく分からないので色の濃い形の良いカボチャ150円を選びました。きのこサラダはこのカボチャの善し悪しで決まるのです。(結果は翌日出ました。バッチリ、栗のような味のよいカボチャでした・・・・。)
まだ、終わりませよ。その野菜直売所へ行く途中、「信じられない光景が・・・・」テレビのガチンコのナレーションのようですが。いつも四万温泉に行く途中(中之条)に、必ず立ち寄る「たまり漬け」の店があったのです。最近沼田の120号沿いに開店したというのです。趣味の良さそうな食事コーナーもあり、「知っていたら、トンカツなんて食べなかったのに・・・。」と思わずお店の人にグチってしましました。昨年から、我が家の味噌・醤油はココのものが中心。もう切れそうになっていたので、値段にも負けず、迷わず購入。見るとノリトも味噌・醤油をもって先にレジにいました。「ヤツらも若いくせにこだわってるんだ・・・。」と感心。最近忙しくて四万温泉に行く機会がなく、このたまり漬けの店ともご無沙汰だったのです。沼田にできたとは朗報。
この店の出店は大きいです。これからはまず、沼田で高速をおりて蜂蜜→たまり漬け、食事→農産物→その他の買い物をして山荘へという、順路になりそうです。
120号なんて知り合いの尾瀬山荘へいった10年前以来です。もし、蜂蜜の店に行ってなかったら、これらの店に行き当たらなかったと思います。最初のテーマパーク(?)は別にして、わらしべ長者的沼田の店発見記でした。
【きのこの先生M講師は待ちわびて】
山荘に約2時間遅れて到着した私たちを待っていたのはM講師の落胆した顔でした。「去年と違って、この辺はきのこ、全然出てないよ。地力の問題で3年に一度とか、ちゅう風に出るのかな?」とがっかりしているのです。聞くと早いウチに山荘について山荘東側の斜面をずいぶん上がって調べたという・・・。「全然だめ・・。」とはどの程度か。心配でしたが、ダメなら最近教わった和田小屋付近に挑戦すればいい・・・・、と思っていたので山下は方針は立てていました。
M講師は、ご自分の地元のきのこを持参してくれていたので、ひとまず塩ゆでをして、明日の「きのこ鍋」に備えます。ナラタケ、スギヒラタケ、ハナイグチなどが無造作に籠に入っているのを見て、安心した山下でした。
その日はキノコと関係ない食事でエビチリソース中華風・ブロッコリー・なすと生揚げのピリ辛炒めなどです。M講師はミョウガの酢づけを持参。シンプルな味に感心。
夜は例のごとく、M講師の独演会(?)となりつつも、彼の話は面白く若い衆も最後は知らず知らず、話に引きずりこまれる・・・という感じでした。今の若い人にはあまり「味の濃い」人はいません。これから、何年年を経てもM講師のような味はもう出てこないのじゃないかと思います。彼の話にはその時代、その場所の臭いや色彩があるのです。変わった経験をした人ではないのですが、いろんな時代を色濃く生きてきた感じがします。
さて、明日に備えて比較早く、山荘は静かになって全員就寝しました。その日の到着者は私たちとM講師のみでした。翌日は9:30目指して参加者がやって来ます。
【きのこ採りとは藪を漕ぐこと?】
9:30に間にあったのはA先生一人だけでした。あとの参加者は午後からのきのこ採りからスタートということで9名で近くの水源地の付近に行くことになりました。なぜ、A氏を先生と呼んでしまうかというと、私の山菜の先生だからです。何かを教わった人にはいつでも敬意をこめてそう言っています。少なくともA先生には心の底から尊敬の念を持って「A先生」と言っている自分がいます。一緒に山を歩くと、その知識の豊富さに脱帽です。そのさらりとした知識の披露の仕方もマネができません。未熟な私はA先生の受け売りをしゃべっている自分を見つけて「知った風なことをいう・・・・」という密かに自己嫌悪しているのです。
今回はきのこ・山菜の両先生が偶然揃って、私にとっては盆と正月が一緒に来た状態です。山菜でどうもイマイチ確認できなかった、2種類の草が今回バッチリ認識しました。来年はとるぞ~!と喜びました。
話を戻して、水源地の上の道は藪・がれた石などで決して楽しい道ではありませんでした。結局7名が最後まで残って登りました。最高の眺望と滑落の危険の両方を味わえる地点で時間切れとなりました。はるか下方に17号の車を見て、自分たちがどんなに高度を稼いだか実感しました。山下の心境「もっと、上まで行きたい~。」
でも、ここで切り上げないと午後から参加の人を待たせてしまうので、撤収です。それにお腹もすいたし・・・。水源地での収穫はナラタケ・ヌメリスギタケ・クリタケ・チャナメツムタケ・ヒラタケ・キツネノチャブクロなどでした。私は新しくM講師によってシワカラカサタケを知りました。あと1つ分かったことは前回の和田小屋付近のブナシメジはシロタモギタケ属で名前はまだ付いてないモノでいまはブナシメジとは言わないでとりあえず、シロタモギタケと言った方が良いことも教えていただきました。きのこの種類がどんどん増えて、どんどん私の気持ちがきのこに向かっていくのが分かりました。
山荘に着くと渋滞で難儀した2家族が到着していました。さっそく、福島の案内でスギヒラタケ採集に1家族が出発。私たちがお昼休憩の間を利用してです。収穫したスギヒラタケは山下が塩ゆでして翌日その家族のお土産になりました。とってすぐ軽く塩ゆでしておくと、帰ってすぐみそ汁などにいれて楽しめるのです。
さて、本格的きのこ採り「和田小屋付近」に挑戦です。私がきのこ料理のために山荘に残るというと、A先生は「みんなで行きましょうよ。夕食は簡単でいいから・・・」と言ってくださいました。気持ちは4割ほど動いたのですが、あとの6割は思う存分時間をかけてきのこ料理をしたいと、言っていたので、山荘に残りました。
みんなが出発した1:30から4:30ずっと、休みなく、きのこと格闘・・・。楽しいひとときでした。最初の2時間は全部下ごしらえです。採取したきのこは採取者の性格で、ゴミや泥を落としているモノやそのまま汚れたモノ、いろいろです。山下の場合、自分が洗ったり、ゴミをとったりすることが前提なので採取の段階でキレイにします。でも、他の人のは次々と見つける野生のきのこに興奮して下の部分からごっそりとって、泥を他のきのこにも付けてしまっています。
この下ごしらえの作業が楽しい人はきのこ好きです。
メニューは定番「きのこ鍋」。今回初めてすべてのキノコが自分たちで採取したものでした。野生のきのこ以外は使いませんでした。味付けは塩・醤油のみ。里芋を始め、たくさんの根菜にたくさんのきのこ。必需品はゴボウ。残ったモノは翌日味噌仕立てで2度、楽しめます。
次は昨年より登場の「きのこハルマキ」。中の春雨に味を吸わせてオイスターソースでまろやかな味つけをして、巻いてあげます。巻く作業だけはみなさんに頼みました。(これのみ下ゆでの不要の栽培のマイタケ使用。来年はマイタケも自分で調達したいな~。ちょっと無理か?)
最後は今年初挑戦の「きのこサラダ」。キャベツをゆでて絨毯のように折り重ね、上から押さえて水分をぬきます。高さが10㎝まで重ねて角にカット。ふかしたカボチャ、湯通ししたパプリカをトッピングして待機。ここからがメイン。下ゆでした野生のきのこをバターで軽く炒め、最後にふりかける。(その直前にごま仕立てのドレッシングをかけておきます・・・これは東京で作ったモノを持参)
和田小屋挑戦グループの奮闘話はあとで福島から聞いてびっくりしました。全員本格的な藪漕ぎをして、みんな着いていったという話。特にI夫人の山での動きはすごかったという・・・。私も見たかったな、でも料理も楽しかったし・・・。
その夜の料理やお酒の感想はたぶん参加した方がいろいろ塾通信に書いてくださると思います。お酒の種類は4つ。〆張りツル・緑川・八海山・麒麟山です。後の3種類は封を切ってないモノだったので、2晩で3升以上飲んじゃったことになります。いや~新潟のお酒はコワイ。
ここまで書いてちょうど時間となりました。休み明けの朝はいつもたくさんの洗濯モノをやりながら、コラムの更新になってます。今日の火曜日は小3のクラスです。今「魔法をかけられた舌」(安房直子)をやってます。「本当の料理人はなめただけでピタリとその中味をあてる人だよ・・・・」というくだりを読んで、みんなで香辛料を嗅いだり、オムレツの具を目をつぶって食べて当てたりしています。今日は例の蜂蜜をなめさせて、その後「ききハチミツ」をさせようと思っています。種類はみかん・びわ・尾瀬の雑蜜です。
「感覚こそ力なり」とは故野口先生の言葉です。西尾氏がよく引用する言葉です。授業の中心にこの「感覚を磨く」要素や「感覚で遊ぶ」要素がある時、なんとなく山下はうれしくなってしまいます。
山森話のできる期間(きのこシーズン)はコラムが長くなっていまします。山に雪が降るまで、ほんのしばらく、おつきあいのほどを・・・。最後まで読んでくれた方に感謝です。
2001年10月3日 水曜日
イベントの報告です。
1日の都民の日に「潮目に会いに行こう」というイベントで福島県のアクアマリンふくしまへ行って来ました。
【昨年の衝撃】
昨年の風の教室(ヨット)でたまたま近くだった関係で覗いたのがきっかけです。いわきには炭坑や恐竜などを扱った博物館も充実しています。ヨットでお世話になる宿のおじさんは博物館のボランティアをしていて、そのご縁でそこへも行きました。そのおじさんが「こんどすごい水族館ができるから、是非そこへも子どもたちを連れて行ってよ・・・。」といっていたので、昨年さっそく覗いてみたのです。
その時の衝撃を忘れることができません。とにかく、どのコーナーも驚きの世界が待っているのです。見せ方が上手。1つ1つの水槽に生き物の完全な世界があるって感じです。
たくさんのコーナーの中で特別にあげると
①オウムガイを見せ、古代のアンモナイトを説明するコーナー。古代と現代が繋がる瞬間。
②北の海の海獣のコーナーでは、トドの水槽の迫力に驚かされ、セイウチがこっちに向かって泳いでくるのを思わず、身体をかわしてよけてる自分がいます。また、ラッコの可愛さ・・・。ラッコは岩では歩いて移動するのですね。
③くらげの浮遊。たまりません。ずっと見ていたい気持ちと格闘してその場をやっと後にします。
その他、数え上げたらきりがありません。こういう衝撃を昨年受けて、「絶対、子どもたちを連れて来よう。」と心に決めて帰ってきました。その時は夏休みが終わった8月29日あたりだったのですが(福島県は20日過ぎに新学期)、まだ地元のリピーターが列を作っていました。「よし、来るなら、都民の日。地元の子どもは学校だから・・・。」と日程も決めて帰ってきました。
【当日はずっと雨、そして息子のスタッフデビュー】
前書きが長くなりました。そんなわけで遠方の水族館への企画が登場したのです。
「アクアマリンふくしま」へ行く途中、いつも曲がっている「小名浜サンマリーナ」への道があり、思わず曲がっていつもの海へ出ようとしている自分がありました。場所に身体が規定されてることに驚き。
前々日から腰痛が悪化した福島はスタッフを息子に頼んで引率には加わりませんでした。若い頃、患った椎間板ヘルニヤが再発してたら、イヤだなと思いながら、レントゲンをとりに出かけたようです。
当日はあいにくの雨で一日中降っていました。体調を崩す子どもも続出して、多少あわただしくバスは出発しました。渋滞をさけた時間帯だったので予定通りにスケジュールは進みます。実際バスに乗ってるのは3時間。その間2度の休憩を約20分前後取ります。
バスに閉じこめられていた小学生はサービスエリアに着くと走り出します。それが『こどもの自然』なのですが、エリア内での交通事故を良く知っている山下なので、ドアを開ける前にコンコンと説明します。「わかったね、車が止まるとは限らないよ。走らないでね。」「は~い。」・・・・でも、必ず、小3の○○くんと小2の△△くんは全力疾走しています。分かっても走ってしまうヤツらです。
小1、小2のサービスエリア担当を任された息子はカルガモの親子のように子ガモを引き連れてトイレに行きます。スタッフデビューの彼は「声」という最大の武器が使えません。「お~い、こっちこい!早くしろ!危ないだろう!・・・」と人前で声を張れるようになったら、スタッフも中堅。最初は一人にしか伝えられない声から出発して、多くの悪ガキどもも従える「声」を持つように成長するのです。
そしてその次は大勢の人の「気持ちを繰る」楽しさを見つける段階に入ります。つまり「うけること」を感じながら、人前に出て話すことです。こういう先輩を見ながら、「自分もみんなの前でこんな風にかっこよく話してみたい・・・」と後輩は思っているのです。口ではやじりながらも・・・。
【バスの中では】
さて、ここでバスでの一コマを紹介します。
しりとり、仲間あげゲームに飽き、ほとんどの子が眠っている帰りのバスで、最後までエネルギーが切れない○○くん、△△くん、□□くんがいます。
「爆弾仕掛け人の試験を行う」→「あめ玉を飲み込んだヤツは資格を持つ」というルールができあがり、今度は何時何分にどこに爆弾を仕掛けるかが、次々と爆弾仕掛け資格者間の話し合いで決まっていきます。そしてとうとう、その時刻が近づいてきます。時計は運転席の上部のデジタル表示で、みんな共通に見えます。4時42分に爆破予告があり、秒読みが始まります。そしてその瞬間をどう表現するかというと、高速走行中なのでシートベルトをつけています。そのボタンを一斉にはずすという動作です。もちろん山下にも強要します。「ええ、イヤだな。そんなこと協力するかな・・。」と思いながら、42分にみんなとシートベルトをカチッとはずしている自分がいました。運転席の渡辺は「自分が入ったら、あ~もやる、こ~もやる」と思って運転していたようです。
もちろん、この爆破予告の発想は連日のニュースに影響されていることは確かです。アメリカのテロの悲惨を思うときこんな遊びをやるとは・・・、不謹慎と思う向きもあるでしょうが、「報復する・・」と息巻いてる大人の頭も「ドッカ~ン」といってシートベルトをはずす小学生も程度は同じかなと思います。的を定めて攻撃作戦を立てることは自分の安全が保証されている限り、楽しいゲームだからです。
バスの喧噪の中、激しい睡魔と闘いながら、子供らのタフさ、何でも遊びにする創造性、大人社会のコピー度に驚きや戸惑いを感じて帰ってきた山下です。
こうして「潮目に会いに行こう」は終了しました。夏休み明けから、古代米、アクアマリン、きのこ体験と休日イベントが続きます。今は次のきのこ体験に「どんな料理にしようか・・・」「どの山に入ろうか・・・」と巡らせている山下です。日程の関係で今回参加できない方には個人的な福島・山下きのこツアーもありますので、是非気軽に「キノコに行きたい・・」と声をかけて下さい。
福島の見立てはヘルニア再発ではなく、座骨神経痛ということでした。本人は若い頃の症状に戻ったのではないのでひとまず、安心。体操・ハリなどで気長に治していく覚悟のようです。でも、腰痛は頭に雲がかかったようで本が読めないとぼやいています。ふくせんの「ぶっくりしたなぁ、もお」は腰痛がおさまるまで、オヤスミとなりました。ご了承下さい。
それから、森の教室の写真をCD-ROMでお分けしています。保護者の方または参加者限定で500円です。セレクト版77枚か全記録525枚かを選んで、山下までお申し込み下さい。いい写真がたくさんあります。メールでも結構です。もう3人のお母さんからの注文がありました。みなさんパソコン世代になってきてるんですね。
2001年09月27日 木曜日
生き物の話です。
先日のきのこ・テニスツアーの最終日のことです。我が家には夕方6:20ごろに到着しました。連休の渋滞が思ったより早くスタートしていて、所々ノロノロ運転をしながら、帰ってきたのです。
娘を待っていたのは「ウサギの突然の死」でした。留守番の息子は「きのう野菜をあげたときは元気だったのに、今日見たら、ずっと動かないのでどうしたのかと思っていた・・」という言葉。
娘は部屋にこもってなにやら、やっています。しばらくたって、福島が「庭に穴を掘るから、埋めてあげよう・・・。」と声をかけました。部屋からは「うん。」と小さく返事が聞こえたので、彼は帰って早々、穴掘り仕事を始めました。娘は真っ白いタオルに真っ白のウサギをつつんで、庭に運びます。もちろん泣き顔ですが、いつものセレモニーを淡々と行っていました。
ハムスターから始まっていろんな小動物を飼ってきました。ウサギは4月に塾生の小学校から2匹もらって、かわいがっていました。1匹はウチに来てすぐ、元気がなくなり、死んでしまいましたが、このウサギは始めこそ元気がなく、足も引きずっていたのですが、どんどん慣れて、本当に可愛い存在でした。娘はウサギを抱いて大きめのイスに座り、よくテレビを見ていました。専用のひもをつけて散歩にも連れ出して、草を食べさせていました。ペットの苦手な母親の手前「世話は全部、私がやる」という約束を100パーセント守って、見事にやっていました。
私は食事の準備もあり、ウサギの葬送の儀にはつきあえませんでした。終わって、食卓についた娘に何をいってよいか、迷いました。出てきた言葉は「○○ちゃん(娘の名前)、ご愁傷さま・・。」それだけでした。娘は「どうも。」と静かに頭を下げました。なんだか親子でおかしな光景ですが、娘の悲しみをたぶん10分の1も共有できない母親なので、よけなことを言いたくなかったのです。
そういえば、その日も山の道でリスが死んでいました。車に頭部を当たられたようで、横たわっていました。野生のリスなどすばしこくて普段マジマジと見ることはできません。でも骸となったリスは易々と人間に観察を許します。さっき当たられたらしい痕跡ですが、もう硬くなり始めています。娘と娘の友達はごわごわ近づいてその無惨さと可愛さに言葉を失っています。福島がしっぽを触って、「ほら、しっぽだよ、可愛いね」と言うと、娘の友達は「かわいそ、すぎて触れない・・・」といっていました。そのリスの死骸は道の端っこに福島によって運ばれ、娘たちは口々に「生きたリスを触りたかったな・・・」と言ってその場を立ち去りました。
そして小一時間後にその場を通りかかったら、すでに死骸はなく、、みんなてんでに想像して、結局「めざとい肉食動物に運び去られたんだ」ということになりました。娘は福島に「お父さん、今度、少し弱ったくらいのリスを捕まえてくれないかな・・」と言っていました。
先日洗濯物を干しながら、ウサギの墓に墓石として山梨で拾った水晶がのっかってるのを見つけました。
今、我が家の小動物は塾の実験用に福島が購入した文鳥のゴンピーだけです。ゴンピーは何が原因か頭や体がはげています。日光に当てたらどうか?ガラスごしに猫がねらっているのがイヤなのか?塾に連れて行っていつもかまってもらったらどうか?・・・いろいろ意見は出ますが、とにかく気にかけて世話をしないといけないと肝に銘じた福島が毎日せっせと声をかけています。
「ゴンピー、おはよう・・。」と文鳥に声をかける福島が想像できますか?
2001年9月5日 水曜日
やっと、日常が始まりました。
HPの更新も1学期中は日課となっていましたが、夏休み中は東京を離れることが多いので、しばらくお休みをいただきました。
いろんな事があった夏です。
①早い時期の森の教室は適正規模で楽しかった。卒業生がマイカーで手伝ってくれて、運転嫌いの私の代わりにドライバーをやってくれた。
②初めて長野県の懐の深さを感じ、いつか上高地にチャレンジしようと誓った安曇野の景色も平和だった。。
③虫取りにズッポリはまった福島の影響で標本づくりに自信がついた。私の飾ったトンボが一番美しい。エノコロ草を考えついた人に脱帽。
④今まで食べずに嫌っていた「もんじゃ焼き」を上京した妹の希望で初体験。その美味しさにびっくり。
⑤山梨の渡辺のりとの親戚の桃農家で味わった「かたい桃」も実に美味しいことがわかった。
⑥8月26日からのサマースクールの休憩時間に山に入ると「きのこ」が始まっていた。こうしちゃ、おれん!
⑦夏休み最後の日に田舎のいとこの訃報届く。
ほとんどの出来事が「味覚」付きなのが、私の特徴でしょうか?ビールもおいしく。この夏、思い出とともに目方も残った山下です。腰痛の福島が体重をきちんと落として努力しているそばで、グビグビ飲んだり、ワシワシ食べてる場合じゃないと分かっているのですが・・・。
2001年8月10日 金曜日
暑い東京に一時帰宅。明日から長野へ行きます。
ただ今、洗濯物に追われながら、家の掃除などをやってます。
苗場ではむすこの指導で初めて軟式テニスをしました。
ラケットの同じ面で打つこと、前衛と後衛の動きなどをじっくりと教わり、「部活でこんなことをしていたんだ。」と感心する母でした。息子は初心者のとりやすい所に玉をコントロールして打ちやすいリズムを作ってくれます。時々、「カットしたよ、」「とか、回転かけたよ、」とかレベルアップをします。いい先輩だったんだろうな・・・、と思いながら、テニスを楽しんでいると、娘が私と打ちたがります。私は「お母さんは下手だから、上手な人とやりたいのよ。」と断ると、自分もウマイと思っているらしく、「失礼ね。」と怒ります。だって、つい最近始めた一年生じゃないか・・。
娘のフォームは無手勝流で、やたらと玉に勢いがあります。父や兄から、「素質がある、玉の軌跡がいい。」と言われ、ちょっといい気分になっています。でも、コントロールが超メチャクチャです。
私が知ったかぶりで、「何だか、フォームが変だよ・・。」というと
父が「素振りをやって固めるしかない時だけど、打ちたいんだよな。」
福島は球技はなんでもウマイです。若い頃、私は福島に教わって硬式テニスの練習をしました。息子の軟式と同じく、初心者のむちゃくちゃな玉を、確実に返球してくる巧さに恐れ入ったものでした。
夜は山荘でテーブルテニス(文字通りテーブルで)をしました。21点先取でやっと、息子に勝ち、気分よく眠りにつきました。
涼しいというより、寒いくらいの苗場の気候から、ねばりつくような東京の暑さの中に戻り、こんなコラムでも残せる自分がすごいと思います。暑さは人間の思考を粗くしますね・・・。
明日から、安曇野で「私塾の会」関係の集まりに参加します。竹取物語の朗読もあるようで、今朝福島から私の担当の部を渡されました。どんなことをするのか全く不明ですが、涼しい長野を楽しんできます。
2001年8月6日 月曜日
やっと、夏休みが始まりました。
例年だと、夏期講習→森の教室という順番が、今年は森の教室→夏期講習という具合に逆になりました。これがつらい、つらい・・・。森の教室はどっちかというと身体にひびく、肉体労働タイプ。夏期講習はご存じのように受験生も扱う、頭労働タイプ。森の教室で脳の目が粗くなっているところへ、連日のクーラーの中の頭脳労働・・。もう、苦しかったです。
夏期講習も3日に終わり、待ちに待った夏期休暇。これは自由業の特権かな?自分で休日を決められるという所が。でも、結局、次の何かにむけてアンテナを伸ばす時期なんでしょうけど。
今年の夏は家族ものは明日からの苗場テニスのみです。去年好評の桃狩りも「人の森」で行くと子どもに告げると、「じゃ、立派な桃を買ってきて・・」というだけ。自分らが行かない分、桃を現物でもらった方がいいという判断らしい。
今回のアンテナは安曇野。私塾の会の関係で、ある編集者の方とお会いする予定。くわしいことはあまり、情報としてありませんが、もしかしたら、大きな出会いになる予感があります。
とりとめもなくて、申し訳ないですが、先日のDIGのフィールドで青梅の森へ昆虫採集にでかける企画がありました。子供用の施設に子どもがいなくて、ご老人の森になっていたと、福島が帰ってきていっていました。その中のご老人が下見に来た福島の言葉を覚えていてくださって「カブトムシをとっておいたよ。あげるよ。」と言って、天然のカブトムシを下さってことに感激。小さなネズミを仕掛けでとったり、トンボ、サワガニなどそれぞれのハンター心をくすぐる一日だったようです。参加したお母さんも「大人が行けばいい、本当はまってしまう。」と感想を述べられていました。いつか、大人向けの「昆虫採集ツアー」もいいなかと思っています。終わったら、ビール付きで・・。
しばらく、ホームページの管理が出来ないかも知れませんが、年に一度の長期休暇中とご勘弁下さい。
2001年7月31日 火曜日
先日久しぶりに家族4人で外出しました。行き先は目黒の「一茶庵」でした。福島曰く、蕎麦は「一茶庵」が一番だと。人の森のそばうちのお陰で蕎麦のおいしさがだんだん分かるようになったので、楽しみに出かけたのですが、「店主病気のため休業・・。」という張り紙にがが~ん。
あ~あ、ちょっと間に合わなかったか。また元気になって再開してくれることを祈って、池袋へ。今度は地中海料理の「文流」を目指しました。我が家は極端に外食が無い家なのですが、息子も高校生になって、あと3年くらいしか、一緒にすごせない可能性もあるので、私たち親のオススメの店を子どもにも味合わせようという考えが起こり、実際に出かけることになったのです。
感想は
息子「美味しいけど、もったいない・・・。」
娘「デザートが超うまい・・。また行きたい」
きのうの食事当番で息子は「地鶏の○○ロースト・・・○○風」とやらを真似たのか、チキンを焼いていました。なんやかんや言っても、美味しいものを食べると刺激されるようです。今度はどの店に連れて行こうか?今考えています。
2001年7月27日 金曜日
森の教室が無事終わりました。今回初めて7月の20日という夏休み初日からスタートしました。
小学低学年の参加者が今までなく多く、人の森のスタッフや高校生の力を借りて、大きな一家族となって生活した5日間でした。
時期的な理由なのか、たまたま今年がそうなのか、はっきりしませんが、夕方のにわか雨が少なく、夕食をゆっくり楽しめました。また、虫の発生も例年の時期(これより10日から2週間あと)と比べると、ハチ・アブのたぐいが極端に少ない・・、など過ごしやすいことが多かったです。
さて、今年は「新しい森の教室」のスタイルを見つけた年でもあると思います。
うまくまとめられませんが、紹介します。
①森の中のシンプルな遊び空間を作り、同じ遊びを何日も続けて遊ぶ。
敷地内の木を切って、木と木に渡し、ロープで結わえ、そこからロープを垂らして、ターザンごっこ。
これを子どもはあきることなく毎日繰り返しました。腕力と体重の関係は見ての通り・・・。初日さんざんだった子もだんだんとうまくターザンできるようになり、仕掛け人の福島を驚かせていました。
②山荘付近の川は冷たすぎ、標高の低いところまで下りて、護岸工事のしていない野川の「川遊び」場を見つけました。
泳ぎあり、魚とりあり、そしてオオムラサキを筆頭にすごい昆虫の数・・・。「生き物はやっぱり水辺なんだ」と思わず実感する、昔ながらの野川でした。そこに行くだけですでに「遊び空間」が待っている感じです。
①も②も始めから、細かく計画的に考えていたわけではないのですが、なんとなくここいらへんが面白いのでは、とやってみたことです。
あとで振り返ると、子どもに遊びを仕掛けることをしないで「空間」だけ、かんたんな道具だけ用意しただけのことでした。子どもは隅から隅まで遊びを仕掛けられることに慣れています。テレビ・ゲームがそれです。安全に衛生的に何より、人を相手にしないですみます。
子どもの遊びについての指摘はよく耳にしましたが、今回①②の遊び空間の子どもを見て、東京での遊びと森での遊びの違いを痛感して帰ってきました。
子どもにとっては日常的にある「遊び空間」が一番です。
田無に近づくにつて、「遊戯王」や「ポケモン」の頭になっていく子どもたちを感じながら、この子たちと5日間を共有したことを満足に思い、お迎えの家庭の方にお返ししました。
山荘で子どもらは一度もテレビやゲームの話をしないで過ごしていたことも驚きでした。
最後に特筆すべき③のことについて
③中学生のグループにはバスでの移動ではなく、自分たちで計画を立てて、JR・バス・徒歩で山荘を往復させました。これも彼らの大きな自信になったと思います。小さい参加者の多い森の教室を中学生としてよく、手伝ってくれました。
久々のコラム更新です。まだ、整理のつかない頭での報告です。8月末に発行の塾通信には参加者の声が掲載できると思います。そちらもお楽しみに。とにかく、森の教室は終わりました。
2001年7月18日 水曜日
きのう、池袋から帰ってきた福島がまたがっかりしています。
「FOX BEAGLE(フォックス ベーグル)が終わったよ。・・・・」という話です。ベーグルは最近流行らしいですが、ここのベーグルは水を一切使わず、すごく固いものでした。もう、10年以上食べていますが、最近、どんどんやわらかくなってきて、「前の方がよかったね。」といっていた矢先でした。なんとなく、イヤな予感はあったのですが・・・。3月あたりから、池袋のなじみがどんどん減っていきます。同じく池袋西武に入っている「加島屋」がなくなったら、もう池袋へいっても定番コースがなくなってしまいます。
あのベーグルパンを半分にカットして、トースターで焼き。それにマスタード、ハム、キャベツの千切りをはさんで、あごの力で、ガッツン、ガッツン食べる・・・。もう一度やりたかった、朝食でした。
2001年7月12日 木曜日
吉祥寺に「もか」というコーヒーの豆を売る店があります。私たちが大学時代からあるので、もう25年以上続いていることになります。
はじめは喫茶店と豆売りの2本立てで営業していたのですが、ある時から喫茶店の部分を閉じて、豆売り専門になりました。このリニューアルする前の期間、「もか」は店を1年間閉じました。その時、私たちは東京中の評判の豆を求めて、歩きました。八王子の○○の豆。池袋・新宿の豆。誰かが褒めた豆は一度は試そうと努めました。が、分かったことは「もか」の豆を超える存在は無い。と言う事実。私たちは『もし、もかが再開しなかったら、他のコーヒー豆を求めることはせずに、コーヒーをやめよう』と決めていました。だから、再び、「もか」が開店したときは、とても嬉しかったです。これでコーヒーをやめずにすむって感じで・・・。
「もか」のご主人はコーヒーを求めて外国に出かけ、時々福島宛にお葉書を送って下さいます。「今、エチオピアにいます・・・ここの豆は・・・・」とかいう風に。
彼のいうには「コーヒーは入れ方より、豆そのもの。良い豆を仕入れ、強い焙煎で仕上げる・・・。そして悪い豆は取り除く・・。」入れ方はネルドリップをご推奨。
我が家も20年以上ネルドリップです。福島は「もか」のコーヒーを毎日時間をかけて入れます。ミルはこれも20年使っているドイツ製の電気ミル。おかしな音がしたら、ムリをせず丹念に分解掃除します。香りが漂う中、わりと小さい器で飲みます。
「もか」のご主人も指摘されていますが、福島も昔からよく言っています。「良いコーヒーは冷めてからも、決して濁らず、すっきり透きとおって美味しい。」と。
体調によるのか気候に左右されるのか、毎日コーヒーを同じように入れても「美味い」時や「苦い」時や「濃い」と感じる時があります。不思議です。
丹誠塾を卒業した子は必ず、一度は福島のコーヒーの授業を受けています。コーヒーの歴史や味・香りの表現にとどまらず、吉祥寺の地でコーヒー一筋に豆を追求する「もか」のご主人も教材として登場するのはいうまでもありません。その授業を受けた子どもが家でその話をすると、実はお母さんも若い頃、「もか」での思い出を持っていて、親子2代で「香り」を共有する瞬間だったりして・・。
吉祥寺を始め、大きな街は喫茶店がどんどん消え、ドトールなどの安くて手軽なコーヒーに溢れています。そんな中「もか」は生き残りをかけて、『ほんもの』を追求する手を休めず、『一番やりたい最小限』というふるいに自らをかけて、立派に生き残った・・・・と考えてるのは私と福島だけでしょうか?
「もか」には申し訳ないけど、どうしても丹誠塾の姿とダブらせて考えてしまうのです。
丹誠塾にとって「一番やりたい最小限」って?25年もやっていて、未だにそれが分かりません。
2001年7月10日 火曜日
森の教室の準備のために土日を使って、苗場へ行って来ました。
外のキャンパー用の水道を引いて、椎茸の原木を立てて秋に備え、テントスペースの草刈り・・・などが主な仕事でした。私以外の人が湯沢へ水道補修材料の買い出しに出かけた後も、独り山荘に残って、ずっと草刈りをしていました。「行って来るね」から「ただ今」まで約3時間。草を刈ってあっという間に、時間が過ぎていました。鳥の鳴き声だけと一緒の3時間。
この仕事で毎年、筋肉痛になるので、今年は力を入れずに刃の使い方を有効にして、刈っていきました。
山荘の周囲を一周し、階段をスッキリさせ、道路へ出る側の見通しをよくする。
途中、うれしいことに山桑が見事になっていて、ちょっとおやつにいただきました。とってもとりきれないほど、たくさんなっていました。そしてもう一つ別の場所に桑が育って、これも楽しみになりました。
山桑の隣にあったグミは残念ながら、桑の勢いに負けて姿がなくなっていました。
東京の猛暑から逃れ、やって来た苗場は朝は寒いくらいで、布団をかけてぐっすり眠れます。
森の教室は今年は夏休みの初っぱなからスタートです。今回から、何をしたいか、参加者にイメージしてもらって、プログラムの無い5日間を目指しています。「やりたいこと」を探すことから始めます。遊びを創り出す脳は柔らかさを必要とします。
今出てるのは、絵を描く、遠くまで歩く、虫を捕る、かくれがを作る、ドラムをたたく・・・などです。向こうでまた、やりたいことが次々と出てくるかも知れません。
私は食事担当はぬけられないけど、やりたいことっていわれたら、「ずっと緑を見ている・・・」かな?
2001年7月5日 木曜日
この暑さ・・。どうです?
梅雨の合間の貴重な晴れ間なんて言ってられません。毎日次々とクチナシが庭で咲いてゆくのですが、その速度が例年より速いのです。30近く咲きます。朝のまだ、虫の付かない前に高枝切りバサミでチョキチョキして、塾に持っていくのですが、毎日すごい量になります。
木に残っている花の後を見るのがイヤなのと、その香りを室内でも楽しみたいので、毎年こまめに切っていたのですが、今年の量は半端じゃありません。この分だとあと2~3日で花が全部終わってしまいます。クチナシを切るときは例年、しずくがかからないよう、レインコートを来て、やっていましたが、今年は太陽のまぶしさに目をやられながら、切っています。
クチナシに先んじてアジサイは先週その役目を終わりました。あまりの晴天続きに哀れに茶色になってすすけてきたのです。思い切って、庭仕事の際、ばっさりと切ってしまいました。散髪すると、風がよく通り、過ごしやすくなりました。
季節とともに生きてると実感できるようになったのは30歳をすぎてからでしたが、今までこんな梅雨ってあったでしょうか?
冬は冬らしく、夏は夏らしく、そして梅雨は梅雨らしくあってほしいと思います。
集中した思考ができないせいか、コラムがどんどん短くなります。
2001年07月02日 月曜日
息子の傘が壊れました。大きな体にあうよう、リビンでいちばん大きな傘を買ったのですが、3ヶ月もしないのに、骨をバキバキに折りました。新しいのを買うことになるなぁ、と思っていたら、福島が修理を頼もうと、青梅街道沿いの傘やさんへ行きました。
今日、修理の終わった傘を引き取りに行ったのは私。お代は650円でした。この値段をどう考えるか?
息子の傘は超特大なので新品を買えば、3000円近くする。修理は650円。この場合こっちが得。
普通、骨が折れただけではもっと安く修理できるという。息子の場合、骨を一本無くしているから、この値段だとか・・・。どのくらいのランクの傘だと、修理をした方がいいのか。ラインは1200~300円くらいか・・。と考えながら、帰ってきました。なんせ、傘を修理に出すのは初体験だったから・・。
そこで、ハタと気づいたのですが、私は傘を無くしたことも、壊したこともないという事実。持ち物に割と愛着を持っているタイプなのかな?財布も鞄も気に入ったものは長~いおつきあいになってしまうのです。
傘は絶対福島のように忘れないから、10年、15年平気で使っている。そういうものが壊れたら、やっぱり損得計算しないで修理するかな?
それとも、この機会に新風を吹き込もうと変わった色の傘を買うかな?
みなさん?どうです?
今使っている傘が壊れたら、修理しますか?それとも買いますか?
参考までに傘やさんはリビン北の青梅街道沿い・早稲田アカデミーの入っているビルに昔からあります。
2001年6月27日 水曜日
更新のペースが一定していましたが、ここのところちょっとさぼっていました。
この暑さどうですか?梅雨っていつもこんな猛暑がありましたっけ?
今年に入って毎日、簡単な日記とその日の夕食を記録しています。やり出したきっかけはあるラジオ。
福島が聴いていたものですが、「縄文人はとても豊かな食卓だった。数えてみると一年間で5000品目(このへんの数字は自信ないです)もの食材を食べていた。だから、現代人よりずっと文化的にも豊か・・・。私は一年間、どんな食材を現代人が食べているか調べてみましたが、とうてい縄文人には及びませんでした・・・・。」というラジオの内容でした。
それを聴いた私たちはさっそく、本屋で日記帳を購入。どうせ記録するなら、「エイッ!」とばかりに8年間日記帳を買いました。記録は私の仕事になって、お正月から毎日、夕食で食べたものを記録してます。食材を全部書き上げると細かくて大変なので、たぶん続かないだろうから、食事のメニューにしたのです。その日会ったこともほんのちょっと、書いています。
楽しみなのは2年目から、去年の同じ日に何を食べていたか、一目で分かるのです。
今週の月曜・火曜の欄には「暑い」という文字が踊っています.
食事の記録から始まった日記ですが、一年を通して、どういうときに体調を崩すのか、どういう感じで季節が変わるのか、今までと違った視点で自分の一年が見れるような気がして楽しみです。
それにしてもよく続いているでしょう?私の場合、こつは次の日に書くことです。今日の出来事は次の朝に書く・・・。
2001年6月21日 木曜日
ホームページを何度ものぞいてくださっている方はご存じだと思いますが、隔週水曜日の夜、「人の森プロジェクト」という集まりがあります。卒業生中心のいろいろなアイデアを出し合いつつ、定期的に集う会です。年齢を超えて、交流する面白い空間です。
ここ2回ほど、蕎麦を打っています。私は関西出身のせいか、蕎麦とあまり縁がなく、美味い蕎麦とか、蕎麦の香りとか実感したことがないので、この機会に蕎麦のうまさを体験しようと考えています。
そして、とうとうメンバーの一人が蕎麦打ち道具一式を購入。日常的に打とうという構え・・。粉を量り、水をまわし、こねる。そして伸して切る。ゆでて食べる。一行程、ざっと30分~40分。
蕎麦打ち道具を購入した彼は「塾に一式置いておいてね。一人で打つことなんてないと思うから・・・。」
そりゃそうだろうな、一人分の蕎麦を打って、ゆでて食べて・・なんて、寂し過ぎるしね。回数を重ねるごとに、手順が良くなり、コシがでて蕎麦らしくなっていくことだろうと思います。たくさんの人と蕎麦を食べて「今日の出来」をあれこれ言い合う・・・。
夏になったら、人の森で「桃狩りに行こう」という案も出ています。そして、秋にはみそを仕込むことも決定しています。みそを仕込んだら、ねかせなきゃいけないので、食べるのは次の年度になると思います。その時には鮭をつぶして、石狩なべをと考えています。
もう、みなさんお気づきのように、ただ今のところ、人の森は「ともに食べ、語る会」の様相を呈しております。
塾生やご家庭のみなさんに披露する日も近いかも・・・。名前はすでにあります。『蕎麦丹』。
なんとなく、感じ出てるでしょ?
2001年6月17日 日曜日
今日はシャドーワークについて。
昔、家事労働という対価を得ることのない労働をシャードワークと呼んで、これの重要性を論議した時代がありました。最近あまり聞かれない言葉になりました。
先日、ふとこの言葉を思い出しました。それは隣の母に呼ばれてあじさいの色を見に行った時のことです。
事の起こりはこうです。
「カメラ持ってきて、あじさいを写して欲しい。」という母の言葉に、カメラはないので無理と答えると「じゃ、誰かあじさいの色を見に来て。」という母の言葉。その日は月曜日で配布物などの準備でパソコン仕事を朝からやっていた私は運動会の振り替え休日でゴロゴロしていた娘を行かせました。
娘は帰ってきて、「おばあちゃん怒るのよ。『私は写真が撮りたいんじゃなくて、見せたいのよ。』って、もう、なんで私が怒られるのよ・・」といいます。それを聞いた福島が「それじゃ、見てこようかな・・」と出かけていきました。私は2人も行けば、もう私の役目はいいなと思って、仕事を続けていました。
でも、福島が帰ってきて、「きれいな色だよ。買ってきた時、紫で一年できれいなピンクに変わったって、驚いてるよ。」というので、私も見に行くことにしました。
この時の私の気持ち・・・。「私は仕事があるのでそんな、暇な事にはつきあえません」という姿勢をとる自分にちょっと抵抗感あり。でも、「自分勝手に人を呼びつける母への困惑」もあり。
実際見ると、可愛い、何とも可憐なピンクのガクアジサイです。母のこれを買ってきたくだりから、育てるくだりを一通り聞いて、二人で不思議さ・可愛さを共感して帰ってきました。母は憑き物が落ちたように、平穏な感じになっていました。
あじさいを見ることで、その日の仕事が遅れるわけじゃなく、何ですぐ見に行ってあげなかったのか・・・、と思いながら我が家まで帰ってきました。その時、このシャドーワークという言葉が思い浮かんだのです。
私の頭の中には「塾の仕事は直接対価を得る仕事」。その仕事の前には他のどんな都合もひれ伏すのだ・・・という感覚があったのかも・・。対価を得る仕事が優先でそれを支える仕事は下位に位置する。
でも、この下位だと思った仕事を怠ったばかりに優先した仕事が出来なくなる場合もある。昔の論議はここに警鐘を鳴らし、家事労働を再評価し、主婦の存在価値を再確認したものでした。
今は主婦の存在価値を再確認したりする機会はありません。本当の意味で専業主婦はいないからです。子どもが幼い頃、子育て専従になる時期はあっても、専業主婦=家事労働専従者はいないからです。
2年ほど前までは私は朝、子どもが学校へ行った後30分ほどして、自分も支度をして塾へ出かけていました。どんなに家の仕事があっても、本当に陰の部分に隠して・・・。本当に「シャドーワーク」にしてしまっていました。
一歩外にでれば、外のモードになれて楽なのです。外モートになった私はせいせいした気分で出かけていました。洗濯・炊事・掃除など最低限のものを福島と分け合って、残ったものは急を要するもの以外は全部先送りにしました。「いつか事情が許せば、やるわよ。」ってな感じで。
銀行の不良債権のように、たまりにたまった「シャドーワーク」を去年あたりから、少しずつ、片づけています。・・・水道の水漏れを治すこと。庭の木を毛虫のつく前に切ること・・・。道路側に出たあじさいを切ること・・。家の外壁をどうにかすること(これは専門家か?)。子どもの体操着にゼッケンをつけること。(これは4月のこと)運動会の借りたハチマキにアイロンすること。子どもを無料の間に予防注射に連れて行くこと。布団干し。シーツなどの交換・管理。衣類の模様替え。粗大ゴミの連絡。暖房具の収納。最近もらったウサギの小屋を買いに行くこと。娘の髪の散髪。などなど、あげればきりがない数です。
私は「家族とは弱い者を保護しながら、一緒に生きていく単位。」と考えます。保護を必要とする構成員がいなくなったら、解散もできる単位です。それは気が遠くなるほどのたくさんのシャドーワークに囲まれながら、“愛情”という対象物に対して執着する心を基盤に成立している関係です。
2001年6月14日 木曜日
今日やっと新しいパソコンに会計ソフトや一太郎がインストールでき、仕事のできる状態になりました。
思えば、古いパソコンの故障から、CD-RWの購入・返品、SOTECを予約、購入、組み立て、インストール、解説書、ちんぷんかんぷん・・・・・・・。を越えてやっと、インターネントにも接続OK。このコラムの更新もNEWパソコンからしています。
40うん才の頭脳にはパソコンの世界は非常にきついです。キーボード操作は英文タイプ経験から、造作もないのですが、接続・拡張などの世界が苦痛です。でも、一度やってしまえば、こっちのもの。あとは旧パソコンと新パソコンをつなぐ作業が待ってるだけです。
これは人の森のメンバーの手を借りてしまおう・・・。
今回よくわかったのは、サポートセンターはなかなかつながらないから、FAXで答えをもらう方が速かったこと・・・・・。
それと不都合はどこの部分かをはっきりさせることの重要性。MOの故障かと思いきや、パソコンからの指令の不備だったりして、それも安価なMOデイスクを使用したことも原因の一つみたい。結局買い直し、きちんとしたMOでバックアップすることに決定。「安物買いのゼニ失い・・」。
どんどん便利になるはずなのに、この世界に入り込むと、どんどん時間を食う一方。
いっさい近づかない、福島が大正解かも・・・。
参考までに福島の『ぶっくりしたなあ、もぉ』は私が原稿をもらい、更新しています。
2001年6月11日 月曜日
土曜日に無事「アケボノゾウ」イベントは終わりました。アケボノゾウの足跡は石膏をとって保存し、メタセコイア・琥珀の化石は採集して、持ち帰りました。スタッフも多く、お父さんお母さんの参加も多かったので、小学低学年中心でしたが、よく目が行き届き、助かりました。
下見の時に道の幅や交通状態をチェックしていたので、マイクロで通りにくい場所は避け、また、コンビニの駐車場をあらかじめ調べ、休憩地点を決めていたので、トラブルなく到着することが出来ました。
運転手の渡辺は29人乗りのマイクロを運転して集合場所までやって来て「ブレーキのききが強くて・・・」と心配していましたが、すぐに慣れて、スムーズな、発進・走行・停止でした。彼の目標は『一人も酔う子どもを出さないこと・・・。』これは立派にクリア。
八王子の北浅川あたりはまだまだ自然が残っていて、土手の桜の下で過ごすだけでも、命の洗濯状態です。梅雨の晴れ間の、強烈な日差しの復活した一日でした。桜の下で風に吹かれながら、話を聞きました。福嶋徹さんの化石の説明は小学校低学年には本格的なのですが、彼の持っている情熱と持参してくれた数々の化石のおかげで子どもたちの頭には間違いなく、古い時代のイメージができあがりました。
難しいことをいうのでなく、小学校低学年にイメージを作らせることができる人が本物だと思います。
5月末に調査が終わり、むき出しになったアケボノゾウの足跡。他の動物のもあります。子どもたちは「これ、あしあと?」「そうだよ。ぞうさんの足跡・・。これは鹿・・・。」と福嶋さんが判定していきます。同じ地層から木片化石も出てきます。
次はメタセコイアの層から琥珀を探す作業です。スタッフのお兄さんお姉さんにツルハシで掘ってもらって細かく、探していきます。わたしと一緒に掘ったグループは私がまず、大きな固まりを取り出します。そして、子供らがそれを細かく点検します。大きな固まりを出すことを「もとだし」といいます。石材採掘業の私の父の職場用語です。私が無意識に「私がもとだしをするから、みんなはケンカしないで、こまかくして琥珀を探してね」というと、いつのまにが小学生の語彙の中に「もとだし」がインプットされて、「ねぇ、もとだししてよ」とか「ここをもとだししてもらおうぜ!」とか自然に使うようになりました。
本当にたくさんの琥珀が採れました。すでに人が採った後が、大きな琥珀の落ちている可能性大。大きいものは小指大のです。それぞれ、光の色が違います。
最後に、私は水辺の水草とクレソンをさっさと採って荷物にしまいました。水草は水槽に・・・。クレソンはおひたしになって、その日の反省会でスタッフと食べました。
反省会でスタッフ曰く「小学校低学年のパワーにびっくり。むちゃくちゃだ、彼ら・・・。」
2001年6月8日 金曜日
「手乗り文鳥」は『ごんピー』という名前をつけてもらって、我が家でも塾でも大人気です。
土日は一人で可哀想なので、福島家で過ごし、車で平日は塾に移動しています。なぜ、実験が終わっても塾にいるかというと、鳥をさわることが子どもたちにとって、大変珍しい体験らしく、「今日はごんピーいないの?なぜ?」という質問が多いからです。ペットとしてさわられる鳥は気の毒なのですが、手に乗せたり、肩に乗せたり、腕から腕に飛ばせたりしている子供らの姿を見ていると、この貴重さを痛感してしまうのです。
こわごわ、どきどき、そっと、やんわり、という感覚はイキモノからしか、おそわれないものかもしれません。みんな鳥を触るのは初めてのようです。
きのう肩にごんピーを乗せて、瞬間に頭に移動させようとしていた小学生の表情をみて、堪らなくなりました。「どうしよう、できるかな、できるかな、やってみようかな、どうしよう・・・えいっ・・・」この、ドキドキ感。
塾にはごんピーの他にヒメダカ・タニシ・ざりがに・グッピーなどが生きています。
きのうは我が家のハムスターが一匹寿命を迎え、天に召されて行きました。イキモノの死は娘にとってやはり、悲しいものには違いありませんが。イキモノの死を受け止める力はできていると思います。学校に行く直前だったので、布に包んでケージに安置し、帰ってきてから埋葬するつもりのようでした。
イキモノは生きることをストップした瞬間から、固くモノになりはじめます。固くなったモノも含めて最後まで面倒をみる。可愛がって過ごした2年余を振り返って、手を合わせます。
塾の鳥は迷惑なことに、たくさんの不慣れな子どもたちに触りまくられています。ちょっとカラダをかしげる姿勢がついてきて、片足でも痛めているのかと心配しています。鳥を腕から腕に飛ばすとき、床にでも落ちたのかしら・・・とも思います。
教材にしては、ソフトな存在です。
でも、イキモノから離れ、ナマの体験からあまりに離れしてしまうと、人間は自分自身がイキモノであることを忘れてしまうかもしれません。
2001年6月4日 月曜日
塾には「科学教室」というクラスがあります。
小学生が対象です。その授業で「鳥」についてのものがありました。担当は福島です。福島は以前にも同じような実験の授業をしたことがあり、その時は実物の鳥を塾生の家庭から借り受けました。
どんな実験かというと、『どんなマークに鳥は強く反応するか?』というものです。子どもたちにいろんな絵を描かせて、鳥の目の前に差し出し、鳥の反応を観察するのです。そして反応を1~10の段階に分けて判定します。子どもは始めはお化けの絵や強そうな怪物を描きます。自分だったら、きっとビックリして怖がる絵を描きます。でも、鳥はそんな絵にはほとんど反応しません。結局誰かが大きな目を持つ何かの絵を描いた辺りから、「どうも鳥は大きな目に反応するらしい・・・。」と感じてきます。
この授業は一人一人、鳥を前に反応を試す所に面白さがあります。
昨日、福島は息子の友人からインコを借りました。そのインコの反応を調べるとあまり動じないのです。極めつけの絵を見せても、知らん顔なのです。「前の文鳥はもっと、反応が良かったぞ、この鳥じゃ実験にならない、困った困った。授業は今日だし・・・。」と福島は頭を抱えています。
結局彼が選んだ道は自費で鳥を買うこと。開店時間にペットショップに出かけていきました。
ペットショップで店員さんに「ちょっと鳥の反応を調べさせてください。実は私は・・・。」と説明して例の絵を鳥に見せたようです。店員さんは返事もなく、かといって拒否もしなかったということです。
こうして反応のいい鳥を手に入れた福島は無事授業を終え、今はその鳥は我が家のそれも私の部屋にいます。娘がすぐ手乗りの練習をさせて、すごく人に慣れた可愛い「手乗り文鳥」になっています。
2001年5月31日 木曜日
今年度は中3の理科も担当しています。
今日は天体です。太陽系のイメージが必要かと思って、塾の中を探すと丸い発泡スチロールの球が竹ひごでジョイントされて立体になっている教材があります。これだ!と思い、「この球どこにうってるの?」と福島に尋ねると「あの、手芸なんか売ってる店だよ・・・」という。
半信半疑で手芸材料屋さんへ行って、「発泡スチロールの丸い球ありますか?」と尋ねると、店員さんが「ハイ、ココにございます」と指さしてくれました。何とお人形さんの顔に使うものだったのです。
それを大小すべての大きさを1つづつ購入し、竹串をさして、ザルの内側にさしました。それぞれの大きさにあう惑星の名前を書き、反面だけカラーをつけて・・・。楽しい作業です。モチロン、真ん中に真っ赤な大きな太陽がドンと浮かんでいます。
プラネタリウムの玄関などにディスプレイされているような立派な太陽系ではありませんが、土星の輪もあって可愛い装置が出来上がりました。
2001年5月28日 月曜日
もう、「癒し」の時代は終わった。
昨年は厳しい年度の始まりで、私自身体調を壊し、いままでやって来たトライ☆アングルの生徒らとのつき合いに1つの区切りをつけたこともあって、『ちょっと、ゆっくり自分をいたわる』年でした。
体調からなのか、気分からなのか、なんとなく次の力が湧いてこない・・・。そんな感じの気分低調の春でした。その気分にピッタリしたのが、雨の中の露天風呂です。あまり雨の中で露天に長くいる人はいません。だから、ゆっくり雨水が落ちてできる「水面の波紋」を眺め続けることができます。ミルクの王冠とまでいきませんが、まるく広がるそれは心落ち着く造形でした。
こうやって、温泉との出会いが始まり、夏を過ぎ、秋になり、松之山のきのこを皮切りに「温泉ときのこ」のセットで私たちは週末、山にでかけました。山が雪をかぶるまで。
そして昨日、今年の山荘企画第一弾「山菜ツアー」が無事終わりました。山荘付近の山に入って、たくさんの山菜を収穫しました。山ウド、わらび、少量ですがたらの芽、こしあぶら、ヤマブドウの若芽、ナルコユリ、モミジショウマ、ウワバミソウ、などなど。
残念ながら、私の大好きなコゴミはキレイに成長して、食べる時期ではありませんでした。ほぼ一ヶ月前、同じ沢に来ましたが、残雪の下にコゴミはいたのです。この20日間あまりで雪が融け、そこは一時コゴミ畑だったのです。あ~あ、その時来たかった。5月20日あたりか・・・?
今回思ったこと、『この4~5ヶ月で、身体がなまった。』
理由・・・ポスティングをやってない・日常的に歩いてないなど。
沢を登るのに足が上がらないのです。飛び越えたつもりが引っかかって、転びそうになります。次々山菜を採ってずいぶん歩いていきました。その時は平気なのですが、今朝、腰に疲れが来ていました。
今朝、福島と確認しました。『もう、これからは鍛える時代』
「癒し」の時代は終わった。
2001年5月24日 木曜日
この一週間の話。
塾のパソコンに新しいソフトをインストールしようとするとCDが読みとってくれないので、困りました。いろいろ話し合って、CD-Rをこの際買ったらどうか・・・、ということになり、早速先週の木曜日コジマで購入。それはCD-RWというCDの中身をいろいろいじれるヤツらしい。
でも考えてみるとこれをインストールするのもCDを使うわけ。しかたなく西尾氏にCD→MOをやって貰って、さてインストールという段階までこぎつけました。
FDからドライバをインストールする段階でアウト。
私の接続の仕方が悪いのか、マニュアルを克明に読み、何度も同じ動作を繰り返しましたが、ダメです。西尾氏に相談し、人の森のメンバーにも相談して、最終的には慣れた人の森のメンバーがやってみてくれることに話は決まっていました。ただ、その時の時間は夜になるのでサポートセンターはやってない。そこで、山下が意を決して、子機片手にサポートセンターに電話して相談することにしました。
この電話がなかなか繋がらない。「なめとんのか?」というような待たされ方、そして待ったあげく「もう一度お掛け直し下さい」ではあんまりだ・・・。
やっと繋がって女性がテキパキと支持してくれるそのままに操作しました。その結果『大変申し訳ございませんが、お客さまの今のパソコンではこのCD-RWは使用できません』ということになりました。
「えっ、でも買うときWINDOWS98でOKって言われたんですが」というと、女性は『WINDOWS95をUP GRADEした98の場合、つなげないケースがあります。お客様のはそのケースです』
だれがいちばんミスを犯したのか?
①CD-RWを作った人
②売った人(コジマ)
③買った人(私)
④もしあるとすれば、パソコンを作った人(富士通)
私は富士通のサポートセンターにも電話しました。でも、これは完璧に繋がらない。
人の森が始まったあと、このことを話すとみんな「へえ、UP GRADEの98にUSBジャックがあっても繋がらないんだ・・・」とビックリ。私が明日コジマに談判にいくというとみんな賛成。「そうだよね、一言言うべきだよね・・・。」
そして問題の今日、コジマのカウンターの男性に話しました。その男性はいとも簡単に「はい、UP GRADEの場合難しいと思います。」とおっしゃる。「なぜ、買う時言わないのか。」と内心毒つく私。ここはひとつソフトに整然と・・・。「でも、私にはそういう情報を得るチャンスがありませんね。売ってる方が商品知識に習熟しているわけだから、その人が指摘しない限り私が気づくことは100パーセント不可能。WINDOWS98で使ってるのは事実だし、98ですか?と聞かれたら、ハイと答えるだけ。その時、でもね昔は95だったのよって私が告知する義務はない。UP GRADEのは難しいと知っている方が告知義務があるよね。まさか、このことを知らずに売ってた訳じゃないよね・・・。」とまあ、こんな感じで返品までこぎつけました。
この一週間。大泉を2往復。マニュアル読み・接続に要する時間4時間。
私の時間を返して欲しい。その上、例の新しいソフトはまだインストールされてない。
2001年5月20日 日曜日
夢の話を・・・。
人の夢の話を聞くほど、つまらないものはない、と言われていますが、これは面白い。
去年の夏、朝起きて福島が机の前で頭を傾げながら、「おかしいなぁ・・」とつぶやいている。何のことかと尋ねると、
「夕べ、夢を見たんだ。夢の中で『これこそ真理だ・・・』と思う瞬間があって、起きて急いで書き留めたんだ。それで、また寝ちゃった。今起きて、何が書かれてあるか見たんだ・・・。夢の細かい内容は忘れちゃてるんだけど、書いたことは覚えているから・・・。でも、書いてはあるにはあるけど、意味が分からない。」と言います。
私が「へー、書いたことも夢なんじゃない?」と聞くと、「いや、確かにここに何か書いてある。でも意味が不明。それにどんな夢か思い出せないから、ここの文字も類推不能。」
とにかく、メモを見せてもらった。
そこにあった文字は 『メロリンQ』 「メロリンQ・・・?」
カタナカ4字とアルファベット1文字がこれこそ真理と思ったという・・・。
福島は今も不思議がっている。
*****この話は実話です。昨年の夏休みの話で私が今もディテイルまでハッキリ覚えているのにわけがあり。
のりとくんは睡眠管理がへたくそです。行事の前はいつも興奮と心配で寝不足でやって来ます。運転役の時はちょっと心配。昨年の風の教室の運転手となった、彼をやはり睡魔が襲います。どんな音楽にしても、休憩をとっても眠くなる時があります。そんな時のためにいくつか、笑える話を用意するのもナビ役の務め。
そしてこれがその一つ。みごとに眠気を吹き飛ばしたかどうかはわかりませんが、無事みんな帰ってきました。*****
2001年5月16日 水曜日
今、生まれて、初めてのことに挑戦しています。仕事以外で、それも自分の子に勉強を教えています。中1の娘にです。高校1年の息子の場合、丹誠塾に入塾して順調に楽しい小学生時代を過ごし、思春期の中学校時代はなるべく、塾内で発言しないで存在を消し、かつ塾の授業を密かに楽しみつつ、卒業して行きました。
高校になっても続けるかという問が丹誠塾から息子にありましたが、福島から「もう、おまえ自分でやれ。」という一言で、彼は丹誠塾を卒業しました。息子の表情には80%ぐらいホッとした感じもあり、20%は不安・惜別の情ってやつですか・・・?
だけど、手元を離れた息子からウチに目をやれば、娘あり。
同伴登校はあり得ないけど、難しいキャラ。ウチの娘は難しい。
私の課したこと。毎日英語のCDを聞いて、口に出して言うこと。
このことを果たさないと、どんなに困っても、一切今まで同様、勉強を教えないこと。
そう、私たちは家では勉強は教えない親だったのです。教えたのは息子の試験2週間前ぐらい。子どもからマジSOSがこない限り、勉強サービスはない家庭でした。
家の食卓で、テレビの横で、教える勉強って?
普段着の娘に、普段着の母が教える勉強って?
本当にやりにくい。
目的がすぐ逆転するのです。「ここまで、やろうね。」というと、『それじゃ、○○が見れない、』・・・・。テレビのことです。
「○○と勉強とどっちが大事よ?」「そんなに大切なテレビなら好きにしてよ」「お母さんは自分の時間を楽しむから」「勉強タイムはもうエンド」「もう、お母さんと勉強するって言わないでよ。」というと、娘は「やっぱ、恥かくのもイヤだし、ビデオってこともできるし、塾に行くのもイヤだし、やっぱ、お母さんが一番聞きやすい、お母さんお願い・・・。」って、涼しい顔です。ここまで前言を翻し、実益をとれる娘もアッパレです。
本当に娘はやりにくい。
他人の子は適切にかつ、友好的に叱れます。それが私たちの仕事です。言い換えると、あたらない鉄砲は撃てない・・・、私たちはプロの集団です。
だけど、めくらめっぽうあたらない鉄砲でも撃ってみたくなる今日この頃。
2001年5月13日 日曜日
きのうは本当に素晴らしい一日でした。
八王子の川へフィールドワークの下見に行ってきたのです。いつも必ず、フィールドに先駆けて下見に行き、場所の確認、交通の検討、トイレ・雨天時の弁当の確認、そして何よりもフィールドの安全性を確認して帰ってきます。
きのうの下見はそれ以上の収穫を私にもたらしてくれました。
「子供時代の質がその人の大部分を基底する」ということを最近強く感じてきたところなのですが、昨日のいろいろな出来事はそれを一歩前に進めてくれました。
昨日の経験は私の中の子ども層を浮き出してくれました。時間の流れが違うのです。「あ~、おもしろい、ずっとこうやっていたい~。帰りたくない~。」と、目の前のモノだけ見ている瞬間だったのです。
子ども時代は時間が区切られていません。日が落ちたら、帰宅して夕食です。私の田舎では今は暗渠になってしまっていますが、小さな川が村を流れていました。本当に昔の記憶ですが、その川で女の人たちがおしゃべりしながら、洗濯をして、幼い私はその横で遊んでいる光景を思い出します。
晴れた日は毎日、その川で遊びました。メダカは最初の一振りが勝負。気配を殺して近づいて、追い込んだタイミングでサッと網を振る。最初に20~30匹を側の草原に瞬間移動させ、跳ねてる10~20秒以内に、持ってきた容器に拾い、放すのです。その時の気合い、敏捷さ、そしてメダカの体をつまむソフトさは相当熟練を要します。当時村にはメダカの体長の2倍以上もある目の網しかなかったので、こういう漁法?をあみ出したのでしょう。二人の妹を引き連れた私はメダカ捕りの達人でした。
区切りのない時間・・。それが子ども層の時間です。
私は私立の中学校に進学し、その時から川で遊ぶことはなくなります。山や川から卒業したのです。時計を持って行動し、一人の部屋を持ったのもこのころからです。
中学生となった私を待っていたものは思春期の自分との出会いです。「自分らしさ」、「人から見れば、私って何?」「自分って本当は・・・?」それが苦しい思春期。
そして姫路という地方都市、東京という大都市と、舞台を広げて、成人しました。
その成人した私の中にきちんと地層のように子ども層が残っているのです。
メタセコイアの化石層にサンドイッチされるように琥珀がちりばめれているのを見た瞬間、スイッチが入ってしまいました。腰を下ろして細かい作業をするのは大好きです。素手で泥岩の固まりをひっくり返しながら、黄金色に鈍く光る琥珀を探す作業は時間がたつのも忘れる魅惑の作業。
30年近い昔、大人達は「今の子どもは可愛そう。子どもの遊び場がどんどんなくなっていくよ。」と嘆いていました。嘆いていた大人は遊び場を保証されていた大人です。その人の子ども層には遊び場での子ども体験がたくさんあるので嘆いていたのでしょう。
今、「遊び場がなくて・・・。」って嘆く大人は少ないです。今の大人の子ども層には昔の遊び場体験がファイルされてない場合が多いので、嘆く要素がないのでしょう。せいぜい「今の子は変だ。友達がきても一緒に遊ばないで、別々にマンガを読んで、一緒に遊んだつもりになってる・・」と戸惑っています。大人の嘆き・戸惑いの内容も変質していきます。そりゃそうでしょう、それぞれの子ども層の内容や容量が違うからです。
めっちゃ長いコラムになってしました。今、ちょっと福島と共同作業で進めている仮説があるのです。そのヒントになるような貴重な体験だったので、5月12日を記しておきたかったのです。
しおりを配っておしらせしますが、6月9日(土)のDIGフィールドワークは「こども層」に異変を起こす「化石層」との出会いになりそうです。
2001年5月10日 木曜日
昨日、第2回人の森プロジェクトの集まりがありました。出席者は8名。みんな忙しい中、やって来てくれました。このコラムを開いて下さっている方で、まだ「人の森」の呼びかけ文をお読みでない方は是非、塾生の部屋の呼びかけ文をお読み下さい。
人の森は卒業生の集まりです。ゆくゆくは丹誠塾の親の方々にも・・・、と考えていますが、まずは今のところは卒業生が集まっています。彼らはいろんな行事で今までスタッフとして塾を支えてきてくれたメンバーです。そしてこれからは運営だけでなく、企画の部分から塾に関わりたいと思う人たちが集まってくれるようになったのです。
企画といっても、限定されていますが、それぞれの想像力で「こんなことやったら、おもしろい。」というものを持ち寄ろうということが中心です。
昨日は前半はいろいろな企画の提案や日程の確認になり、後半はワイワイ親睦会っぽいものになりました。
その時もちろん昔の写真も登場し、91~2年あたりにイカダをつくっている西尾氏の写真がありました。34~5才だと思われます。その年齢で空きカンを浮力にイカダをつくってレースに出る・・、という発想に当時は思いませんでしたが、今になると「よく、突拍子もないことを思いつくよ・・・」と驚きました。
私が「人の森」に求めているのはこの「突拍子もない」ことなのかもしれません。
丹誠塾を始めた頃は大学生で毎日が日曜日。大学なんでほとんど行きません。毎日おもしろいことを探していました。お金はもちろんありません。丹誠塾は開講当初はたくさんの大学生が出入りしている場所でした。私たちの友人たちです。塾のチラシを折りながら、馬鹿なことばかり話していました。そんな馬鹿な話の中から、突拍子もないことが生まれたりして・・・。そんな仲間と夏にキャンプに行き、冬はスキーに行きました。仲間達は時期がきて就職して塾に顔を出さなくなり、残った西尾・福島・山下がこの道でやっていくというスタイルができあがって20年以上がたちました。
当時の馬鹿話と「人の森」は決定的に違いがあります。私という「重り」が存在している点です。ノリトという「準重り」も存在します。彼らと話しながら、『なるべく、わたしの「重り」は軽いほうがいい。経験や常識という「重り」があまり作用すると、彼らの発想が飛びにくい・・・。』といつも感じます。でも、発言が沈滞するとしゃしゃり出てしまうのです。職業病ですね。
さて、「人の森」がどんな花を咲かせてくれるか。これからの丹誠塾を決める存在です。
2001年5月7日 月曜日
長かった連休も終わりました。
連休最後の昨日は石神井公園へ行って、軽く運動をしました。
三宝寺池を歩いていると、ザリガニ釣りをしているおじいさんがいました。思わず足を止めて、見ているといつの間にか、話が始まり、私もザリガニを釣っていました。この辺が福島的・・・。
2人で楽しくザリガニを釣っていると、さおと水槽を持った親子がやって来て「この仕掛けでいいでしょうか?まだ、一度も釣ったことがありません。どうしてでしょう?」と若いお母さん。おじいさんは「これでいいよ。がんばってここでやってごらん」と答えていました。
おじいさんはあっち、こっちのポイントを変えてザリガニを待ちます。食いついたら、ねばり強く、駆け引きをし、最後に網の中にすくい取ります。この妙技は小さい子にはマネができません。わたしはアシスト役となって、網を差し出す役。おじいさんは捕獲した大きなザリガニをその水槽をもった子どもにあげました。若いお母さんと子どもは小躍りして喜びます。
次々とうす茶色や赤黒いザリガニを釣り上げるおじいさん。完成をあげる通りすがりの人たち・・・。
気がつくと2人だけだった場所にどんどん、人が増えて、桟橋っぽい場所が手狭に・・。
「あっ、これでは休日にならない。DIGのフィールドやってるみたいだ・・。いかん、いかん。」と気がついて、おじいさんに声をかけて帰路に着きました。
私の小さい時はザリガニは捕るものの仲間に入っていませんでした。メダカやフナを求めて毎日、近所の川で遊んでいた頃はザリガニは邪魔者です。間違って網に入ってしまうヤツでした。そんなヤツを40年後には釣って興奮している自分がいました。
そういえば、福島は子どもを連れてよく、この公園へザリガニ釣りに出かけていました。「お父さんも小さい時、よく釣ったよ。イカを用意していこう。」日曜日にイカは必需品でした。
時代は繰り返し、福島はいつしか、あのおじいさんになり、ウチの娘や息子は通りすがりの「ザリガニ釣りを懐かしむ」大人になって、石神井公園に登場するのでしょうか・・・・?
2001年5月4日 金曜日
この4日間、とんでもないことに手を出してしまいました。
塾の25年に渡る歴史をきちんと整理するため、写真の整理を始めたのです。写真は1996年くらいまでの古いものは我が家の娘の部屋の押入に入れていました。娘からいい加減に押入を返してくれ、という要求もあり、この仕事に踏み切ったのです。
25年分の写真はダンボール箱にして押入半間分に相当します。古いものは硬い台紙の上に写真を置き、フィルムを張った形式のもので、剥がす手間が大変。その次のものはバインダー形式のもので、長年みんなの手を経て、金具から台紙がバラバラ・・・。こういうものを年代順に揃えて、整理していく作業です。
とんでもないことを始めてしまった!と、気がついても、もう手遅れ・・・。
居間が写真のダンボールで一杯になってしまい、生活を取り戻すために、腰を痛めるほど集中して、根詰め仕事をし続けました。
そして、4日間の成果、1997年の秋まで来ました。あと、一息・・。
この仕事をやっていて、いろいろなことに気がつきました。
①長くつき合っている子がどの時代にも存在する。6年~10年連続して登場。縁があるとはこういう関係。
②子どもは顔が急に変わる。ある時期だけ、つき合っただけではわからない。
③一人の人間がずっと、繋がって成長していく・・・と考えるのではなく、その時期、時期で別人格と考えた方がよいのでは・・・。それくらい、私たちが相手にしてるのは変化の激しい時期の人間・・・。
④同じ行事、例えば春合宿を嶺雲荘で行っているが、全く同じものはない。参加者が変わるし、同じ人物でも学年が違うので、本当に毎年別物。
⑤昔の中3男子は今より、ずっと男っぽく、よく食べた。顔がもっとおっさんぽい。
⑥昔の行事はレジャーの少ない時代からの要請。今は科学的な興味や仲間づくりの要素が強い。
年代順になった、25年分の写真は新しい、一冊315枚収納のアルバムに入れ替えられて、みなさんの目に触れる日を待っています。18冊程度になる予定。
まずは人の森のメンバーに披露して酒の肴にしようかと考えています。
そして、次の親の会にも、かっこうの話題を提供してくれる存在になると思っています。
2001年4月30日 月曜日
連休早々、山荘へ行って来ました。苗場はまだ、スキーシーズン中でした。猿ヶ京あたりは八重桜も咲いているですが、標高800Mくらいから、桜の見事な枝振りが目立つようになり、1000Mあたりではやっと咲き始め・・・という感じでした。
山荘まえの山桜は蕾状態でしたが、私たちが帰る頃、稲の穂が火の中ではじけるみたいになって、チラホラはじけ始めました。その隣のダケカンバの芽吹きが輝いていて、思わず見とれてしましました。
惹き付けられたもの①・・・残雪の上の動物のフン。
雪が融けるとその下にはこの前の秋があります。今年は雪解けが遅く、今も沢は半分真っ白。茶色の上では目立たない、動物のフンも残雪の上では一面アート。
思わず、写真・・と思いましたが、山菜を採るために軽装になっていてデジカメも持参してなかった。
惹き付けられたもの②・・・シジュウカラの幼鳥。
残雪の上の何かをついばみにたくさんの幼鳥がやって来ます。山荘の窓から見るとまさに、絶好のバードウォッチング。羽の白いところが心持ち青く見えるシジュウカラの幼鳥。色・形といい、動きといい、可愛さに脱帽。
今年も山荘のシーズンが始まりました。いろいろ心配なこともあって、メンテナンスのために連休には一度行ってみる必要はあったのですが、子どもたちが自分の生活を守りたがるので、家を出るタイミングが難しかったです。でも、むこうでテニスをするという話に娘も息子も満足。早速、友人を誘って、連休はじめに出かけることにトントンと話が決まりました。息子と友人VS福島・西尾恵子ダブルスは福島・西尾恵子チームの勝利。西尾家も時期を合わせて、やって来ることになったので、にぎやかな3日間になりました。
行き28日は家を朝6時前に出発。帰りの30日は、朝10時前には山荘を出発・・・。というように早め早めの移動で、全くの渋滞知らずで帰ってきました。
今日はお昼過ぎに帰ってきて、また普通の生活にもどりました。
明日からはスキーウエアなどの洗濯・家の根本的掃除・25年間の塾写真の整理・教材準備・・・。それから、どっさり採ってきたフキノトウでフキミソをつくる予定。
2月から続いた塾の超多忙スケジュールの一息タイミングがこの連休。ゆっくり休んで、またバリバリ動きます。
やっと山森話になった。自然に行かないと書けないようなコラムの名称なのです。
2001年4月27日 金曜日
先日、ある方とお会いした。
彼は民間人の考古学研究者で、たくさんの貴重なものを発見し続けている人です。アケボノゾウの足跡化石もその一つ・・。自宅は化石の標本で一杯。
福島が「化石に入ったきっかけは?」という問に、「えっ~、小学校3年の時にトラウマがあって、その時の先生の影響でおもしろくなり、自分の中にこれに対するものができあがったようなのです。途中ぼくは天文に興味を持った時期もあるのですが、社会人になって、またいつの間にか化石を探すようになっていました。」
小さい頃に感じた面白さをトラウマと表現する彼の話があまりにおもしろく、あっという間に2時間がたっていました。
話は子象の顔の骨の話から、古代のホタテ貝、アンモナイト、サメの歯、貝の化石、植物の液状化石、そして発見したアケボノゾウの足跡・・・。
大昔、日本にもゾウがいて、水辺をのそのそ歩いていた・・・あちこちにその足跡が点在・・・。足跡の上に土砂が堆積して、そのまた上にも堆積して・・・。歴史が進んで、いつしか川に洗われて、ゾウはいなくなったけど、残った足跡が出現して・・・。
気が遠くなるような長い時間を通過して、アケボノゾウと私たちが遭遇する瞬間を創りたいと思い、ただいまフィールドを企画中。
一番の大切なことは事は「ほんもの」と出会うこと。
「もの」もそうですが、「ひと」も。
本当に化石のことをおもしろいと思っている人に出会うと、その人の言葉の中に「ほんものの情熱」が感じられて、心に何か残ります。子どもに権威は通じません。感じたもの、そのものを評価します。
私も福島も『子どもにこの人を、そして、この人がおもしろいと感じている世界を出会わせたい』と、強く感じて帰ってきました。
・・・・コラムを書く前に心理学事典でトラウマを調べましたが、ありませんでした。これって、どの分野の言葉でしょうか?
本当の意味ははたしてなんでしょう?
彼風の使い方をすると、丹誠塾が目指しているのは「子供時代、子どもの中に何かトラウマを創ること?」だったりして・・・。
・・・・あとで現役研究者の西尾氏に尋ねたところ。トラウマとは英語で「外傷体験」「望まざること」などと、訳される言葉・・・。「心理学辞典」のみならず、「カウセリング辞典」にも載ってないとか。でもマイナスイメージでわりと世間的に使われている言葉だとか・・・。
その日は、トラウマの新しい解釈とともに、新しい素晴らしい知人を得た一日だったようです。
2001年4月23日 月曜日
このホームページには合計3つの掲示板があります。「親の掲示板」と「こどもの掲示板」は一般公開用で、「人の森」の井戸端会議は会員間の内部連絡用です。「親の掲示板」と「人の森の掲示板」に山下が次のような質問を最近載せました。
『4月19日は何の日だったのでしょうか?』
今思うと『4月19日は何が起こった日だったでしょうか?』の方がよかったかな?
4月19日は午前中が雨で、午後からすごく明るく晴れた日でした。これがヒント・・・。地域は西東京付近です。北海道や九州では、あてはまらないと思います。
このへんで答を・・・。
それは街路樹の緑がめきめき、べきべき伸びた日。木の下でじっと見ていたら、むくむく新芽が成長する姿が見れたかも・・・。
翌日4月20日に街路樹を見て、「わあ、こんなになってる!!」と驚いた人の率を知りたかったのです。塾にやって来たのりとにきくと、彼は同じ事を感じていたらしく、「今日の緑の感じはすごい」といっていました。ここに一人・・・。そして4月から社会人になったのりとゼミの出身者も同じことを・・・。
この秋バージョンもあるのです。それは銀杏(いちょう)。
海平が生まれた頃、まだ私たちが田無の団地に住んでいた頃のこと・・・。福島が「今日は銀杏の枯れ葉が落ちる日だった。時間があれば、一日銀杏の枯れ葉が落ちる日にその下にいたかった・・・。」というのです。そうか、そういえば、風もないのにすごいで勢いで団地の前の銀杏が裸んぼうになっていたのを以前目撃したことがありました。秋にはそういう一日があるのです。
もちろん、強風や大雨で散らされてしまう年もありますが、平穏な条件の日に突然、待ってたように銀杏の木が音を立ててばさばさと枯れ葉を落とす一日があるのです。
福島にいわれた私は翌年もその翌年も団地の前の銀杏にねらいを決めて待ちました。そして、願いが叶い、めでたく、ばさばさの下にこ一時間立っていることができました。本当に幸せな瞬間でした。なぜだかわかりませんが、ずっと立ってばさばさの下に埋もれてしまいたい感じでした。
今はねらいを定める木が近くにないことと、その時期「きのこ」に夢中になっているので、銀杏の枯れ葉のことは忘れてしまっているのです。
今年の秋はコラムに書いたから、思い出すかな?
暇な人を集めてばさばさツアーでも企画するか。枯れ葉の上をばりばり歩くのも気持ちいいけど、その下にいると、もっと気持ちいいんですよ。
2001年4月20日 金曜日
今日のテーマは「親切」。
1つの電話から・・・。
○○さんからの紹介と自己紹介をなさって、「不登校の子どもたちの研究をしているものです。私の研究にご協力をお願いします。」という電話をいただきました。
先日、福島が息子の保育園時代の方から、久しぶりに電話をいただいたことは聞いていましたが、そういう繋がりで、こういきなり、「自分の研究にあなたの生徒をお願いしたい」と切り出されることにまずは、びっくり。
まずは相手の研究テーマを聴きました。
そのスタンスは「不登校の原因を自己主張の不全」であるとした所からの話でした。ある種のトレーニングを私が施せば、その子は自己主張が出来るようになり、不登校状態から脱却できるかもしれない・・・。という話なのです。トレーニングの意味を再度ききました。
「だれのトレーニングなのですか?」
「不登校の子のトレーニングです。」
「あなたのトレーニングではないのですね。では、不登校の子がそのトレーニングを望んでいるのですか?」
「・・・・」
「子どもがそのトレーニングを望まないのに、私があなたの研究の助けをすることは動機がない行為でしょう?。」
そういう意味のことを告げました。続けて「今の私たちにはあまりその研究に興味がわかない・・・。緊急避難的に子どもを預かることもあるし、日常的に子どもとつきあい、子どもを受けれている所です。この問題は長い目で考えると、そういう研究者の方々の努力も必要かと思いますが、ここにあなたの研究を応援する意味を見出すのは困難。ここはそういう民間の小さな場なのです。」
「もし、あなたが自分の手法を試したいなら、もっとたくさんの人が議論して採用・不採用を決定するシステムを持ったところで吟味してもらうことをオススメします。」
そう言ったあとで、『私って、少し意地悪かなぁ。』『もっと、遠回りに、忙しいからとか、対象者がいないとか断れないのか・・・』と思いました。
電話のあと、ちょっと自分に対する皮肉もこめて、のりとに「私って親切ね。」っていったら、彼が「本当に親切だよ。」と答えました。
これを聞くと、今度は『私って、本当は親切なのかもしれない・・・。』と思えてきました。
社交辞令で「頑張ってね。」って言わないで、突然の電話にも直球で返球してあげることは本当はすごく親切だと思えるようになっていました。
2001年4月16日 月曜日
コラムを読み返すと気づくことあり。家族ネタの多さです。なぜか・・・。それは新学期でもあり、それも中学校・高校とファーストステップを踏み出す2人を前にしているからでしょう。気持ちもお金もどんどん2人に吸い取られていく感じ・・。今日も家族ネタ・・・。
我が家の新学期は塾と同じ、先週スタート。食当も変更。木曜日は隣のおばあちゃんに頼むのは従来通りですが、今年新たに始まったのは食事当番完全担当制。
月曜が息子。金曜が娘。二人はそれぞれ、献立を立てて、原則的には買い物から担当。もちろん洗い物も。買い物が出来そうもないときは事前に父母に食材を頼むことになっています。
娘のデビューはショウガ焼き。兄が言っていました。「Mちゃん、ショウガ焼きにはキャベツの千切りを絶対つけてよ・・・。」
息子のデビューは焼き魚・・・。でも、硬式テニスに入部したため、帰宅が毎日7時前になり、担当曜日が変更になりました。日曜日しかテニスの休みがないので、なんと息子の料理を休日に食べることになった2001年度です。日曜日に焼き魚ばかり、食べることになりそう・・・。
2001年4月12日 木曜日
今日のテーマは「装うこと」。
息子が毎日、数少ない服の中から選んで着て、学校へ行きます。着替えタイムは中学校と同じ8時10分から12分。制服の時代は無意識に手が動いて学生服姿になっていましたが、今は「お母さん、あのズボン洗濯今日乾くかな?これは動きやすいなあ・・・」などど言いながら着ています。
昔の話ですが、私も若い時代サークルの先輩に憧れを抱いた時代がありました。大学一年生の私が憧れたのは大学院生で、いつも颯爽とブレザーやジャケットを着こなしている先輩でした。あの時代、学部生はバンカラを気取るのか、きたない、へんてこなかっこうをして大学に来ていました。ひどい人はパジャマに風呂の洗面器を片手に人目をひく人もいました。当時、私と西尾氏はクラスメートで、第二外国語として中国語を選択していました。クラスには毛沢東にかぶれて、毛語録片手に人民服を着てくる子もいました。
そんな中、いつもパリッとしたシャツに趣味のいいジャケットを着ているその先輩のことを「育ちのいい、センスのある人・・」と私には映っていました。
ある日、その先輩に「どこで洋服をかっているのですか?」と尋ねました。先輩はごく普通の感じで「ああ、僕の服は全部、母が買ってくるんだ。どこで買ってるか知らないな、そのまま着てるだけ・・・。」という答えでした。そのとたん、光輝いていた彼が矮小なマザコン男に変貌していました。なぜ、あんなにがっかりしたのでしょうか?
いま、思うとクラスのへんてこな服装をしてやってくる友達だって、自分の着るもので自分を主張しているのに、22~3のこの男性はまだお母さんに服装を管理されていて、そのことを恥ずかしいとも思っていないのか・・・というかっこう悪さを痛感したためでしょう。
マザコン男に夢破れた私の出した結論は「自分に男の子が生まれたら、こんなセリフはいわせまい」ということでした。
そして28年、大学も変わりました。世の中も変わりました。
共通一次世代からキャンパス風景が一変します。みんな汚いかっこうして大学に行かないのです。きちんとブレザーを着て大学に通う塾の卒業生を見て、ビックリしたのがこの時代。
そしてのりとたちの超感覚世代へ・・・。もうこのあたりまでくると着るものは生き方そのものです。「どう装うか」と「どういう音楽をきいているか」がその人の存在証明の時代です。
ともすれば、洗濯した順番に服を着て、あまり「装うこと」に頓着しない母親です。これは私の弱点。これを受け継がせないよう、息子にはせいぜい「装う楽しさ」を見つけて欲しいです。
2001年4月9日 月曜日
新しい年度がスタートしました。今日から塾も開始です。
先ほど、中学生になった娘、高校生になった息子が「行ってきま~す」と出かけていきました。高校は給食がないので、7時に起きた私はお弁当づくりです。小学校低学年の学童保育ぶりです。
娘は長い髪をショートカットにして、登校です。カットしたのは昨日で美容師は私。暖かい日差しの中、庭で床屋さんをしました。娘の友達も刻々カットされていく姿を見ながら、控えめに「Mちゃん、似合うよ。」と感想を言っていました。誰かに「どこでカットしたの?」ってきかれたら、サロン・ド・ユミコって言いなさいといってあります。 我ながら、上々の出来で、娘の若さが輝くようなヘアースタイルに仕上がりました。
今、息子が上履きを忘れたと帰ってきて、再び自転車でダッシュで行きました。
2001年4月6日 金曜日
春合宿が終わり、昨日は久々の休日でした。福島は塾の教材を購入に池袋に出かけました。そして落語を楽しんで帰ってきたら、開口一番、「残念だよ、フォションがなくなったよ・・・。」と。
フォションとは池袋東武にあったフランスの紅茶の店です。紅茶とパンを扱っていました。そこの紅茶は季節毎に変わったフレイバーがあり、夏の「エテ」は我が家ですごく人気があった紅茶です。「春になったら・・桜の紅茶が出ますなんて言ってたのに・・・。」と福島は本当にがっかりしていました。
先日は武蔵野グリンパークの福島御用達の「つくし堂」というお菓子屋さんが店じまいしてしまい、「もう、あそこのピーナッツが食えない・・」と悲しんでいた矢先なのです。
確かに両方ともお客さんの入りがよくなく、これでやっていけるのか・・・と思うことの多い店でしたが、突然店がなくなるというのはショックのようです。フォションの場合その一角から店が忽然と消えた・・・という感じのようです。福島は買い物がわりと好きでこまめに歩いて買ってきます。池袋に行く用事の時は必ず、紅茶。秋も深まったら、つくし堂のピーナッツ。
応援していたのになくなって残念な店ってみなさん、ありますよね。
個人商店の不振が続き、コンビニや大型量販店にとって変わられています。買う人と売る人の関係がシンプルに分かる個人商店にもっと頑張ってほしいです。酒屋さんはもう結果が出ていますよね。コンビニでお酒が売られ、大型酒ショップにずいぶんお客をとられた段階で地酒を独自のルートで扱って特徴を出している酒屋さんを町によく見かけます。工夫してやってるなと思わず、応援の言葉を贈りたくなります。ガロアのご近所の酒屋さんもその頑張っているお店のひとつ。ここで私は麒麟山をしりました。樽から買った時はプーンと樽の香りが漂って最高でした。
また、好きなものの話になってしまいました。今日のテーマは「残念」なのでした。
明日は娘・息子の入学式です。父母で手分けして保護者として行きます。
気がつきましたが、私のコラム長いですね。簡潔に書けなくてすみません。ところで、これ、本当に読んで下さっている方いるのでしょうか?いたら、メールなんど、下さいね。
2001年4月1日 日曜日
新井薬師の骨董市へ行って来ました。昨日の雪がウソのようです。暖かい日差しの中、桜を楽しむ人がたくさん出ていました。骨董市は最近は年に1回ぐらいしか行けません。もう20数年通っています。大学生のころは500円のなますざらを買うのに、座り込んで吟味していたものです。もちろん完全な形ではなく、ちょっと欠けてたり、色が抜けてたりします。いまは500円でも江戸時代の欠けたお皿はお目にかかれません。
同じく古着好きの渡辺のりとと意見が一致した瞬間がありました。だれかに「古いからいいの?」と尋ねられ、私が「違うよ古いものの中にもきらいなのもあるよ、だけど古いものの中にいいものが多いのよ」と答えたら、のりとも同じ事を言おうとしていたと表明していました。厳密に言うと、時代の古さなど、私には鑑定の力はないと思います。でも、あるのは「これが好き。これがほしい。これで食べたい」という気持ちです。骨董市へ行って器を見ているとたくさんのイメージが湧いてくるのです。染め付けの青い模様の皿に、ほうれん草をのせた時。ブドウをいれた時。枝豆をいれた時。パスタを入れたら・・・。シチューを入れたら・・・。
そう、今日は少し深いシチューや煮物がスッポリはいる器を6枚買いました。印判ですが、図柄が上品でとても気に入りました。それと、周りがタコ唐草のハイカラな平皿も数枚・・・。今日はすごい収穫で、私の小遣い用のサイフはほとんど底をつきました。
骨董市ではいつも店の人と何か話をして帰ってきます。今日は大きな壷を列べている店の方に「ある種の壷の肩に、つぎ口のあるのはなぜか・・・。」と尋ねました。福島の家の床下から同じような壷が出てきたので、何に使ったのか知りたかったからです。その店主が言うには「江戸時代の船の輸送の時、液体を運んだものだ・・・」という説です。そういわれて見れば、並べている壷は安定がいい形でその事が納得できる造形です。店主は「これは薩摩の産で私が仕入れたのは東北です。その時代そういう流通があったのでしょう。」などと、しばらく持論を展開してくれました。おもしろいでしょう?まわりのお客さんも興味をもって聞いていたりして・・・。だから、骨董市は見て歩くだけでおもしろいのです。
若い頃、お金がなくて何も変えないのが分かっているのに毎月通っていました。そして店主が何気なく言う「これは李朝。それは犬山・・・。この模様があるのは古伊万里・・・・。」という説明にあこがれを持って聞いていました。そして家に帰って知らない言葉を調べたりして・・・。真偽は別に、骨董市は私にとって夢が満載の空間だったのです。今も変わりません。今日も楽しかった。 明日から春合宿。
2001年3月28日 水曜日
あさって30日は人の森プロジェクト第一弾「2001年宇宙の旅」ビデオ上映会です。あまり宣伝していないので塾生の家族くらいしか参加は見込めませんが、塾が一日映画館になる日です。ドリンク付きで500円です。楽しみです。
この企画の生まれた「人の森」準備会で、みんなでこれまで見た映画を出し合いました。そこで分かったことですが、若い人ほど映画館に行ってない、そして共通体験の映画がない・・・、ということです。私は同年代の中では映画を見ていない方です。でも彼ら(人の森の若者)の中にいるとまるで映画フリークみたいな感じになってしまうのです。若い人は映画を見ていない、というより映画に影響を受けてない・・・・、と言う感じかな?私たちの若い頃は名画座がありました。お金がなくて、時間がたっぷりあったので、たくさん見ました。それが一般の大学生でした。周りにはすごくマイナーな映画をマニアックに見ていた友人もいましたが、一般大学生は話題作を遅れながらも、マイペースで観ていました。そして仲間とわいわい映画の評価をして、分かったようなことを言い合っていました。
そして塾を初めて、今度は子どもに8ミリ映画を作らせました。授業料を親からいただきながら、その中から予算を組んで制作費に充てました。おもしろい時代でした。もちろん、のりと君たち企画、出演の8ミリ映画が塾に残っています。中1の彼の中に今ののりと君原型をみるのは不思議な感じです。今観ようとすると、彼はとてもいやがっていますが・・・。いつか実現しましょうね。
映画って本当に面白いです。観るのも、作るのも・・・・。フィルムを切ってつないで、音を入れて・・・。何だか時間を切り取り、新しくつないで、別のものをつくっている楽しさです。そこにある世界は作り物です。でも、作った人にとっては超リアルです。「リアルに生きる」・・・これが、その当時の私たちの超かっこいい生き方でした。 30日は5:30会場です。画面は多少粗いですが、みんなで共通体験をしましょう。
今日のコラムは薬害エイズの裁判を書きたかったのですが、うまく書けないので映画になりました。裁判で読み解いていく真実もあれば、映画という作品の中で「超リアル」に読み解いていく真実もあると思います。
今日の無罪は残念です。
2001年3月25日 日曜日
塾の中は見違えるようにきれいになりました。でも、体が覚えている収納場所や家具との感覚が微妙に違い、使い勝手がまだ悪いです。もうすぐ慣れることでしょう・・・。人は変化を体に受け入れながら生きていくのでしょうか?日々細胞が新しくなるように・・。
長い間慣れ親しんだ風景が消えると人はそれだけでキズつくと言われています。あまりキズつくとか、トラウマとか言いたくないのですが、ここであえてキズつくと表現しました。北口開発前の昔の道を正確に再現できますか?私はアメ横や八光ストア付近が浮かんできます。昔の話ですが、イトーヨーカドーの跡地の前で呆然としている老紳士に声をかけられたことがあります。「ここのイトーヨーカドーはどうしたのですか?」と。あまり茫然自失の感じなので、気の毒に思ったことを覚えています。大昔、まだセイユーがあった頃、その斜め前にあったのです。その前にコロラドという珈琲屋さんがあったりして・・・。
小さい頃の風景は自分の体の中に沈殿しています。部屋の模様替えの規模ではなく、大規模な高速な変化に突然、襲われます。そして記憶の中に沈んだ風景と今の風景のギャップにキズついて、帰る場所をうしなった、寂寥感にさいなまれることになります。
先日帰郷した時、まだ私の原風景はなんとか・・・そこにありました。質は変わりましたが、遊んだ山・川はあります。平坦な平和な風景は健在でした。母がいるからかもしれません。
福島の場合、幼児期より親しんだイエズス会の敷地が一部売られ、大きなマンションが建ちました。売り出しは昨年の後半です。地域の景観は一変しました。泣く子とマンションには勝てない・・・・という勢いです。
彼の原風景は着実に消失しました。塾の模様替えから大きなテーマに広がりました。
2001年3月20日 火曜日
塾の中をものすごい勢いで模様替えをしています。花粉症ようのマスクをして完全武装です。一年間のほこりを模様替えで一掃するつもりでやってます。自習室を文庫に、文庫を自習室に改造しようとしています。さっき、のりとが休憩がてら、コラムの更新をしていたので私もほこりっぽい仕事をしばし、避けて更新。
教材はとっておくものと、捨てるもの・・・にすぐ分けられるのですが、人から来た通信物をどうするか・・・。これが問題です。今まで丹誠塾はそのグループが終焉するまで、通信物をとっておく主義でしたが、そんなことをしていたら、収納で教室が無くなります。ここはキッパリ割り切って、いただいて読んだら捨てる・・・。これで勘弁していただきます。今日も10年以上の通信物のバックナンバーを処分しました。当事者の次にファイルしているじゃないかと思うくらい、きちんと揃っています。
自習室が本格的に個人別になり、リニューアルした丹誠塾をお楽しみに。
2001年3月16日 金曜日
中3の息子が今朝「今日が最後の給食」と言って制服を着ています。練馬区は中学校も給食があります。娘の小学校も息子の中学校も自校方式です。6年前娘が小1のとき、私たち親も同伴登校した経緯があるので給食も毎日いただきました。それは工夫を凝らしたおいしい給食でした。廊下を隔てた給食室からほんのり漂ってくるにおいからメニューを考えていました。中でも私が好きだったのは「練馬スパゲッティー」です。きのこや野菜の和風のスパゲッティーに大根おろしをかけたものです。子どもにも刺激が少ない味で和風仕立てのなかなかのものでした。中学も同様、給食は美味しいらしいです。
息子に「おいしい給食を3年間ありがとう・・・って給食のおばさんに言ったら・・・」と言うと、「3年間同じ人が担当しているわけじゃないから・・・・」という答え。
これからは「最後の○○」がたくさん待っています。息子にとって小4から通った丹誠塾も今日で最後。そして、来週の月曜は卒業式。セレモニー全般が苦手な山下です。そのうえ君が代・日の丸が堂々と展開される雰囲気も気が重いですが、息子の成長の節目を祝う意味で出席します。
『どうやってお別れするか・・・それが今までのつきあいの本当の姿を表している』
きのう、私の小6英語の最後の日に、丁寧なお手紙を2人のお母さんからいただました。「ねぎらう」という気持ちを上手に伝えていただきました。
福島は今日の中3最後の授業に向け、いろいろ画策中。
「いろいろお世話になりました。ありがとうございました。」といいながら、それまでの関係を大切に振り返っているお互いがあると感じます。
今日で今年度の授業はラストです。お別れする人たちへ・・・。
『いろいろたくさんの共有体験をしましたね。2000年4月~2001年3月の出来事は大切に心にしまわれました。私たちの共通の宝です。時々解凍して取り出せるくらい強烈な体験でした。』
2001年3月13日 火曜日
私は土いじりが好きです。一番のものは「やきもの」です。若い頃、手ほどきを受けた師匠のマネをして、灰から釉薬をせこせこ作って、一人満足しています。灰を細かくしたり、干したり、調合したりしている姿を、知らない人が見たら、理解不能だと思います。単純作業の果てしない繰り返しで、どこが面白いのかと思うほど、とんでもなくヒマ人の仕事なのです。
そして、こんな春風の吹きはじめる時期、暖かさを感じるとぼちぼちやきものの季節かな・・・と感じ始めます。でも、やきものへ腰をあげる前に、手軽な植物いじりで満足してしまう毎年でした。恒例の仕事はチューリップです。ご近所の方に誉められて調子に乗ってから10年。毎年、いろんなタイプのチューリップをプランターに植えて春を迎えます。
今年はやきものにも腰をあげて新しい釉薬を作ってみようかとおもっています。灰はたくさんあるのです。今年度の「感覚教育研究会」の一環で「ぐいのみ」をつくり、やっとこの2月に焼きました。塾の窯はまだ健在です。
2001年3月7日 水曜日
荻窪に買い物に行きました。タウンセブンの魚屋さんは見るだけでも元気が出ます。八百屋さんに花わさびが並んでたので、少々値段は高かったけど「えいっ」と買いました。今、ゆがいた後タッパの中で眠っています。夕方になるとピリピリ辛みがでて仕上がっている予定です。
梅、梅と思いつつ、四万温泉に行ってしまったのでまだ、梅の香は思いっきりは、かいでいません。我が家の小さな梅は散り始めです。吉野の梅郷はもう見ごろでしょうね。車で梅のそばを通ると福島がすかさず、ウィンドウを下げています。
2001年3月4日 日曜日
久々に休日をし、群馬の四万(しま)温泉へ行って来ました。2度目の四万温泉です。前回は町営の「清流の湯」に入りましたが、今回は旅館「たむら」の日帰り入浴を経験しました。
「たむら」は温泉街の一番奥に位置する、古い旅館です。四万温泉そのものが500年以上の歴史を持つ、日本古来の湯治場の雰囲気を残す古い温泉ですが、その中でも「たむら」は江戸時代の建物を残しつつ、改築した本格派の旅館です。特に玄関が秀逸。 お湯はどれにも自由にはいれます。お隣の四万グランドホテルのもいれると10以上の内湯・露天が楽しめます。でも、そんなに身体が持ちません。福島が5つ、私が4つが限界でした。
四万の湯は四万の病に効く・・・・ということからつけられた名前だそうです。この湯は出てからがすごい温泉効果がやってきます。温泉にくる前に「ここが凝る・・ここが痛い」と思ってなかったところが、温泉後にはっきり出てくるのです。最近の疲れというより、積年の疲れ・凝りを温泉が奥からわき出させているみたいです。だから、まず疲れます。「たむら」の随所に用意されたラウンジでゆったり休んでまた違うお湯に挑戦します。
温泉効果の実感は各人の感覚でしょうが、「たむら」で共通体験できるのは「お湯の演出」です。その中でも露天の『音』と「檜風呂」での『光』は最高のものです。「檜風呂・御夢想の湯」は服を着てから退室する前にもう一度のぞいて、その光の空間を眺めて楽しみました。露天の音とはもちろん川の小さな滝が作り出す、自然の音楽です。
山梨の小菅の湯に足が向かなくなってきた今、四万の熱烈なリピーターになりそうな予感とともに帰ってきました。参考までに四万温泉情報を。上石神井の自宅から片道3時間。関越渋川伊香保より中之条方面へ、353号で40キロ。「たむら」の日帰り入浴1600円。11:00~16:00まで。軽食はラウンジで。本格的な食事は20名以上で予約して。
次回予告。四万温泉を楽しみがてら、温泉横の「水晶山」で本当に水晶が拾えるか、歩いてみます。できたら、共同浴場のお湯も体験してみたい。四万温泉の山の道を三国街道にぬけて、苗場の山荘に泊まります。どうです。ダイナミックな計画でしょう?
2001年3月1日 木曜日
今日から3月です。先日の都立発表はみごと全員合格でした。ふくせんの緊張もピークで喘息気味になっていました。毎年この時期はそうなのです。
きのう「おでんの日パートⅡ」で、子どもたちをはじめ、たくさんのお母さん、お父さんがみえて、塾の玄関は大にぎわいでした。牛すじの関西風おでんは今日も補充してお分けします。
ひさしぶりの塾通信の発行です。一部をHPでもご紹介します。今号から登場のページや新しい企画の紹介などもあります。今日印刷予定です。近々お手許に届くことと思います。
2001年2月26日 月曜日
きのう、娘の進学予定先の区立の中学校で制服の採寸などがありました。体育館ばきを買ったり、夏服を注文したり、体育着を買ったり・・・・、新しい生活に向けて準備です。娘はもうどきどきです。3年前の息子の時は母親もどきどきしていました。今回は・・・。娘には申し訳ないけど、余裕の母です。
でも、ここで用心。6年前は小学校に入ったばかりの娘が1ヶ月の間にみるみる萎(しな)びて、エネルギー切れを起こし、結局不登校の末、福島と同伴登校に至った経緯があるので・・・。子どもに油断してはいけないのです。興味のある方は「悩める部屋」のトライ☆アングルの記録をダウンロードしてお読み下さい。油断した結果、ひどい目にあっている私達夫婦の闘いの記録です。
2001年2月22日 木曜日
やっと都立入試が終わり、宣伝の準備も一段落です。これからは新しい出会いが待っています。
今日、あまり暖かいので塾に来る途中、武蔵野中央公園でほんの少し時間を過ごしてきました。小さな子がたくさん遊んでいました。その時、ハトがすごい集団になって飛んできました。その下にいると急に日光が陰るくらいの集団でした。ハトたちはすばやく一本の木にとまり、次の行動を考えています。ちょっとびっくりしてヒッチコックの映画を思い出したりしました。子どもたちも興奮してハトの集団を見上げています。「あ~、この子らはこのハトの陰をずっと覚えている訳じゃないけど、確実に記憶のどこかにしまわれたなぁ・・・。暖かい日の光の下で急に陰る瞬間を・・・。」そんな話をしながら、福島と20分ほど日だまりにいました。
2001年2月18日 日曜日
週に2回は更新しようと思っていましたが、間があいてしまいました。自宅のNIFTYが繋がらなくなって5日間困っていました。、今朝やっと繋がって、「番号が変わりました・・・」とか細い声でいうのです。こんな事ってありですか???詳しい人教えて下さい。ハイパーロードにつなげるための番号だと思いますが、勝手に変更しておいて、ずっと話し中でほっとかれるなんて・・・。ビジー、ビジーっていわれると昔のウイッキーさんの英会話を思い出します。この話の通じる人は30才以上でしょう。(ズームIN朝のひとつのコーナーで出勤の人にウイッキーさんが話しかけ、英会話に自信のない日本人が無視して去ってしまう・・。その後ウイッキーさんは悲しそうに「He is busy.」といってあきらめる・・・。)
なんだか、山森話がぐち話や昔話になってしましました。
福島ともう少し受験や募集が一段落したら、梅の香りを楽しみに行こうと行っています。近いのは、やはり吉野の梅林でしょうか?小金井公園の梅はもう開いているよとの情報はいただきました。桜より観梅派の私達に是非いろいろな情報をお寄せ下さい。梅と温泉がセットなら、なお良し。地酒もセットなら、もっと良し。
2001年2月13日 火曜日
事情があって、田舎に帰りました。兵庫県の瀬戸内の海に近い山際の土地です。広がる景色は「明るい・乾燥・石がたくさん・高層のものがなく平坦・・・・雲がきれい・・」こんなイメージです。ここで山といえば、石が勝っている山。松が青々として石の白を引き立てている。そんな山です。
私の父は生前石を商っていました。黄・赤・青といろんな色の石がありました。私も幼い頃、石ころで遊んだ記憶があります。
今回の帰郷の課題は「私の原風景」だったようです。少しこのことについて考えてみようと思って帰ってきました。
2001年2月8日 木曜日
ホームページをこまめに見ていただいている方は、もうごぞんじでしょうが。のりとに続いて福島・山下が倒れました。風邪なのか牡蠣にあたったのか、それともその両方なのか・・・。
今は受験生の最後の追い込みの時、福島は身体から悪いものを追い出すイメージをつくり、ひたすら眠っていました。
山下は塾生たちと『おでんの日パートⅡ』の約束が守れず、後日に延期となりました。タッパを持って買いに来てくださったお母さんもいたのですが・・・。あの日の夕食はどうなったのでしょう?
2001年2月2日 金曜日
忙しくて山や森に行けません。受験生の追い込みや塾の新規募集の仕事が追いつかないのです。HPの事でパソコンをいじる時間も長くなりました。そうすると目から来る肩こりや背中こりがやって来ます。そこで見つけたのが小平の温泉です。青梅街道をまっすぐ田無から30分弱で行けます。平日800円。天然温泉で昨年の12月オープンなのでまだ綺麗です。
2001年1月28日 日曜日 4:20:16 PM
HP見たよ・・。とたくさんの人から反応をいただきました。中にはお叱りの言葉も。代表は「ふくせんにメール出したのに山下から返事が来た。」「ふくせんへのメールは山下とアドレスが同じ。これじゃ山下の悪口をふくせんに書けないじゃないか・・。」などです。これから考えて善処します。
2001年1月24日 水曜日
このコーナーでは山下があっちこっち行って、見たり、聞いたり、食べたり、採ったり、感じたりしたことを報告します。山下の傾向が色濃く出るかもしれません。よろしくおつき合い下さい。